第30話 雌伏
砂海軍省に呼び出されたミニッツは、今回も大東砂海艦隊司令長官の内示は断るつもりだった。
砂海軍に奉職した誰もが目指す椅子だったが、この難局を自分に乗り切る力があると考えるほど、ミニッツは自信家でも楽天家でもなかった。
以前同様、砂海軍長官と作戦本部長に呼び出され、二人の前でミニッツは用意してあった辞退の言葉を口にした。
「この難局に私にこの仕事が勤まるとは思えません。
何よりも将兵を鼓舞し、ソルに立ち向う勇気を取り戻させるには、ハージィのような猛将が適任です。
私は、かつて潜砂艦に乗り組んではいましたが、この六年間はどちらかといえは航海局の仕事が多く、現場で先頭に立てる器であるとは思えません」
控え目に言ったミニッツに対し、難しそうな顔で考え込む砂海軍長官を尻目に作戦本部長が静かに口を開く。
既に決定したことを優しく説明する気などないという表情で、作戦本部長はミニッツを見つめた。
あまりにも有能すぎ、歯に衣を着せぬ発言を繰り返してきたこの男は、砂海軍内に味方などただのひとりもいないことを自覚している。彼を作戦本部長に抜擢した大統領ですら、彼の能力を買っているが、人間性は毛嫌いしていた。もちろん、仕事を遂行する上で必要なものは能力だけと割り切っていればいいだけで あり、作戦本部長自身も仕事する上で友人など不必要と考えていた。
この場は大統領の希望という名目の命令を伝える場であり、ミニッツを説得する場ではない。
作戦本部長はドライアイスのような、冷厳とした目つきでミニッツを見据えている。
「もともとメルイィの後任には、君と大西砂海艦隊司令長官の二人が候補に上がっていた。
潜砂艦戦のエキスパートでもある君を、アレマニアの潜砂艦がうようよしている大西砂海艦隊司令長官にして、彼を大東砂海に回すことも考えた。
だが、この人事は大統領閣下のご希望でもある」
そう言って、作戦本部長は面倒くさい説得の役を、上司でもある砂海軍長官に押し付けた。
「ミニッツ君、謙遜は不要だ。
君は航海局長の職に長くあり、人物を見る目は確かだと私たちは考えている。
今、大東砂海艦隊に必要な指揮官は、ハージィのような闘将ではなく、君のような落ち着いた人物だ。
怒りに我を忘れた将兵や、卑怯な騙し討ちの結果とはいえ、無残に敗れて落ち込む将兵を落ち着かせ、元通り統率の取れた軍に再編するには、君のようなバランス感覚に優れた人物がどうしても必要なのだ」
既にミニッツは、大統領の希望というひと言で辞退を諦めていた。
確かにハージィはオリザニア砂海軍で並ぶ者のない闘将だが、この状況で彼を司令長官に据えることは危険だった。怒りに我を忘れ、勝ち目のない敵に先頭を 切って突っ込んでいきかねない。有力な艦を失った状態で、世界第三位の砂海軍に勝負を挑むことは勇気ではなく蛮勇だ。ハージィの高い戦意は必要だが、首に 縄をつけておかなければ、どんな落とし穴にはまるか分かったものではない。ミニッツも、それは痛いほど解っている。
これ以上断り続ければ、大統領自らが説得に出てくるだろう。
それは既に説得ではなく、命令だ。
いや、今回の内示自体が、命令と言っていいだろう。
ミニッツは、運命を受け入れることにした。
その頃、ソルによるハトー攻撃の調査委員会に召喚されたメルイィはハトーを離れていた。
大東砂海艦隊司令長官を解任された上に大将から少将に降格され、副官を伴うこともなく、同じく少将に降格された騎兵軍のタンとともに、本土への飛空艇に 乗り込んだ。後任のミニッツとは、簡単な引継ぎだけで事務処理を済ませ、後を振り返ることなくメルイィはハトーを去っていった。
メルイィがハトーを去り、次期司令長官が着任するまでは、メルイィの次席指揮官だったアムハ中将が敗残の兵を率いることになっていた。
突然押し付けられた至高の地位に、彼は戦慄した。
メルイィですら勤まらなかった仕事を、自分が完遂できるとは思えない。自暴自棄になりがちな兵をまとめ、再度襲い来るであろうソルの恐るべき機動部隊に 対する備えをしなければならない。さらには襲撃を受けたコーセキは大東砂海上の要衝であり、これを放置するわけにもいかず動かせる兵力を急遽派遣していた。
そこへあらゆることに戦々恐々とした哨戒部隊から、敵潜砂艦や偵察機を発見したという報告が五月雨のように続いて入る。
凶暴な肉食獣に脅える草食獣のような心理状態に置かれたアムハは、場当たり的な命令を出しては、舌の根も乾かないうちに撤回することを繰り返していた。
二六四一年一二月一七日にオリザニア砂海軍大東砂海艦隊司令長官に就任したミニッツが副官をたった一人だけ伴いハトーに着任したのは、オリザニア砂海軍にとって最悪の年が終わる一二月三一日だった。
年が改まった翌日から、新年の休暇をとることなくミニッツは精力的にハトーの基地内を視察した。
数日の視察で彼は、ほぼ正確にハトーにいる将兵の心理状態を把握していた。
友や尊敬する者を失った彼らは、『何としてもこの借りは返したい』と思う気持ちがある反面、無残な敗北に打ちひしがれて将校クラブで憂さ晴らしの酒を飲んだくれていた。
メルイィがハトーを去る前に彼を通して伝えられた砂海軍省からの命令は、もしソルが責めてきたら迎撃、それ以外で攻勢に出ることは禁ずる、というもの だった。これがただでさえ沈みがちな将兵の気持ちをさらに沈め、やるせなさと悔しさ、戦友の仇を討てない無力感から必要以上のアルコールを消費させている。
幾度か将校クラブに顔を出したミニッツに、将兵は力なく形だけ敬礼し、碌に目を合わせようともせずグラスを煽り続けていた。
このままでは早晩ハトーの将兵全てが使い物にならなくなってしまう感じたミニッツは、ある晩に純白の第二種軍装に身を包み将校クラブのドアを潜った。
「諸君、私が新しい司令長官だ。
ところで、私は何で海軍に入ったかと言えば、私は内陸の片田舎生まれだ。
子供の頃、初めてエビという生物を本で見たとき、私はこの生物に大変興味を持ったものだった。
その本には、エビが砂海に点在するオアシス湖の王者だと書かれていた。
そして、いつだったか、私の誕生日に両親が奮発して、ディナーのメインディッシュに選んでくれた。
それ以来、私はエビが大好物になり、よし、それでは砂海軍に入ってオアシスの王者というヤツをつかまえて、たらふく食ってやろうと思ったんだ」
訓辞というには余りにも異様だ。
だが、将校クラブという酒の席でもあり、ミニッツは生まれ故郷の田舎訛り丸出しで話していた。将校たちはミニッツが親睦のために馬鹿話を始めたと思いこみ、爆笑と拍手が巻き起こる。中には指を口に当て、指笛を鳴らしてはやし立てる者すらいる。決して司令長官に対して取るべき態度でも、司令長官としての振る舞いでもなかった。
だが、こうした将校たちの反応に、ミニッツも微かに笑みを浮かべて辺りを見回している。
しかし、次の瞬間、ミニッツは一瞬にして厳しい目つきに変貌し、威儀を正し、語調を変えて話を続けた。
「エビは体の甲羅が生え変わるときは、岩の間に入ってじっとしているものらしい。
諸君、我々の情勢は悪い、それは理解している。
だが、それはエビが古い甲羅を脱ぎ捨てるため、ひと時岩陰に潜むことと同じだ。
今は、甲羅が生え変わるのを待たねばならない時だ。
そして、硬く新しい甲羅には、できるだけ早く生え変わらねばならない。
戦争には時というものがある。
その時が来るまでは、じっと潜んで耐えなければならない時がある。
時至れば、我々は古い甲羅を脱ぎ捨て、新しい大東砂海艦隊として生まれ変わろうじゃないか。
そのときが、そのときこそ、オリザニア共和国に勝利をもたらす第一歩となるだろう」
次の瞬間、すべての将兵がイスを蹴り飛ばして立ち上がる音と、軍靴のかかとを打ち合わせる音、威儀を正してミニッツに敬礼する軍服の衣擦れの音が部屋を満たした。
もう、誰も笑う者はいなかった。
機動部隊の旗艦空母『コッヴ』は、コーセキ攻略戦真っ最中の一二月二三日午後六時半に西工廠泊地に投錨していた。
当然ナンクゥを始めとした司令部は、ゴトム連合艦隊司令長官御自らの出迎えとねぎらいがあると信じていた。連合艦隊旗艦戦艦『アーストロン』が停泊して いることから、ゴトムがそこにいることは間違いない。帝都に出張することもあるだろうが、世紀の大作戦を成功させた英雄たちの帰還を、無視するなど考えられないことだった。
だが、『アーストロン』を離れたランチから『コッヴ』に乗り込んできたのは、ガッキ連合艦隊参謀長だけだった。
ゴトムは『コッヴ』の入港を聞くやガッキを呼び、怒ったような口調で出迎えとねぎらいのために『コッヴ』に行くように命じた。いつもの悠揚迫らずといった、ゴトムらしからぬ態度にガッキは思い当たる節がある。
ハトー奇襲作戦を実行する間に、連合艦隊司令部と機動部隊司令部の間に起きた感情的な対立だ。
ハトーに向けて出撃するまで、両者にそのような気配はなかった。
だが、機動部隊が一応の成功を収めた瞬間から、両者の間には埋め難い溝が掘られ始める。
機動部隊にしてみれば、実際に砲火を潜り抜けて戦果を上げたのは自分たちだという自負がある。それに対して連合艦隊司令部は、機動部隊が戦果を上げることができたのは連合艦隊司令部の指導があってこそだという自負がある。
作戦を構想し、練り上げた世界に誇る壮挙を達成した立役者は機動部隊だけではない。
上位機関の立場を蔑ろにするような真似は、何があっても許さないということだった。
そして、第三次攻撃の中止と、早々にハトーから離脱してしまった腰が引けたとしか思えない機動部隊の行動が、感情的な対立を決定的にしていた。
西工廠泊地に投錨した『コッヴ』にガッキ参謀長が乗り込んできたが、そのような経緯がある以上、歓迎する雰囲気はほとんどなかった。
「長官、この度の壮挙、真に以てお見事と申し上げるよりございません。
おめでとうございます。
心よりお祝い申し上げます」
ガッキ参謀長は『コッヴ』の長官公室に入り、ナンクゥ長官に祝いの言葉を述べた。
「参謀長、ありがとう。
全将兵を代表して、未だコーセキで戦っている二航戦もだが、御礼を申し上げる」
硬い表情のまま答えたナンクゥに、ガッキは深々と頭を下げた。
そして、傍らに控えるカリュウ参謀長に手を差し伸べる。
「カリュウ、おめでとう。
よくやってくれた」
ガッキの言葉に、カリュウはしばらく黙り込み、なかなかその手を握ることはしなかった。
このとき、ナンクゥとカリュウの胸中には、期せずして同じ思いが去来している。
なぜ、ゴトム長官は出向いてこないのか。
出撃の時には、『コッヴ』の飛行甲板に立って悲壮な激励の辞を贈ってくれた長官は、なぜ参謀長だけを寄越すだけで自らは出向かないのか。
史上稀に見る成功を収めて凱旋した今、ゴトム長官には『コッヴ』に出向いてねぎらって欲しかった。機動部隊司令部は割り切ることも可能だが、現場で戦った将兵が蔑ろにされたと思いかねない。たったひと言でもよかった。連合艦隊司令長官のねぎらいがあるだけて、将兵の苦労がどれほど報われ、志気が上がった か。
ふたりの将官は、そう思いながらガッキと対峙していた。
「ガッキ参謀長、長官はこられなのですか?」
やはり我慢できなくなったカリュウが、ついにそのことを口にする。
「長官はな……
今夜はもう遅いので、明日来られる。
その前に、ナンクゥ長官には『アーストロン』に御足労いただかなければならんが。
まあ、とにかくおめでとう」
ガッキは思わず言葉を濁す。
だが、射るようなカリュウの視線から目を逸らすことなく言葉を続けた。
「いや、天佑神助の賜物ですよ」
ふざけるな、という言葉が喉元までせり上がってきたが、士官学校で一期上、上級司令部の参謀長に対して許される振る舞いではない。
あらん限りの自制心を振り払い、カリュウは必死に言葉を飲み下し、平静を装って謙遜する。
「ですが、ありゃ何です?
帰りにミルドウィを攻撃しろというのは。
もともとの作戦命令にないことを、いきなり付け加えられちゃ困りますなあ」
せめてこれくらいはとカリュウは言った。
「いや、命令作第一号に出ていたはずだぞ」
いかにも心外という表情を浮かべ、ガッキが言い返す。
普段から傲岸不遜な表情を崩すことなく、黄金仮面と揶揄される男が珍しく弱気な表情を見せた。
「あれは、敵の攻撃に対して大なる考慮を要せざる場合、という条件だったでしょう。
こちらは魔通封止中ですからね。
もっと現地の状況を考えてもらわなければ困りますよ」
腹の虫が治まらないカリュウが、さらに噛み付く。
ナンクゥはことの成り行きを、ガッキ同様困ったような表情で眺めている。
言いたいことは山ほどあるが、開戦初頭でそうそうに司令部同士の溝を広げるのは得策ではない。
カリュウをたしなめ、場を納めるタイミングを計っていた。
「いや、すまんことをした」
ナンクゥの心中を察したかのように、ガッキは滅多に下げたことのない頭を下げる。
普段の挨拶ですら、下級将校からの敬礼にすらそりかえり、頭を下げていたことにしてしまうほどだった。と言って頭を後ろにそらせるのであった。
そのナンクゥの前とはいえ、一期下のカリュウに対してガッキが頭を下げたことでこの話はうやむやになり、機動部隊司令部に対する連合艦隊司令部の慰労訪問は終わりを告げた。
『偉勲を立てて帰ってきたので、意気当たるべからず。
だが、空母の二隻もなくして帰ったら、ああもゆくまい』
ガッキは余程癪に障ったのか、『アーストロン』に戻った後、その日の日記にそう書き記した。
翌二四日、ゴトム司令長官は、帝都から来たノシュウ軍令部総長とともに、空母『コッヴ』を訪れた。
ゴトムは『コッヴ』の舷梯を登り、艦内に一歩踏み入れたとき、将兵たちの間に士気よりも驕りが蔓延していることを感じ取る。
ゴトムは、赤城の長官公室に参集した各級指揮官の顔を、答礼しつつ端から眺めていく。
機動部隊司令部の一部には、わずかな怒りと不信感が浮かべている顔が見られた。だが、多くは壮挙を成し遂げた充実感ではなく、過度の礼賛を求める期待に満ちた驕りを隠そうとしても隠し切れていない顔が並んでいる。
それは当たり前だ。
過去に例を見ない片道三五〇〇海里の長征を、たった一艦の損失も出さず成功させてきた。
挙げた戦果は敵戦艦八隻の撃沈破に対し、我が方の損害は未帰還機二九機、戦死者五五名に過ぎない。
誰に対しても、誇って良い快挙だ。
おそらく、いや、間違いなく、世界最強の機動部隊と言っても過言ではない。
それ故に、ゴトムは手放しで褒めることを止めた。
「緒戦には幸いに一勝できたが、戦争は長期戦であり、これからが真の戦いである。
幸運の一勝に驕ってはいかん。
勝って兜の緒を締めよ、という言葉を忘れてはいけない。
勝利を得て凱旋したなどと考えてはいかん。
次の戦闘準備のため、一時帰投したのである。
一層戒心して事に当たるよう希望する」
誉めることも、労苦をねぎらうこともない。
叱咤激励ではなく、叱咤でしかない。
浮かれ気分が蔓延していた『コッヴ』の長官公室に、冷たい風が吹き抜けた。
「話が違うじゃないですか、リューモさん!」
軍令部第一部長室にカリュウの怒声が轟いた。
その部屋の主は、カリュウの剣幕にタジタジになっている。
本来であれば、士官学校の一期下にそのような口を利かせる謂われなどない。だが、今は自分の言葉は嘘だったことが証明され、それを責められている。
正に、自業自得の舌禍といったところだった。
「リューモさん、あなたは確かに言いましたよね!
『ハトー攻撃が成功したら、全員二階級特進させるから、必ず成功させてくれ』って!
それが今更嘘でしたなんて、どの面下げて搭乗員たちに言やぁいいんですか!」
カリュウは、部下に対して空約束をすることになってしまったと、自分の面子に拘ったわけではない。
もちろん、作戦が成功したからといって、本当に二階級特進が実現するとも思ってもいなかった。
当然、実際にハトーで敵弾を潜り抜けてきた将兵たちもだ。
軍人である以上、戦うことは職業であり、戦果に対しては俸給と手当で報われている。
作戦のひとつやふたつ成功させたからといって、その度に二階級特進を乱発していては、軍という組織が崩壊する
だが、今回カリュウの怒りに火を点けたのは、リューモの言葉がその場限りの口約束でしかなく、上奏さえされていなかったことだった。
カリュウはリューモがどう落とし所を見つけるか、困った顔でも見てやろうと思ってわざと聞いてみたのだった。
せいぜい、常識と規則を盾にして却下された、くらいの答えを期待していた。
だが、返ってきた答えは、上に話もしていないという、予想すらしていないものだった。
「カリュウ君、今回のことは済まんと思ってる。
少しでも士気の高揚になればと、考えてのことだったんだ。
ここは、ひとつ勘弁してくれ」
リューモはいかにも申し訳ないといった表情で、カリュウに懇願する。
これ以上言い募ったところでリューモが本当の意味で反省するとは思えないカリュウは、見事な姿勢で敬礼すると、何も言わずに部屋を出ていった。となったのである。
ハトー攻撃とサピエント戦艦撃沈の大成功に、ソル内地では軍人も国民も一緒くたに熱狂歓喜の渦に巻き込まれていた。
もちろん手放しで喜んでいてはいけないと警鐘を鳴らし、航空機の威力を目の当たりにして敵空母を打ち漏らしたことに危惧を抱くゴトムや航空関係者もいる。
そして航空機に対して過剰な期待を抱く者、逆に異常なまでの対抗意識を抱く者もいた。
戦艦主体の連合艦隊司令部と機動部隊司令部の間に、埋めがたい溝が掘られることは、自然な成り行きだったのかもしれなかった。
エルミを乗せた第二航空戦隊旗艦を務める空母『デットン』が、母港の南工廠泊地に投錨したのは、そのような空気が砂海軍に広がり始めた一二月二九日のことだった。
「ファルは、お家に帰るの?」
上陸を前に、艦に残ることになったファルに、エルミは残念そうに言った。
通常であれば新年祭の休暇は三日間だが、ひと月以上に及ぶ航海と、作戦成功へのねぎらいを込めて、全将兵には六日間ずつの休暇が認められていた。
もちろん全員が同時にではなく、半分ずつに分けて休暇を取ることになっている。
「うん、ボクは帰るよ。
やっぱり元気な顔を見せてこなきゃ。
エルミも帰るんでしょ?
この機会に結婚を申し込んできなよ」
後発組のファルがからかいながら答える。
「ちょっと、なんで、それをここで!?
そう言うファルこそ、どうなのよ!?」
顔を真っ赤にしたエルミの慌て振りに、周囲から冷やかしと応援を含んだ笑いが弾けた。
「ボクは皇国にこの身を捧げたんだよ。
君みたいに想い人も、レグルみたいに許婚もいないし、結婚はないね」
どこからか、歓声と悲鳴が重なり合って聞こえた。気がした。
ルックゥの戦死に打ちひしがれていたふたりだが、七日間の航海のうちになんとか心の整理をつけていた。
ルックゥを失った悲しみはもちろんだが、いつ自分たちも撃墜されるか判らないという恐怖は今でも拭いきれていない。だが、上官や階級は下でも先輩に当たる搭乗員たちの話を聞き、これが戦争なんだとある程度は割り切って考えるようしていた。
「じゃあ、ちょっと羽伸ばしてくる。
お土産は期待しないでよ」
そう言ってエルミは『デットン』をあとにした。
ほぼ丸一日夜行浮遊車に揺られて帝都まで戻ったエルミは、いつものホームでレグルの姿を見つけた。
レグルは眠たげな目を擦りながら、ひとりで浮遊車の入線を待っている。
ちょっとした悪戯心を掻き立てられたエルミは、気配を殺してレグルの後ろに立つ。
迎撃機や対空砲火を掻い潜ってきたエルミに比べ、艦底で主砲指揮所に詰めているレグルは殺気を感知する能力が磨かれていない。エルミが後ろに立ってから 五分が経過しても、ただ誰かが後ろに立っただけだと想っているようだった。手元の新聞に目を落とし、文字を追うことに集中しているのも、エルミの気配を感 知できない理由のひとつだった。
いきなり、エルミは自分の膝頭を、レグルの膝の裏に軽く押し付けた。
「何をする、貴様」
軍人としてあるまじき慌て振りを見せてしまったレグルが、何とか態勢を立て直し振り返る。
「いいじゃない、誰も見てなかったし。
それに、五分も私に気付かないなんて、飛行士官だったら真っ先に撃墜されちゃうよ」
少しだけ頬を膨らませ、それでも目は笑っているエルミが返す。
「やかましい。
俺は砲術だ。
それに男は一辺にふたつのことに集中できないんだよ。
新聞くらい、集中して読ませろ。
さっさと声かけりゃいいじゃねぇか」
頬を引き攣らせながらレグルは答えるが、目は笑っていた。
「ところで、村には知らせたの?」
走り出した浮遊車の席に納まり、エルミは聞いた。
「ああ、昨日工廠を出てすぐ、魔報で知らせてある。
その言い方だと、お前は知らせてないのか?」
新聞を脇に置いたレグルは、何を当たり前のことをといった口振りで答える。
「なんでそんなことしちゃうのよぉっ!
せっかくガルを驚かせてやろうかと思ってたのにぃ!」
エルミは頬を膨らませて言う。
「お前なぁ、いくらなんでも、そりゃぁ迷惑ってもんだろ。
それに俺とお前が一緒に帰るって知らせたわけでもなかろうに。
それより、親父さんたちに恥かかす気か?」
呆れ顔でレグルが返す。
「どうしてよ?
普通に帰るだけでしょ?」
エルミは自分の立場がよく解っていない。
「あのなぁ、自分で言うのもあれだけどな。
俺たちの立場ってもんがあるだろ。
だいたい、お前の兄さんが帰ってきた時だって、村を挙げての歓迎会じゃないか。
下士官ですらそうなんだ。
士官である俺たちが帰ったとき、何の準備もしてませんでしたなんてことがまかり通るわけないだろ」
この時代、少尉などという下級士官であっても、それを輩出したなど村の誉れといってもいい。
帝都やそれに連なる都市部であっても、一定の尊敬を集める立場だ。地方であれば、その地の名士の一人に数えられてもおかしくない。
そういう立場の者が誰にも知らせず村に帰るなど、親の立場や面目といったものを失わせるに等しいことだった。
「レグルのほうでやってくれるんだから、私はそれに便乗でいいよ。
だいたい、このご時世で私のためなんかにお金使って欲しくないもん」
当たり前すぎる指摘を受け、慌てたようにエルミは取り繕った。
「そういうわけにいくか、莫迦。
お前はそれでいいかもしれないけどなあ、お前の家は親子仲が悪いって後々後ろ指差されるのは、親父さんたちだぞ。
乗り換えのとき知らせてこい」
浮かれて忘れてましたった言っとけよ、とレグルは続けた。
「ちぇっ。
ガルのこと、思いっきり驚かせてやろうって思ってたのに」
親に迷惑は掛けられないと、エルミは乗り換えのターミナルで時間待ちの間に魔報を実家に送った。
「もうね、莫迦かと。
エルミは今年幾つになったんだっけ?」
村の駅で出迎えたガルが、開口一番エルミに言う。
「煩いわねぇ。
ちょっと忘れてただけじゃないの。
ようやく家に帰れるんだよ。
少しくらい浮かれて発っていいじゃないの」
悪企みを打ち砕かれたエルミが口を尖らせる。
「それより、早くみんなに挨拶なさいよ。
レグルも」
久し振りに心の底から笑えたチェルが二人に言った。
「皇国砂海軍少尉、エルミ、ただいま、ハトー遠征から戻りました」
「同じく、皇国砂海軍少尉、レグル、ハトー作戦より帰還いたしました」
駅舎に割れんばかりの拍手と歓声が沸き、いつしか万歳の唱和へと代わっていった。
村中を巻き込んだ嵐のような、歓迎会と祝勝会が一緒くたになったような宴が終わり、新年を迎えた村はいつものような表情を取り戻していた。
新年際の二日目、チェルの宿に幼馴染みの四人が集まった。
通常であれば新年際の二日目三日目は、一年を息災なく過ごせるように家族と祈りつつ静か過ごすのが普通であったが、今年に限っては誰もが四人の行動を大 目に見ている。この四人が揃って顔を合わせる次の保証がないことは、戦争が始まった今では誰もが認識しているからだった。
宿泊客の心配をする必要のない厨房に、チェルとアレイが入っている。
そこから程近い六人がけのテーブルには、エルミとガルが向き合って座り、ガルの横にはレグルが陣取り、その横にちゃっかりついてきたリーンが大人びた顔ですましている。
エルミの横には誰も座らず、いずれ料理が揃えば来るであろうチェルの席と、アレイの席が開けられていた。
「今日はね、遠慮なくやっちゃって。
今まで磨いてきたあたしの腕を見せてやるんだから」
メディエータ北部で一般的な、片手のフライパンに似た鍋を振り上げ、チェルが厨房から四人に声をかける。
「俺だってがんばってきたんだ。
どっちが旨いって言ってもらえるか、勝負しようぜ、姉ちゃん」
チェルが持つ鍋より一回り大きな鍋を振り回し、アレイがチェルに言う。
「審判は引き受けてやるよ。
俺とエルミと、あとリーンな」
ガルが楽しそうに答えた。
「なぜ、俺を外す?」
どうせ答えはわかっているという顔で、それでも一応レグルは文句をつけた。
「だって、偶数じゃ票が割れるし。
それに、レグルはアレイがどんな美味しいの作ったって」
ここまで言ってエルミは噴き出した。
「どうせそういわれると思っていたよ。
ああ、俺はどんなもの出されようと、チェルの料理が一番旨いと思ってるぜ」
僅かも照れることなく、レグルは惚気て見せる。
「ちょっと、どういうことよ、レグル。
どんなもの出されたってって、あたしが碌でもないもの出すように聞こえるじゃない」
冷たい笑みを浮かべたチェルが、メディエータ包丁を片手に厨房から出てくる。
「いや、お前、何、そんな物持って……
だから、アレイがどんな旨いもの出したってって意味だよ。
だから、その物騒な物は厨房に置いてこい」
半ば本気で顔を引き攣らせつつ、レグルはチェルを宥める。
「兄ちゃん、その言葉訂正するなら今だからな。
兄ちゃんが村を出た頃のおれじゃないんだ。
姉ちゃんがいなくなって、客足が落ちたなんて言われたくないからな」
大衆活劇に出てくるような悪役顔をわざと作り、芝居がかった口調でアレイがまぜっかえす。
「はいはい、莫迦な真似はこのくらいにして。
ちゃっちゃと作っちゃいましょ。
始めるよ、アレイ」
包丁の峰で軽くレグルの頭を小突いてから、チェルは厨房に戻り、下拵えを始めた。
チェルとアレイがニラとキャベツを微塵切りにし、よく叩いた豚肉のミンチに軽く酒と塩を振り、半分に分けそれぞれ粘りが出るまで混ぜ合わせ餡を作る。
小麦粉を練り、直系八センチほどに伸ばした皮に餡を取り、片側にひだを付けるようにして包み上げ、そのうちチェルの分分は焼き上げ、アレイの分は蒸し上げる。
アレイがボウルに割った卵四個に酒、塩、コショウしてよく混ぜ、溶き卵を用意し、オアシスで採れるカニを下茹でする。その間に、チェルは長ネギ、エノ キ、タケノコ、ニンジンを千切りにして軽く油通しした。下茹でした蟹の身をアレイがほぐし、チェルが刻んだ野菜と一緒に溶き卵に絡めておく。
同様にチェルもあんかけの準備をするが、こちらは酢を入れず帝都近くの修行先で教わった牡蛎油を混ぜ込んだ。
二人は油をなじませた鍋に溶き卵と野菜、蟹を入れ、強火で一気に炒め始めた。
周りから固まってくる溶き卵を、お玉で中の方に折り返しながら丸く形を整える。頃合い良しと見た二人はほぼ同時に鍋を大きく振り、空中で蟹玉をひっくり返し、見事に鍋で受け止めた。そのままコンロの火を中火に落として三〇秒待ち、全体が固まったところで皿に移した。
鍋を火に戻し、それぞれ通いしたあんかけの素を入れお玉で手早くかき混ぜ、水溶き片栗粉を満遍なく混ぜ合わせ、皿の蟹玉の上にかけて芙蓉蟹を完成させる。
「まずは、これで乾杯しましょう。
熱いうちに食べてね」
とりあえず、といった表情でチェルとアレイが皿を持って席に着く。
「おう、いつもながら旨そうだな。
前に教えてもらって家で作ってみたけど、やっぱり火力が違うからだよなぁ、こうも旨くは作れなかったぜ」
この日のために多めに仕入れていたビールの栓を抜き、正面に座ったエルミのグラスに注ぎながらガルが言う。
「そりゃあそうだけどさ、ガル。
そんな旨く作られちゃったら、あたしは商売あがったりよ」
悪戯っぽく笑ったチェルは、レグルのグラスにビールを注ぎ返していた。
「まあね、素人がそうそう職人の真似はできねぇや」
チェルの手元を微笑ましげに眺め、ガルは何かを吹っ切ったような顔で答えた。
「じゃあ、いい?
そういえば、アレイとリーンと飲むのって始めてかも。
乾杯の音頭は……
次期料理長の前途を祝し、乾杯!」
酒を前にして面倒臭くなったエルミが、強引に乾杯の音頭を取る。
「乾杯!」
五人が唱和して、グラスが荒々しくぶつけられる。
冬の大気にほどよく冷やされたビールが、各自の喉元を駆け抜けていった。
再度ビールがグラスに満たされるなり、ガルが立ち上がる。
「よし、もう一回乾杯しようぜ。
今度は、ふたりの前途を祝し、乾杯!」
ガルはそう言ってグラスを高々と上げ、レグルとエルミのグラスを合わせると、晴れやかな表情でチェルとグラスを合わせた。
「乾杯!」
五人が唱和し、グラスをあおる。
「ぶへぇっ!
ごふっ!
ごぅぇっ!」
盛大にむせ返ったガルが、料理を台無しにしては大変とばかりにテーブルに背を向けた。
「どうしたのよ、ガル。
何慌てて飲んでるの!
汚いなぁ……」
笑いながらガルを叱り飛ばしたエルミが、まだむせ返り続けるガルを介抱する。
「ごめん、ごめん。
いや、歓迎会ではゆっくりできなかったじゃないか。
改めて皇国のために戦場に立つふたりの前途を祝したかったんだよ」
もちろん、その伴侶になるチェルの前途も、とこれは口に出さずに呟いた。
ガルなりにチェルに抱いていた恋心との決別の儀式でもあった。
危うく涙が流れそうになり、わざとむせ返って止められなかった涙を誤魔化したのだった。
「まだまだいっぱい作るからね。
普段のことは忘れて、今日はいっぱい食べちゃいましょ」
ガルが落ち着きを取り戻したところでチェルとアレイは厨房に入り、次の料理に取り掛かった。
まったく打ち合わせなどしていないのだが、どちらかが先に材料に手を伸ばすと片方は何も言わずにその料理に合った下拵えを手際よく分担している。
チェルがピーマンを千切りにすれば、アレイはタケノコを千切りにする。それを受けてチェルが豚肉を千切りにし始めると、アレイは別の料理の準備を始めた。
エビの背腸を取り、片栗粉をまぶしてから酒で洗い、長ネギを微塵切りと削ぎ切りにしていく。
ふたりが同時に鍋を火にかけ、チェルが青椒肉絲、アレイが干焼蝦仁を作り始めた。
チェルは豚肉を炒め、順次タケノコとピーマンを鍋に投入する。
あらかた火が通ったところで、味醂、酒を振り、ガラスープを足してとろみを伸ばし、牡蛎油と塩、コショウで味を調えた。
アレイは鷹の爪と長ネギの微塵切りを半量炒め、充分に辛味を引き出したところへエビを投入する。
エビの色が変わったところで削ぎ切りにした長ネギを鍋に入れ、酒とガラスープを加えて軽く煮込む。エビが固くなる前に牡蛎油とケチャップで味を決め、そら豆と唐辛子を醗酵させた豆板醤で辛みを補う。
仕上げに水溶き片栗粉でとろみをつけ、残った長ネギの微塵切りを散らした。
鍋を洗ったチェルは、豚バラの塊を一センチのサイコロ状に切り、ジャガイモも皮を剥いて同じ大きさに切って水に晒す。
アレイは塩コショウした溶き卵に、切り落とした豚バラのスライスを漬け込み、揉むようにして全体を絡めていく。
チェルは弱火に落としたコンロに鍋を乗せると、油を引かずに豚バラを投入し、油が出るまでじっくりと焦がさないように炒め始めた。
やや強火のコンロに鍋を乗せたアレイは、多めの油で溶き卵を絡めた豚バラを焼いていく。
チェルの鍋では、豚バラが自身の油で揚げられている状態になっていた。そこへジャガイモが投入され、強めの塩と大量のコショウが振る舞われる。ジャガイモが油を吸いきったところで、シアムで親しまれているスイートバジルの微塵切りを散らして仕上げとした。
アレイは豚バラの両面にこんがりと焼き色を付け、油を落とすために広げた新聞紙に一旦肉を置く。
はぜるような油が落ち、焼き目がしっとりと質感を見せたそばから皿に盛り、大量のポークピカタを作り上げた。
「ふたりとも、何本気で張り合ってんだよ。
そこら辺で一段落して、こっち来て飲め。
アレイだって、もう飲めるんだし」
いつまでも料理を止めようとしないふたりに、ガルが声をかけた。
「そうね、そろそろ判定してもらいましょうか、アレイ」
久し振りにやりたい料理を作りきった充実感を漂わせ、漬け物の皿を持ったチェルが厨房を出る。
「判定も何も、共同で作ったようなもんじゃん。
どうせ聞くまでもないだろうし」
酒が満たされた湯飲みを片手に、呆れたような表情のアレイが厨房から出てきた。
「いいなあ、レグルは。
この先、お家に帰ればこんな料理が待ってるなんて」
片端から料理を胃に収めながら、エルミはガルを見ながらやっかみを言った。
「本当だぜ。
うらやましい限りだよ。
ところで、お前ら、いつ祝言あげるんだ?」
エルミの気持ちに気付くことなく、吹っ切れたような顔でガルが答える。
盛大に落ち込むエルミの仕種を見て邪気なく噴き出したガルに、四人の殺意を込めた視線が突き立てられた。
さっさとエルミとくっつけ、この朴念仁!
「まあ、料理人は家でまで料理をしないって話もあるし」
エルミの気持ちがガルに知られないようにと、雰囲気を変えるためレグルが厨房に入った。
「俺も少しは覚えてきたんだ。
ちょっと厨房を借りるぜ」
レグルは薄切りの牛肉とジャガイモ、ニンジンとタマネギを探し出す。
「ひょっとして、あれ?」
砂海軍発祥の料理を推測したエルミが、確信を込めてレグルに聞いた。
「こんな話がある。
彼のヘイハ提督が若かりし頃、サピエントに留学していたときのことだ」
ジャガイモとニンジンの皮を剥きながら、レグルは話し始めた。
ジャガイモは六等分に、ニンジンは乱切りにして、タマネギはざっくりと切っていく。
「彼の国で提督はビーフシチューなる料理を召し上がられた。
そして、提督はそのビーフシチューがたいそうお気に召したそうだ」
牛肉とタマネギをさっくり炒め、干魚から取った出汁と味醂、砂糖を鍋に入れ煮込み始める。
「帰国された後も提督はビーフシチューが忘れられず、夢にまで見たらしい。
だが、当時ソルにはビーフシチューの作り方なんか伝わってなかった。
当然、誰も作れないし、どこの店の品書きにも乗ってなかったわけだ」
厨房にあった料理用の酒を湯呑みに注ぎ、ひと口飲んでレグルは続ける。
沸騰した鍋の火を弱火に落とし、醤油を注ぐ。
「ある日、我慢できなくなった提督は、艦の烹炊兵にビーフシチューを作れって命令したんだ。
困ったのは烹炊兵だ。
食ったことはおろか、見たことも聞いたことさえない料理だぜ」
シラタキさえあれば完璧なんだがな、とレグルは呟き味見をしながら酒を飲む。
「まあ、なんにせよ、できませんなんて言えないわけだ。
ただ、材料とどんな味だったかくらいはきかなきゃ、どうしようもねぇわな。
どやされることを覚悟で、烹炊兵は提督にその辺りを聞いたんだよ」
味が決まったところでしばらく煮込むため、鍋の火加減を調節してレグルは湯のみを片手に厨房を出た。
「そしたら提督はなんて答えたと思う?」
砂海軍では有名なエピソードだ。
楽しそうにエルミが話を受け取った。
「そりゃあ、あれだけのお方だし。
きちんとご説明なさって、烹炊兵がそれを再現してめでたしめでたし、じゃないの?」
最近になって酒の味を覚えたリーンが、ほろ酔い加減で答える。
「牛肉とジャガイモ、ニンジンとタマネギを何かで味付けしたやつ。
提督は、こうお答えになったそうよ」
エルミが腹を抱えながら言った。
エルミの答えに、呆れ顔が四つ並んだ。
「とんでもねぇ話だろ?
烹炊兵は完全に頭を抱えちまったらしい。
俺は同情しちゃうね。
人偏に無茶と書いて上官って読ませるくらいだからな、軍ってところは。
とにかくできませんとは言えないし、当時の艦にビーフシチューの材料なんざあるわけねぇ。
悩みに悩んだあげく、できあがったのがこれさ。
言われた材料を煮物にするしかないもんなぁ」
レグルは酒をあおると厨房に戻り、鍋から肉じゃがを器に移してテーブルに運んできた。
ソルでは一般的な総菜が、このような経緯で生まれたことに、ガルたちはどう反応していいか解らなかった。
「ちょっと、レグル。
これは何?」
運ばれてきた肉じゃがを見て、エルミが目を剥いた。
「何って、まごう事なき肉じゃがだが?」
エルミが何をいきり立っているのか、全く解らないという顔でレグルが答える。
「シラタキが入ってないのは妥協するわ。
でも、これは牛肉じゃないの!
肉じゃがは豚肉!
それ以外は認めないわ!」
自らの全てを否定されたような怒りを、エルミは叩きつけた。
北陸鎮守府発祥の肉じゃがは、人々の異動に伴いあっという間にソル砂海軍全体に広まっていた。
当然その間に改良や、土地柄による材料の制約もあり、工廠や鎮守府ごとに独自色が生まれていた。
特に豚肉の産地に近い南工廠では、いつの間にか肉じゃがといえば角切りにした豚のバラ肉を使うものとなっていた。
当然南工廠を母港とする『デットン』の肉じゃがは豚肉であり、エルミにしてみればこれは絶対に譲れないことだった。
「なんだと?
古来、肉じゃがは牛肉と決まってるんだ!
さては、貴様、悪しき改変主義者か!?」
レグルの乗艦『ドラコ』が母港とする西工廠では、肉じゃがは牛肉のスライスであり、やはりレグルにとってこれは譲れない。
「何が古来よ!
たかだか四〇年前じゃない、肉じゃがができたのは!
伝統を蔑ろにしちゃダメだけど、常に前に向かうべきよ!
しがみつかれたら伝統にいい迷惑よっ!」
「やかましい!
開発は大事だ、それは認める。
だけど変えちゃいけないモノがある!
ましてや、代替えなんぞ、改悪だ!」
砂海軍に蔓延る醜い対立を前にして、ガルたちは頭を抱えていた。