第23話 強襲
第一次攻撃隊が飛び去ってから一〇分も経たない八時四九分、第二次攻撃隊がハトー上空に姿を現した。
僅か一〇分の間に、ハトーのオリザニア軍は急速に迎撃体勢を整えている。完全な奇襲となった第一次攻撃隊ですら、艦攻五機、艦爆二機、艦戦二機を対空砲火に撃ち落とされていた。高い練度を誇るオリザニア軍が手ぐすね引く中に、第二次攻撃隊は飛び込んでいかなければならない。
だが、怯えたような素振りを見せる機体は、ただの一機も存在しなかった。
その頃、機動部隊旗艦空母『コッヴ』の艦橋では、司令部参謀たちが第三次攻撃の是非について激論を戦わせていた。
その決定権を有するただひとりの存在であるナンクゥ中将は、参謀たちの議論を目を閉じ、腕を組んだままじっと聞いている。航空の素人である自分の意見より、カリュウ参謀長やジッツー航空甲参謀の出す結論の方が正しいと、ナンクゥは達観していた。だが、内地を出撃する前に連合艦隊司令長官ゴトム大将から内々に命じられたひと言が、ナンクゥの意志を撤収へと傾かせている。
虎の子の空母六隻は、極力無傷で持ち帰れ。
「第一次、第二次の攻撃では、ハトーに貯蔵してある魔鉱石タンクまでは破壊できません。
これを破壊しなければ、オリザニアの工業力は泊地内で沈めた戦艦など、何事もなかったかのように復旧させてしまうでしょう。
ですが、魔鉱石タンクを破壊しておけば、向こう半年、いや一年以上大東砂海でのオリザニア艦隊の行動を抑えることができます。
パイロットたちにはご苦労なことではありますが、ここは是が非でも第三次攻撃は実施すべきです!」
ジッツーがカリュウの胸座を掴まんばかりの勢いでまくし立てる。
「そうは言うが、ジッツー君。
戻ってきてみないと分からんが、完全な奇襲に成功した第一次攻撃隊にも損害が出ている。
撃墜されていなくても、傷つき、再度飛び立つことが適わない機体もあるだろう。
パイロットたちや他の搭乗員にも傷ついた者もいるはずだ。
まもなくハトーに取り付くであろう第二次攻撃隊に至っては、どれほどの機体が戻ってこられるのか、まだ全く分からんのだ。
数字だけ見ていては、あたら有望な若者たちを、徒に死地に追いやるだけになりかねん」
いきり立つジッツーをいなすように、カリュウが落ち着いた声で答える。
「ハトーへの第三次攻撃も重要ですが、泊地に不在の敵空母への備えはいかがしますか?
私としては、動かないオアシス泊地より、二次元機動が可能な敵空母の方が遙かに脅威と認識します」
第三次攻撃の是非に、司令部すべての目が向いていることに危惧を抱いた航空乙参謀が口を開く。
「確か、ハトーに在泊していた空母は二隻だったな。
出てくるものなら出てきてみろ。
その程度の戦力であれば、我が艦隊にとっては鎧袖一触だ。
飛んで火にいる夏の虫、といったところだろう」
傲然と胸を反らせたジッツーが言い放つ。
「確かに艦載機の収容や発艦中、兵装作業の真っ最中であれば、爆弾一発で火の海だ。
下手をすれば機銃弾一発でも、燃料や航空砂雷、徹甲爆弾が誘爆でもすればそれまでだな」
以前より指摘されてきた空母の脆弱性に、カリュウが腕を組みうなり声を上げた。
「そのために第三戦隊と第八戦隊の砂偵を偵察に出してあります。
今のところ敵空母発見の報告はありません。
大方、我々に恐れをなして、戦力保全のために退避しているに違いありません。
ここは敵空母がいないという前提で、第三次攻撃隊の編制を行うべきでしょう。
もし、のこのこと出てくるようであれば、それから兵装転換を行い、爆弾を砂雷に取り替えて飛ばせればよろしい」
ジッツーはあくまでも強気でいる。
「兵装転換には二時間はかかります!
敵空母発見から準備など、正気の沙汰とは思えません!
万が一、我が艦隊も同時に発見され、兵装転換の真っ最中に空襲を受けたら大惨事です!
少なくとも、第三次攻撃隊の目標は決めておくべきです!」
航空乙参謀が、悲鳴を上げるかのように叫んだ。
「手練の一撃を加えれば、残心することなく退くべしだ、ジッツー君。
ここで欲をかいて、せっかくの戦果を帳消しにするような真似は、厳に慎むべきだろう。
戦はまだ始まったばかりだ。
今日この一戦で、宝石よりも貴重な搭乗員たちをすり減らしては、この先の見通しが立たなくなる。
取り逃がした空母とも、いずれ雌雄を決するときがくるだろう。
第二次攻撃隊を収容後、速やかに帰投すべきだ。
よろしいですね、長官?」
カリュウがナンクゥに念を押すように言ったとき、第二航空戦隊旗艦空母『デットン』からの発光信号を読み取った通信士官が、内容を読み上げる。
「発、オーキキ二航戦司令官!
宛、ナンクゥ司令長官!
第三次攻撃隊の目標を知らされたし!
発、オーキキ二航戦司令官!
宛、ナンクゥ司令長官!
第三次攻撃隊の目標を知らされたし!」
見敵必殺の闘将とうたわれるオーキキらしい意見の具申だ。
第三次攻撃の是非など、問うまでもない。目標を早く知らせろ。何を迷っているんだ。
僅かな通信の中に、苛烈な意志が込められていた。
「発、ゲンチュウ五航戦司令官!
宛、ナンクゥ司令長官!
第三次攻撃隊は有りや無しや!
発、ゲンチュウ五航戦司令官!
宛、ナンクゥ司令長官!
第三次攻撃隊は有りや無しや!」
五航戦司令官ゲンチュウ少将からは、慎重な性格を表すような問い合わせがくる。
オーキキに比べ多少おっとりしたゲンチュウが、二航戦に後れをとってなるものかとする参謀たちに突き上げられ、渋々送った問い合わせであることは考えるまでもないことだった。
五航戦は、一、二航戦に比べ設立から時間も経っていないため、経験不足から技量が未熟と荷物扱いされることが多い。それだけに参謀や搭乗員たちの、一、二航戦に対するライバル心はかなりのものだ。オーキキの発光信号を見た参謀たちが、後れを取るなとゲンチュウにせっつく光景が容易に想像でき、ナンクゥは小さく笑った。
ジッツーに笑みを見咎められる前に真顔に戻ったナンクゥは、通信士官に信号了解と返信するように命じ、また瞑想するように目を閉じ、口をつぐんだ。
ナンクゥの中では、既に帰投の意志が固まりつつある。
あとはいきり立つ悍馬のようなジッツーを、いかに宥めるかだ。司令長官の権限を以て、問答無用で従わせることは可能だが、それは最後の手段にしたかった。参謀たちが納得するまで議論させ、その結論に責任を持つことが航空の素人長官にできるせめてものことだとナンクゥは考えている。帰還してきた搭乗員たちが、もう一度行きたいというならば、行かせてやりたい親心もある。しかし、ゴトムから厳命された空母を無傷で持ち帰るためには、これ以上敵の哨戒砂海域に留まることは危険すぎた。
ゴトムの権威を利用することは、己が無能をさらけ出し、かつ責任転嫁するようではばかられていた。
「あの小心者!
ぐずぐずしていては、いつ反撃を許すか判らんということが、なぜ理解できんのだ!
こうしている間にも、所在不明の空母二隻が忍び寄っているかもしれんというのに!」
ナンクゥが態度を決めかねているそのとき、『デットン』の艦橋ではオーキキが荒れ狂っていた。
「司令官、独断で攻撃隊を出してはいかがですか?
二航戦は一蓮托生です」
先任参謀の言葉に、オーキキの熱が一気に下がった。
「済まなんだ、先任参謀。
俺としても攻撃隊は出したい。
だが、解っているんだ。
飛行場を壊滅させたハトーに出すならともかく、空母相手に二隻分の予備兵力を今出しても効果はない。
一次、二次攻撃隊が戻ってこなければ、三次攻撃隊は編制できないからな。
だが、そのためにしておける準備はいくらでもあるというのに、あの……」
腰抜けの臆病者という、武人に対する最大の侮蔑の言葉を、オーキキはやっとの思いで飲み込んでいた。
機動部隊司令部が態度を決めかねているとき、第二次攻撃隊の各機は目標めがけて翼を翻し始めていた。
第二次攻撃隊に参加した水平爆撃隊は、二五〇キロ陸用爆弾二発と六〇キロ通常爆弾二発を積み込んだ五航戦旗艦『アパテー』艦攻隊と、二五〇キロ陸用爆弾一発と六〇キロ通常爆弾六発を積んだ同じく五航戦の『アルギュロス』艦攻隊の計五四機が飛行場と港湾施設を狙った。
ファルが所属する『デットン』と『テレスドン』、そして『コッヴ』と『ブリッツ・ブロッツ』の艦爆隊のうち、エンジン不調で飛べなかった機体や、途中で引き返した機体を除く計七八機が、二五〇キロ爆弾を抱えて第一次攻撃隊が討ち漏らした艦艇に殺到する。
「いいかい、行くよっ!」
「いつでも!
少尉、声が震えてますぜ!」
威勢の良いファルの掛け声に、任官以来お守り役を務めてくれている歴戦の偵察員のゼッカ一等航空兵曹が答える。
「ボクは脅えてなんかっ!
武者震いだよ!」
それが本当なのか、強がりなのか、急降下を開始したファルにはもう判らなかった。
アイスキャンディのような対空砲火の弾丸が、天地逆向きのシャワーのように向かってくる。
周囲に砲弾の破裂に伴う黒煙が湧き上がり、第一次攻撃隊によって爆煙に埋め尽くされたハトー泊地の天地を一緒くたに繋ごうとしていた。
既に目標の目視は困難で、対空砲火を目印に突進する艦爆が多い。
第一次攻撃隊の八〇〇キロ爆弾と砂雷を受け、身動きの適わなくなっていた戦艦『サラマンド』に、コウモ少佐率いる『デットン』艦爆隊第一中隊が降爆を開始する。
満身創痍となりながら、なおも抵抗を諦めない『サラマンド』から、無数の火箭が艦爆隊に向かって撃ち上げられる。急降下を開始していくつも数えないうちに、被弾する機体が相次いだ。中には機体の損傷をものともせず『サラマンド』に急降下を続ける機体もあったが、第一小隊三番機と第二小隊二番機が致命的な一撃を受け、機体のコントロールを失った。
だが、両機のパイロットはまだ息があり、目標とした戦艦にダメージを与えることが適わなくとも、せめて一太刀とばかりに機体を滑らせる。機体の限界が訪れる前に、二機の艦爆は港湾施設に突入した。
残った機体は仲間の死に躊躇いなど欠片も見せず、撃ち上げられる対空砲火を掻い潜り七機の機体が投弾に成功する。
『サラマンド』の周辺に次々と砂柱がそそり立ち、命中弾こそなかったが四発が至近弾となった。
近くの軽巡が退避行動に移った機体に機銃弾を浴びせかけるが、爆煙に妨げられて正確な照準ができず、第一中隊の被害は二機に留まった。
ファルは、コウモ隊長率いる第一中隊に続き、一呼吸遅れて降爆を開始していた。
第一中隊が投下した二五〇キロ爆弾は、高度四五〇メートルで機体から解き放たれる。エンジンの不調で途中から引き返した一機を除く第二中隊八機から投げつけられた二五〇キロ爆弾は、一層激しさを増した反撃のため第一中隊より散布界が広がってしまった。それでも七発は無効弾となったが、『サラマンド』に一発が命中する。
「敵艦に爆弾一発命中!」
ゼッカの叫びにファルは何かを返答した気がしたが、自分がどんな言葉を発したか、それどころではなかった。
背後から追い縋る機銃弾や、行く先を塞ごうとする高角砲弾を避けることで手一杯だった。もちろん、目で捕らえることのできない機銃弾や砲弾を、操縦技術でかわすなど無理なことだ。機体を左右に振ることなく、エンジンスロットルを全開にしたまま操縦桿を力一杯引き付ける。
急上昇に伴うGが身体全体を締め上げ、ともすればか細く、消え失せそうになる意識を何とか奮い起こし、ファルは戦場からの離脱にかかっていた。
『デットン』および『テレスドン』艦爆隊が、『サラマンド』にとどめの一撃を叩き付けていたとき、一航戦の『コッヴ』および『ブリッツ・ブロッツ』艦爆隊は、ドックに入渠していた戦艦『パルム』に襲いかかっていた。
だが『パルム』はまったく身動きができない状況にも拘らず、全艦が活火山のように見えるほど対空砲火を撃ち上げる。
自身のみならず、ドックの奥に収容されている駆逐艦二隻も守るため、空から降ってくるソル機めがけて無数の火箭が伸びていく。鉄の固まり同士を叩き付け合う不協和音が一定のリズムで鳴り響き、小賢しいソル機を絡め取るべく、火の魔鉱石と鉄の蜘蛛の巣を三隻の上空に張り巡らせようとしていた。
もちろん、ソル機も果敢に爆撃を敢行する。
自らに向かって伸びてくるようなオレンジ色のシャワーに突入し、爆撃の照準器から艦影がはみ出るほどに急降下していく。これ以上高度を落としては二度と天を仰げないという限界で、腹に抱えてきた二五〇キロ爆弾を切り離す。天と地が入れ替わり、巨大なGが身体を締め付けるが、パイロットは渾身の力を振り絞って操縦桿を手前に引き寄せた。
零型戦闘機も対空砲火の制圧に加わり、爆撃を終えた爆撃機と共に無数の火箭を『パルム』と二隻の駆逐艦に叩き込む。
『パルム』自身が装備する三十五.六センチ主砲弾を決戦距離から打ち込まれてもこれに耐え得る装甲に対し、航空機の装備する二〇ミリや七.七ミリ機銃弾では効果はない。
だが、薄い鉄板に囲われた機銃座や、戦闘服に身を包んだ兵士にとって、航空機の機銃弾であっても致命傷だ。
血飛沫が舞い上がり、悲鳴と怒号が交錯する中、必死の形相で機銃の旋回ハンドルを回し、発射ペダルを踏み込む兵士を、嘲笑うかのように九型艦爆と零型戦闘機が機体を翻す。
ソルの機体を迎撃する闘志は充分だが、初動の遅れが致命的な立ち遅れとなっていた。統制射撃の態勢を整える暇が与えられなかったため、どうしても砲塔や機銃座ごとに目に入った機体を狙うことになり、照準が遅れてしまうことから機体を追いかけるように弾が飛んでいく。
不運な機体が偶然他の機を追いかける機銃弾の槍衾に飛び込み、両翼をもぎ取られ安定を失ったまま砂海に墜落する。
パイロットを射殺された機体は、原形を留めたまま進路をずらしながら高度を下げ、そのまま砂海へと突入した。
正面から複数の機銃弾にプロペラを吹き飛ばされ、エンジンを打ち抜かれた機体は、自らを爆弾に擬し敵艦に突入しようとする。しかし、最後に命中した機銃弾が燃料の魔鉱石を一気に爆発させ、腹に抱いた二五〇キロ爆弾ごと天空に盛大な爆炎を出現させた。
「けっ。
何が皇国初の女性搭乗員だ。
ふざけやがって。
あんなど素人を登用するなら、メディエータ戦線からの俺たちを士官にしろってんだ!」
『ブリッツ・ブロッツ』艦爆隊第二小隊の三番機を駆るダンク一等航空兵曹が、僚機の最期を尻目に雄叫びとも罵声ともつかぬ大声を上げながら急降下を開始する。
下士官の中にはエルミたち女性飛行士官に対して良い感情を抱いていない者も少なからずいる。
皇国の生存圏拡大のため、血の汗を流してメディエータ戦線を生き抜いてきたベテランパイロットの頭を飛び越え、いきなり士官として任官したことに対する不公平感は、どうやってもゼロにすることは不可能だった。
上官に対する暴力や面と向かったサボタージュなどは、兵から叩き上げてきた過程で身に付いた軍人精神がかろうじて踏み止まらせていた。だが、その溜まっていった鬱憤の捌け口は、同隊に所属する新兵へと向けられていた。
女性飛行士官の任官以来、どの空母においても一部の下士官による新兵虐めが陰湿化している。もちろん、どの艦であっても多かれ少なかれ新兵虐めはあったのだが、特に空母でのそれは酷くなっていた。しかし、士官まで新兵たちの悲鳴が届くことはなく、また届いたとしても見慣れた光景でもあることからその場限りの注意で終わってしまい、新兵たちが救われることはなかった。
ダンクの駆る機は一直線に『パルム』に向かって急降下していく。
後部座席に座る偵察員兼旋回機銃手のタック四等飛行兵は、自身を機械と化したかのように言葉に抑揚をつけることなく高度を読み上げていた。戦場の高揚感とはまるで無縁の冷静な声の裏で、タックはこの場にそぐわないことを考えている。
皇国の盾とならんとして飛行士を目指したが、『ブリッツ・ブロッツ』に配属となり、ダンクと組まされてから彼の人生は大きく狂い始めていた。
最初は声が小さいといって殴られ、読み上げが遅いと蹴り飛ばされた。
訓練の後は決まって陰湿な制裁が待っており、それでも軍人としての矜持が自身の技術を上げさせていったが、それと正比例するようにダンクへの怨みもまた大きくなっていった。
みるみる下がっていく高度はやがて七〇〇メートルに達し、まもなく投弾高度である四五〇メートルに達しようとしていた。
ダンクはタックの高度読み上げを信頼しているが、この日はそのタックの声に違和感を抱いている。時計のように正確な読み上げと、自身の降下速度は身体が覚えている。だが、このときは降下速度から自身が掴んでいる高度と、タックの読み上げる高度が一致しない。七百という読み上げの際、ダンクの感覚では既に六百を切っているはずだった。
「おい、あの機体は自殺する気か!
真っ直ぐ俺たちに突っ込んできやがる!」
『パルム』の機銃座指揮官が顔を蒼ざめさせて叫んだ。
どう見ても九型艦爆のうち一機は、引き起こしが間に合わない高度になっても爆弾を投下していない。
列機が機体を翻した後も、真っ直ぐに『パルム』の機銃座めがけて突っ込んでくる。
「打ち落とせ!
死にたくないやつは、あの狂った機体を打ち砕け!」
必死の形相で叫ぶ指揮官の声に、応答する声はなかった。
誰もが指揮官同様、必死の形相で突っ込んでくる九型艦爆に照準を合わせ、銃身が焼け爛れることも厭わず機銃弾を打ち出し続けている。
「タック!?
高度が!?」
ダンクの悲鳴ともつかぬ叫びが伝声管を伝ってタックの耳に届いた。
「もう間に合わない。
ざまぁみろ!」
甲高い笑い声と共に、タックの叫びが返される。
新兵虐めに耐えかね自殺する者すらいた。
特にダンクに目を付けられていたタックは、怨み重なるこの下士官を道連れに自殺する道を選んだのだった。
「貴様!?
一体、どういう――」
「ただ死んでやるもんか!
俺だって皇国の兵士だ!
てめぇを道連れに!」
ダンクの叫びとそれを掻き消すように思いのたけをぶちまけたタックの言葉は、機体の腹に抱えた二五〇キロ爆弾を機銃弾が直撃した瞬間に途切れた。
ダンク機の天空を揺るがす大爆発と相前後して、二五〇キロ爆弾が『パルム』が入渠するドックの周辺に着弾し始める。
大音響が鳴り響き、砂深一二メートルの砂底に激突した二五〇キロ爆弾が、火と鉄が入り混じった盛大な砂柱を巻き起こす。しかし、その外れ弾は『パルム』にかすり傷一つ負わせることはなかった。
だが、十五発まで砂底からの爆発による振動を感じたとき、ついに一発が『パルム』のボードデッキを突き破り、一二.七センチ両用砲の第九砲塔を直撃し、これを破壊した。ほぼ同時に『パルム』よりドックの奥に収容されていた駆逐艦二隻も被弾し、盛大な爆発音と共に金属の構造物が大音響を立てて倒壊する。爆風と破片が周囲の建物を薙ぎ払うように駆け抜けた後、二隻の駆逐艦は黒煙を噴き上げながら傾斜を深めていく。『パルム』の全身が一二.七センチ砲弾の誘爆で激しく痙攣し、連続した爆発音が響く中、乾ドックに轟音を立てて砂海の砂が雪崩れ込んだ。十五発に及ぶ至近弾の爆圧が、強固な乾ドックのゲートを徐々に歪め、ついに砂圧に突き破られた瞬間だった。
『パルム』の被害は第九砲塔以外には機銃弾のささくれ程度に留まったが、戦艦ほど分厚い防弾装甲を持たない二隻の駆逐艦の被害は甚大だった。
一隻は艦尾が完全に砂に埋まり、もう一隻は船体を右舷に四十五度傾かせて全体のほぼ三分の二を砂に埋められている。中途半端な角度で傾斜が止まっているのは、決して乗組員たちの努力によるものではなく、隣の駆逐艦にもたれかかるここで強制的に動きを止められたからだった。ドックの砂深が浅いというだけで沈没は免れていたが、二五〇キロ爆弾の炸裂に船体を引き裂かれ、上部構造物を打ち砕かれたその姿は、この二隻が二度と砂海上に浮かぶことはないことを確信させるに充分だった。
『コッヴ』艦爆隊の数機が、被雷し八〇〇キロ爆弾の直撃まで受けて既に気息奄々となっていた戦艦『アルテア』に急降下爆撃を敢行する。
遅れて『アルテア』上空に辿り着いた『テレスドン』艦爆隊も、一航戦に負けまいと突入した。二五〇キロ爆弾が戦艦を沈められるとは思わないが、少しでも損害を増やしておこうという悪意が『アルテア』に襲い掛かり、追い討ちをかけるように六発の二五〇キロ爆弾が命中する。
水平装甲を打ち抜くことはできないが、それでも爆風と構造部の破片が爆弾自身の破片と共に鉄の刃と化して周囲を切り裂く。人間の身体など研ぎ澄まされたソルの刀に切り裂かれる藁屑のように切断され、どれが誰の身体の一部だったか判らないほどの砕片に変えられていく。
「航海長、なんとかホスピタルポイントまで艦を運べ。
ここで沈んでは、本艦は他艦の障害になってしまう。
ホスピタルポイントまで行って座礁させれば、後で浮揚修理も可能だ。
なんとか、あと数マイルでいいから耐えてくれ」
『アルテア』艦長は艦の放棄を決断するが、それでもまだ退避という戦闘行動まで放棄する気はなかった。
航海長に向かって発せられた言葉のうち、最後の一文は『アルテア』に向かっての祈りに他ならない。このまま沈んでしまっては『アルテア』の巨体が泊地の出入り口を塞ぎ、他艦の戦闘行動に重大な障害となる。泊地からの脱出が不可能になれば、第三次、第四次と攻撃が繰り返されたとき、ハトーはオリザニア大東砂海艦隊の墓場と化してしまう。
その祈りに答えるように、『アルテア』は頑強に沈没を拒み続けた。
大量の砂を飲み込んで重くなった巨体を、這いずるような速度ではあるが移動させている。オリザニア国民の多くが信仰する神の加護でもあるかのように、驚異的な命中率を誇るソル艦爆隊の爆撃は、すんでのところで『アルテア』の巨体を避けていく。それでも至近弾の爆圧は艦底からの侵砂を増大させ、『アルテア』の行き足は徐々に止まりつつあった。
やっとの思いでホスピタルポイントまで退避した『アルテア』は、安堵するかのようにそこで力尽き、浅い砂底に着底すると動かなくなった。
九時二十一分になってようやく全部隊に宛て、敵機は胴体の底部分に赤い丸、つまりソルの識別マークを描いてあるとの連絡が入った。
爆撃を受け、ソルの機体を見送るしかなかった地上基地要員たちの喉から、ソルに対する罵声が絞り出される。艦上で炎と鉄片と戦う乗組員たちからも、ソルに対する怨嗟の声が沸きあがるが、対応の遅い司令部に対する罵声も乱れ飛んでいた。現在進行形で火災や倒壊した建造物の中から戦友を救うために奮闘を続ける兵士たちからも、なす術もなくソル機の侵入を許した哨戒部隊や防空部隊に対する怒りの声が上がっていたが、ソルに対する罵声も止むことはなかった。
その声を知ってか知らずか、このときになってやっと全艦艇に至急出航するように命令が下った。
命令などなくとも戦闘行動に移った艦が多い中、係留位置の関係からまだ動き出すことができなかった艦も退避を始める。
だが、その数分後、戦艦『サラマンド』は搭載機が燃料火災を起こし、係留ポイントから引き離す作業中に侵砂に耐え切れず着底する。
上部構造物は砂上にその姿を留めていたが、爆炎になでられ、倒壊し、四隻目の沈没と判定するしかないほどの被害を受けていた。
オリザニア共和国砂海軍艦隊兼大東砂海艦隊司令長官メルイィ大将は、混乱の巷と化したハトー泊地司令部にあって、この事態を収拾すべくあらゆる手を打とうとしていた。
ともすれば司令部の防空壕を飛び出し、対空機銃をソル機に向かって撃ち出したい誘惑に駆られたが、すんでのところで思いとどまっている。もちろん卑怯や臆病がなせることではなく、司令長官が視野狭窄を起こすような振る舞いをすべきではないという大局的な判断に則ってのことだ。
被害状況が刻々と報告され、ハトーの惨状が明らかになるにつれ、メルイィは自身の出世の階が一段ずつ削り取られていくのを感じていた。未来を失ったからといって、すべてを投げ出すような真似が許されるはずはなく、今まさに死に瀕した将兵を救う努力は司令長官に課せられた義務だ。
メルイィ自身、いっそ敵の爆弾が司令部を直撃し、何かを考える間もなく戦死してしまえばこんな苦労は背負い込まなくて済むものをという意識があることは否定しない。だが、彼は正しくオリザニア砂海軍の提督であり、与えられた権利以上の義務を自覚していた。
遅ればせながら爆撃を受けた飛行場に迎撃機の発進を指示し、停泊中の艦艇に緊急出港を命じる。
だが、ほとんどの飛行場は爆撃で滑走路を使用不能に陥れられ、駐機していた機体のほとんどすべてを爆砕か機銃弾で破壊されていた。
停泊中の艦艇も同様で、多くの艦艇がもやい綱を解く前にソル機の攻撃を受けていた。その場で着底するもの、転覆するもの、かろうじて出港はできても泊地内で撃沈されるものが続出していた。
それでも兵士たちの戦意は旺盛で、一方的に叩かれるだけではなく、敵機を撃墜したという報告も上げられていた。
メルイィは痺れたような頭で、僅か二時間の間に起こったことを思い返していた。
第一次攻撃隊がハトー泊地に襲いかかろうとしていたとき、メルイィは朝食を取っていた。
それは平穏な毎日の光景であり、神の恵みに感謝しつつ、日常の疲れを癒す一日の始まりになるはずだった。
ソル軍がすぐそこまで迫っているなど夢想だにしないメルイィは、安息日ということもあり気が緩んでいたことは否めないと、今では自覚している。だが、このときのメルイィは、ソルとの戦争が近いことをあらゆる情報や伝達から理解しており、いまのうちに遊べることは遊んでおこうと考えていた。
この日は、騎兵軍のタン中将とゴルフの予定だった。軍務では使うことのない筋肉にたまには仕事をさせ、ほぐしておくことも重要だとメルイィはオートミールをスプーンでかき込みながら考えていた。
そこへ、当番兵が駆け込んできた。
「あっ、申し訳ございません。
御食事中でしたか」
司令長官がスプーンを持ち上げたところに飛び込んだ当番兵は、しまったという顔で背筋を伸ばす。
「いや、いま終わったところだ。
それより何かね?」
当番兵の顔色にただならぬ気配を感じたメルイィは、食事を中断させたことに何か含むことを残さないかと心配する当番兵を気遣い、そっとスプーンを置きながら問いかける。
「はっ、はい、第一四砂海軍区司令部から小型の潜砂艇を撃沈したとの報告がありました」
直立不動のまま、当番兵は答える。
その答えに、メルイィの顔色が一変した。
「なんだとっ、何時だ?」
気色ばんだメルイィは、つい今しがたまでの気遣いなど吹き飛び、当番兵の首を掴まんばかりの勢いで言葉を投げつけた。
「一四区司令部に報告があったのは午前六時五一分だそうです」
「なぜ、もっと早く報告をよこさなかった!
すぐに司令部に向かう。
全軍に警戒命令を出せ!」
純白の第二種軍装を引っ掴むなり、普段の紳士的な態度をかなぐり捨てたメルイィは官舎を飛び出した。
メルイィは貴重な安息日を潰してくれたソルに内心で毒づきながら、司令部へ急行する差し回しの専用車の中でシートに身を沈めていた。
この時点で彼は、まだ巨大な災厄は予感していない。せいぜいソルの潜砂艦が偵察に来て、うっかり哨戒に引っかかった程度の認識だった。開戦はいつになるかという状態でもあり、ソルの艦艇が領砂海を侵犯した事実は戦闘行為と受け取ってもよい重大事件だ。
もちろん、この事案を軽々しく考えているわけではなく、対処のために司令部には行く。だが、まずは即時報告を怠った担当士官を叱り飛ばし、始末書のひとつも書かせ、その上で対処指示を出せばかたが付くといった程度にしか考えていない。それでも本土との連絡や煩雑な命令を考えると、タンとのゴルフは諦めざるを得ないだろう。
その埋め合わせをどうするか、メルイィの思考はそれに占められていた。
だが、すでにソルの攻撃隊はハトー泊地に進入していた。
司令部の眼下で進行する惨劇に、メルイィは愕然となった。
なす術もなく打ち砕かれる戦艦や、敵の攻撃から必死に逃げまどう兵士たち、そして飛行場の方向から立ち上るいくつもの黒煙。このときのメルイィは、これが悪い夢であると思い込むことで精神の均衡を保とうとしていた。だが、自分がこの場の最高責任者であり、唯一事態を収拾する権限を有する立場が、彼を現実に引き戻した。
敵機は少しずつ翼を翻し、ハトー上空から立ち去りつつあるが、第二波が来ることは確実とメルイィは考えていた。
不埒なソルは、第一波の奇襲成功に警戒心を緩め、碌な防御も考えずに突っ込んでくるだろう。その慢心を打ち砕いてやる。
メルイィは対空陣地の整備と全艦の泊地外への脱出、そして航空機輸送任務で現在この砂海域に戻りつつある空母部隊に、周辺砂海域の索敵を行い、速やかにソルの攻撃機部隊を殲滅するように命じた。
大東砂海艦隊の損害が、どれほどになるのか、どの程度に食い止められるかは、まだ想像もつかない。
だが、ただ一つ確実なことがある。それは自分のキャリアがこれで終わりだということだ。むざむざと敵の奇襲を許し、一日で大東砂海艦隊を壊滅させられた提督を許すほどオリザニア砂海軍は甘い組織ではない。
『あの時、ミニッツと同じように辞退しておけば……』
メルイィは、ほとんど時間を空けずに襲ってきた第二次攻撃隊を睨みつけながら、大東砂海艦隊の司令長官に任命されたときのことを思い出していた。
前任者のリーソン大将がローザファシスカ大統領の逆鱗に触れ解任されたとき、彼の後任に推挙されていたのはメルイィの親友でもあるミニッツ少将だった。しかし、ミニッツ少将は、この内示を峻拒した。五〇人以上の上官を飛び越して司令長官の地位に就いてしまえばいらぬ恨みや妬みを買うことは間違いない。そのような状態で、まともな組織に運営できると思うほど、ミニッツはうぬぼれてはいなかったと同時に自身が可愛かった。
メルイィは、その代役だった。
司令長官という立場に目が眩んだと言われれば、それまでだろう。
それを否定する気はメルイィにはないが、困難な状態に置かれた砂海軍を見捨てる気もなかった。誰かがやらねばならないことであり、その誰かがたまたま自分だったのだと考えていた。
だが、それもこれで終わりだ。
もし、ソルの爆弾や、機銃弾が自分を打ち倒さなければ、だが。
やがて、すべてのソル機が翼を翻し、北西の空へと消えていった。
一機の七型艦攻が、ハトー上空を何度も旋回し、己が戦果を噛み締めるようにして、全機の後を追う。
「ふざけやがって、何だあの機体は!
俺たちを嘲笑うために、あんなことをやってやがる!
正々堂々と戦うこともできず、卑怯な不意打ちで上げた戦果がそんなに誇らしいか!」
一機だけ残るエンジンの爆音に上空を仰ぎ見たひとりの兵士が、血涙滴らんばかりに叫んだ。
ハトー泊地攻撃隊総指揮官ミッツ中佐は、その義務感から第一次、第二次攻撃の全てを上空から見届けたに過ぎない。だが、まだ消火活動や倒壊した建物の下から戦友を救い出すという戦闘を続けている将兵にとって、ミッツ機が取った行動はただの嫌味でしかなく、更なる怒りを増幅させる効果をもたらしていた。
メルイィは、その機体を見送った直後、まだまだ事は終わっていないことを自覚した。
倒壊した建物や着底した艦艇に取り残された将兵の救助を、真っ先に行わなければならない。火災を起こした建物や艦艇の消火活動も食い止めなければ、さらに人的被害が拡大してしまう。建物や艦艇、飛行機といったものは壊されたらまた作ればよいが、経験を積んだ将兵は金を出せばすぐにできるというものではない。特にこのように戦闘を経験し、ソル軍の実力を肌で知った将兵は、宝石よりも遥かに貴重な存在だ。巨大な爆弾孔を開けられた滑走路の修復、傷ついた艦艇の修理などは後任の司令長官に任せればよいが、彼らを救うことが自分にできる最後の仕事だと、メルイィは自覚していた。
メルイィは打ちひしがれて悄然としている司令部要員を、敗軍の将とは思えないような大声で奮い立たせ、矢継ぎ早に命令を発していった。
第一次攻撃隊は、第二次攻撃隊がすべての攻撃を終えた頃に、母艦へと帰り着いた。
「帰って来たね……」
ルックゥが誰にも聞こえないほどの小声で呟いた。
「少尉、気をつけてください。
最後の着艦で失敗したら、全軍の笑いものですよ」
偵察員席から茶化すような声が、伝声管を伝わって聞こえてくる。
「解ってます。
ここでヘマなんてしません!」
着艦は最も難しい技術を要する。
ルックゥは気持ちを落ち着け、『デットン』からの着艦許可を待っていた。
「頼もしい限りです、少尉。
華麗にお願いしますよ」
伝声管を通じて最後尾で背中合わせに座っている魔信兼機銃員からも声が届いた。
編隊を組んで高高度からの攻撃を終えたそれぞれの水平爆撃隊は、その後も編隊を崩すことなくこのままハトー泊地を後にしていた。
往路の先頭は総隊長のミッツ機が勤めていたが、復路はそれぞれの小隊長機がその任に当たっている。このため小隊長機の偵察員には、航路計算に長けた航法のベテランたちが配されている。その点では水平爆撃隊が往路で行方不明になる確率は、ほとんどないと言ってよい。迎撃機を制空隊の零型艦戦がすべて叩いていたため、水平爆撃隊を襲う敵機がなかったことや、対空砲火も急降下爆撃隊と制空隊を相手取ることで手一杯だったこともあり、水平爆撃隊に被撃墜機はない。
出撃時から、戦果確認のためハトー上空に留まったままのミッツ機を引いた機数が機動部隊上空に姿を現したとき、攻撃隊の安否を気遣っていた全将兵から歓喜の声が爆発した。
「雷撃隊と艦爆隊、制空隊が戻る前に、水平爆撃隊を収容しろ。
もし、途中で雷撃隊か艦爆隊、制空隊が戻れば、そちらを優先するんだ。
高高度から爆撃した水平爆撃隊より、敵艦や飛行場に肉薄した雷撃隊と艦爆隊、制空隊の方が被害は大きいはずだ。
被弾して傷ついた機体や、負傷したパイロット、搭乗員がいる機体は、一刻も早く着艦させるんだ」
ホンリュウが『デットン』の艦橋で飛行長に命令する。
「艦長、第三次攻撃に備え、被害の大きな機は砂海投棄でよろしいですね?」
飛行長はオーキキニ航戦司令官をちらりと見ながら問い返す。
「もちろんだ。
被害の大きな機はその場で投棄してくれ。
一機でも迅速に収容するためにもな。
修理の当てがない機のために、昇降機を塞ぐ時間が勿体無い」
オーキキは艦の運用に口を挟むつりはない。
ホンリュウの返答を聞き、大きく頷くことで責任の所在は我にありとだけ告げていた。
九時五六分より、水平爆撃隊の着艦が開始された。
水平爆撃隊が機動部隊上空を旋回し、着艦の順番を待っているところに、三々五々他の三隊が生還し始める。
風が強く、損害のまったくない水平爆撃隊ですら着艦に困難を来たしている状態で、機体に多数の弾痕を刻まれた雷撃隊や艦爆隊、制空隊が安全に着艦できるか、誰もが危惧を抱いていた。着艦の衝撃で車輪脚がへし折れないか。車輪脚だけでなく機体自体が着艦の衝撃に耐えられないのではないか。水平爆撃隊に比べ急劇な機動が多かった機体の燃料が、着艦を待つ間に切れるのではないか。それ以前に負傷した搭乗員たちの命が、着艦を待つ間に消えてしまわないか。
各母艦の艦橋で双眼鏡握り締め、甲板で担架や消火器を抱え、着艦を見守る全将兵の思いはそこにあった。
「九型艦爆、七型艦攻、帰還します!
続いて零型艦戦、艦隊上空に進入します!」
見張り員が、歓喜の声を上げる。
出撃したときに比べ、僅かに数を減らしているように見えるが、水平爆撃隊のような編隊を組んでの帰還ではないため、実際にどれほどの被害があったかは全機を収容してみないと判らない。
機動部隊上空で旋回し、着艦の指示を待つ機体の総数は、誰にも判別できなかった。
「帰ってきましたよ、エンザ中尉」
極度の緊張から、エルミの声は震えていた。
投弾までは必死であり、対空砲火を恐れる余裕すらなかった。
だが、何発か機銃弾の破片が命中したものの、墜落に直結するような被害を受けることなく戦場を離脱していた。だがそれ以来、生への執着が蘇ったエルミは、無事母艦へ戻ることができるかどうか、急に不安になっていた。
極度の喉の渇きを感じ、普段であれば節約に努める水をついがぶ飲みしていた。
気付いたときには母艦に戻るまでの必要量ぎりぎりしか残っておらず、万が一にも追撃を受けてしまえば、例え逃げ切れたにせよ母艦までに脱水症状に陥りかねなかった。それだけでなく、燃料となる魔鉱石からの魔力の反応が徐々に薄れ始め、こちらも母艦に戻るぎりぎりしか残されていないようだった。
「少尉、たとえ着艦に失敗して機体を傷付けても良い。
焦らず、落ち着くんだ。
大丈夫、貴様ならできる。
ここまで来れば水も燃料も心配ない。
危ないと思ったら、やり直しゃぁいいんだ。
気楽に行け、エルミ」
努めて明るくエンザが声を掛けた。
ここまで着て母艦の飛行甲板を傷付けるような真似は許されない。
後続機が着艦できなくなってしまうからだ。
「はい、大丈夫です。
見事、着艦して見せますよ」
エルミは信号灯の明滅で自身の着艦の順番が後回しにされたことを確認しながら、違うことを考えていた。
往路とは違い、編隊を組まずに小隊単位か単機で復路を飛んだ艦爆隊の何機がここまで辿り着けたのか。
少なくとも艦爆隊の三機が撃墜されるのをエルミは見た。
誰が戻ってこないのか。どの艦の機体なのかまでは、エルミは見ている余裕がなかった。エンザも余裕がなかったのか、それとも同期の死を知らせまいとしているのか、被撃墜機に関しては何も言ってこない。今は戦闘直後の高揚感に身体が満たされているが、戦友の死をどう処理してよいか、初陣のエルミには想像ができない。帰還した機体が減っていることを、感情が認めまいとしていた。
やがて、エルミ機に向かって信号が送られ、エルミは機体を着艦コースに乗せる。
強風が、機体と艦体をあおり続けている中、エルミの機体は『デットン』に舞い降りた。
第一次攻撃隊は一〇時三〇分頃までにミッツ機を除く全機が帰艦したが、各母艦の飛行甲板上だけでなく艦内すべてが喧騒に包まれていた。
修理不能と判断された機体が、惜しげもなく砂海に投棄され、一瞬のうちに沈んでいく。
「貴様、何をしやがる!?」
降りたばかりの乗機を投棄されようとした搭乗員が、苦痛に顔を歪ませて機体を押す整備員に食って掛かる。
まだこの機体は飛べる、もう一度ハトーに飛ぶと信じて必死に機体を持ち帰ってきた搭乗員にとって、整備員が取った行動は到底許せることではなかった。
「やかましい!
一秒でも早く甲板を空けなきゃ、後から帰ってくる傷ついた機体が砂海に落ちるんだ!
俺たちだって……俺たちだって!」
我が子同然に慈しむようにして整備した機体を砂海に投棄することは、整備員にとっても身を切られるような痛みを伴っている。
甲板に降り立った搭乗員に投棄の妨害をされた整備員が、血涙を流さんばかりの表情で搭乗員を振り払い、それでも立ち向ってくる者を殴り飛ばす。
同じような光景がどの母艦でも繰り広げられ、甲板に投げ出された救護班搭乗員たちが救護班に諭されていた。もちろん搭乗員にしても、戦友を砂海に叩き込みたいというわけではない。状況を把握するなり、頬を押さえながらも機体の投棄に手を貸し始めた。
「済まなかった。
そういうことなら手を貸すぜ」
「こちらこそ申し訳なかった。
決して貴様が憎いというわけじゃないんだ。
それは解ってくれ」
あちこちで互いに謝り合う搭乗員と整備員の姿が見られ、飛行甲板には急速に空間が広がっていった。
「『デットン』だ!
さすが、ゼッカ!
無事還れたよ!」
九型艦爆のコクピットに、ファルの声が響いた。
第二次攻撃隊は、第一次攻撃隊に遅れること約一時間の一一時三〇分より母艦に帰投し始めていた。
「そんなでかい声、出さなくても聞こえますよ、少尉。
突入のときより元気なんだから」
少しだけ呆れたような、明るいゼッカの声が伝声管を通じて返される。
今のところファルが落ち込んだ様子は見られない。
だが、ゼッカはこの後のファルが心配だった。
第二次攻撃に参加した『デットン』艦爆隊のうち、少なくとも一機が爆砕される光景を見ていた。帰艦後に集計してみなければわからないが、どれほどの戦友がハトー上空に散華したかわからない。厳しい訓練を通して培われた絆は、友人という域を遥かに越えていた。中には馬の合わないものもいるが、それでも失ってしまえばどのような激情が襲ってくるか、自身がメディエータ戦線で味わった経験がファルを襲うことは間違いない。
だからといって戦意を失うことがあっては、将兵としては失格だ。
ファルやこれが初陣となった他の女性飛行士官たちが、どのように自身の心に折り合いを付けるかベテラン搭乗員のゼッカは心配になっていた。
「あれ、ファルじゃない?
無事だったんだ!」
「ファルの機だよ!
帰って来たんだ!」
第二次攻撃隊帰艦の報を聞き、搭乗員待機所から出てきていたルックゥとエルミが手を取り合って喜ぶ。
ほぼ完全な奇襲となった第一次攻撃隊と違い、第二次攻撃隊は敵が殺意と憎しみに溢れた迎撃態勢を整える中に突入しなければならなかったのだ。
まだ正確な数字を搭乗員たちは知らされていないが、第一次攻撃隊ですら九機の被撃墜機が出ている。第二次攻撃隊がどれほどの被害を受けたのか、ふたりはそれが何よりも心配だった。
できることなら第一次攻撃隊がすべての対空火器を潰しておきたいとは思ったが、たかだか一八三機の航空攻撃力では不可能なことは解っていた。
「ここでヘマはしないでよ、ファル」
「せっかく帰ってきたのに、これで失敗したら元も子もないんだから」
ふたりがハラハラしながら見守る中、ファルの機体は安定した機動で『デットン』の飛行甲板に着艦する。
整備員たちが機体に取り付き、救護班が担架を抱えて待機する中、満面の笑みを湛えたファルと、やれやれといった表情のゼッカがコクピットから降り立った。
ふたりが走り寄り、ファルを搭乗員待機所に引きずっていく。
呆気に採られるゼッカが三人を追いかけるが、その後ろでは整備員たちがファルの機体を砂海に投棄し始めていた。
第一次攻撃隊の収容時にも見られた光景だが、ファルが癇癪を起こして火の魔法を発動させないとも限らないと判断したルックゥとエルミは、ものも言わずにファルを連れ去ろうとしていた。
「ちょっ!?
何!?
何が起きたって言うんだい!?
ボクは大丈夫だってば!」
「少尉たち、いったい――!?
お手伝いします!」
ファルが慌てふためくが、ルックゥとエルミの視線の先を見たゼッカは振り向いて状況を把握するなり、駆け寄ってファルの腰を抱え上げた。
整備員たちは、元気一杯の女性飛行士官を説得する手間が省けたと胸を撫で下ろしながら、掛け声を合わせてファルが必死に運んできた機体を飛行甲板の縁まで運んでいた。
「ちょっと待てぇ!
ボクの機体がぁ!
捨てるなぁ!
放せぇ!
エルミ、ルックゥ、ゼッカ!
覚えてろぉ!」
状況に気付いたファルが暴れながら叫ぶが、ルックゥとエルミはともかく、戦場で鍛え抜いたゼッカを振りほどくには至らず、そのまま搭乗員待機所へと連れ去られていった。
大きな混乱もなく、第二次攻撃隊は一三時頃に収容を完了した。
ハトー作戦は、第一次攻撃隊、第二次攻撃隊の二波三五一機がハトー泊地に殺到し、戦艦四隻、標的艦一隻、敷設艦一隻を撃沈した。それ以外にも戦艦一隻、軽巡二隻、駆逐艦三隻を大破、戦艦三隻、軽巡一隻を中破、その他の補助艦艇二隻を大中破し、二三一機の航空機を撃墜破という戦果をあげた。
六隻の空母が想像以上の戦果に湧きかえる頃、第八戦隊の重巡『ドラコ』と『ケロニア』では、砂偵の無事を祈りつつ空母護衛の任に付いていた。
機動部隊周辺砂海域の哨戒任務に就いていた第八戦隊と第三戦隊から飛び立った四機の砂偵は、既に収容されていたが、リンたちが乗るハトーを先行偵察した二機の砂偵がまだ帰還していなかった。
やがて、砂平線の彼方にゴマ粒のような影がふたつ見え、急速に複葉機のシルエットを形成していく。
殊勲の機体の無事が、高声放送を通じて全艦に知らされると、歓喜の声が爆発した。
二機の活躍がなければ、ハトーの詳細を機動部隊が知る術はなく、見当違いの場所に殺到するという失態を演じかねなかった。
『ケロニア』機がハトーに敵艦隊が在泊していることを知らせ、リンが操縦する『ドラコ』機がハイナ泊地には敵影がないことを確認している。どちらも重要な情報であり、敵が二泊地に分散して停泊している可能性も否定はできなかった。そうなれば、それぞれの攻撃隊を二分することになり、航空打撃力は極端に低下する。もし、片方の泊地だけを叩くという選択であれば、敵の残存兵力による迎撃や反撃は熾烈なものになる。そうなったときの損害がどれほどのものになるか、果たして艦隊自体が無事でいられたのか、想像もできないことだった。
程なくして、リンの機体が『ドラコ』の上空を旋回し、揚収のタイミングを待つ。
『ドラコ』が大きく取り舵を切り、次いで面舵に切る。こうすることで艦の後方に凹凸のない静砂面が形成され、砂偵の着砂が可能になる。機敏な機動でリンが砂偵を着砂させ、『ドラコ』がゆっくりと後進を開始した。砂偵の揚収時には艦を停止させなければならず、このとき艦は無防備な状態になり、敵潜砂艦からの雷撃でもあれば回避することはできない。
だが、殊勲機の収容に当って、誰一人として艦の危険を省みる者はいなかった。
見張り員たちが目を皿のようにして周辺の砂面を凝視し、聴音員は僅かな不審音も聞き逃すまいと耳に神経を集中させる。
ある機銃座は銃身に仰角をかけ、別の機銃座は目一杯俯角をかける。万が一敵機や敵艦の襲来があれば一歩たりとも近づけさせまいと、射手は引き金のペダルに足をかけ、旋回仰角手はハンドルに掛けた手に力を込めていた。
護衛の駆逐艦が周囲を駆け回り、一二.七センチ主砲と機銃をいつでも発砲できる態勢を整えている。もちろん、潜砂艦の襲来があれば、いつでも爆雷を投射できる態勢も整っていた。
緊張が続く中、後部座席から這い出た偵察魔信員が、『ドラコ』から下ろされたデリックのフックを砂偵に固定する。
強風で艦の動揺が大きくなり、吊り上げられた砂偵が振り回される。危険を察知した甲板員が救命浮環を投げ、カッターを下ろす準備を整えた。
砂偵が大きくよろめき、主翼が砂中に突っ込んで拉げる。
リンと偵察魔信員は躊躇うことなく、砂偵に備え付けの救命浮環を手にすると、砂面に身を躍らせた。そして、少しでも浮力を確保するため、投げ込まれていた救命浮環に向かって砂を掻いていく。
甲板員たちによってカッターが下ろされ、一糸乱れぬオール捌きで二人に向かって突き進む。
破損した砂偵をデリックが吊り上げ、航空甲板に下ろすと同時に救命浮環に辿り着いたふたりをカッターが救助したとき、『ドラコ』の艦上は歓喜の声に溢れていた。
「リン、お帰り。
『ドラコ』の最高殊勲じゃないか!
リンの偵察がなきゃ、この攻撃もどうなっていたか判らんし、見つからなかったから奇襲も成功したんだぜ!」
レグルが偵察魔信員とも強く抱擁を交わし、互いの無事を喜び合ってからリンの手を握った。
いくらなんでも許婚ではない女性に、それも戦闘行動中の艦上で抱きつくわけにもいかず、固い握手をするに留まっていた。
「ありがとう、レグル。
帰ってきたよ。
ちゃんと制空隊の零型艦戦がついていてくれたから、怖くなかったんだ。
ソルに帰ったら、『コッヴ』に行ってこなきゃ」
レグルの手を握り返しながら、リンが上気したような顔で言った。
「早くシャワーでも浴びてこいよ。
殊勲の英雄がいつまでも砂まみれじゃ様にならんぜ」
元気そうなリンの表情に安心した飛行長が声を掛ける。
「はい、そうさせていただきます。
飛行長、最後の最後に大事な砂偵を壊してしまって、申し訳ございません」
リンが頭を下げるが、飛行長は鷹揚に手を横に振る。
「少尉の責任じゃありませんぜ、気にしないでください、リン少尉。
あの揺れじゃどうしようもない。
甲板員たちだって、あれ以上どうすることもできやしませんって。
こんなときのために俺たちがいるんですぜ。
あと、責任を取るための飛行長ってもんです。
始末書でも何でも書いていただきましょうや。
ね、飛行長」
笑いながら胡麻塩頭の整備班長が大声で言い、一瞬でしかめっ面になった飛行長が軽く頷く。
「その通りだ、リン少尉。
そんなこと気にする必要はない。
今はゆっくり休みたまえ。
早く、その砂まみれの飛行服を脱いでこい」
飛行長はリンを安心させるように笑顔を作ってから言う。
なんなら、ここで脱いでもいいぞという野次に笑顔を返し、リンは風呂場に向かうドアを開けた。
「艦隊進路、二五度。
その後は規定に従って随時変針だ
艦長、ソルに帰ろう。」
「おもかぁじ、進路、二五度!」
ナンクゥの命令を艦長が航海長に伝え、舵輪を握る兵に航海長が命令する。
惰性で直進を続けていた『コッヴ』の巨体が右舷へ舵を切り、旗流信号と発行信号で変針の命令を受領した各艦が後続する。
艦内に凱歌がこだまし、極一部に戦友を失った悲しみにくれる者が声を殺して涙を堪える中、機動部隊はソルへと航路を取った。
ハトーを巨大な破壊が蹂躙する四時間半前、一二月七日の安息日。オリザニア首都時間で午前九時、ハトーは午前三時半。ソル砂海軍機動部隊の六隻の空母では、整備班が出撃する機体の最終調整に余念がない頃、海軍武官補佐官ショウミ中佐は大使館に出勤した。
大使館玄関のドアの前は配達された新聞の山が築かれ、郵便受けには魔報が溢れんばかりに突っ込まれている。ショウミは気付いていないが、その魔報の中に九〇二号報の一四部と、そしてオリザニア側に回答書手交時間を指定した訓令九〇七号報が入っていた。だが、魔報がソル本国からの重要な伝達であることは、考えるまでもなく解っていた。
しかし、当直の者は早朝から教会に行ってしまい、事務所は蛻の殻だった。
ショウミに遅れてカッツ書記官が出勤してくるが、時間は既に九時を回っていた。
それでもカッツは、大使館員の行動に呆れかえり苛立つショウミを後目に、コーヒーをゆっくり飲み始めた。カッツはコーヒーを二杯飲み終えて、ようやく机中から九〇二号電を取り出し、一本指でのタイプ打ちで下書きを始めた。
昨夜、カッツは安息日一日をかけて一三部の下書きと清書をしていれば、そのうちに一四部と手交時期指定の別電が来るだろうと予想していた。カッツはこの緊迫時にあって、『何時でもオリザニア側に提示できるよう』にしておけという本省からの命令、つまり届いた文書は直ちに清書まで完了すべしとの責務を果たす気はなかった。
午前九時過ぎから一〇時までに出勤した電信室員達が、『大至急』指定のある九〇七号電を解読すると、それは回答書の手交時間指定の訓令だった。
『七日午後一時を期しオリザニア側に、なるべく国務長官に、貴大使より直接手交ありたし』
時に一〇時一〇分。
血相を変えたセイメー通信官が、カッツに十四部を届ける。
事務所内は、一転して緊迫した空気に包まれた。
それまでのんびりと九〇二号電一三部までの途中をタイプしていたカッツが懸命にタイプするが、緊張のせいか度々打ち間違え、そのページを最初から打ち直す羽目になりさらに清書が遅くなる。
一一時には九〇二号電の一四部が解読されたが、まだ全体の半分までしか清書されていない。
一四部は短い文章で、明確な宣戦布告の言葉はなく、ただ交渉打ち切りを告げていた。だが安息日に、しかも午後一時と限定して、さらにデル国務長官に直接渡せというのは、もはや意味するところは明らかだ。
九〇二号電一四部と『午後一時手交』訓令を傍受し、既に解読したオリザニア政府首脳と国務省は、ソルが何らかの軍事行動を起こすことを確信していた。
だがソル大使館では、今なお国交断絶が即戦争に直結するとは、欠片も考えていなかった。
正午を過ぎた。
既に、午後一時に間に合わせるなど、どうやっても無理な時間だ。ノム大使の秘書が国務省に魔道通話で連絡を取り、デルとの面会を午後一時四五分に延期してもらう。
カッツは必死にタイプするが、一本指で一文字ずつ確認しながらのタイピングは遅々として進まず、それにも間に合わせることは不可能になる。
ようやく清書が終わった覚書を持ち、両大使の車が大使館を出たのは、午後一時五〇分。ハトー攻撃開始から二五分が経過した後だった。
ハトー攻撃を知らされてない両大使が、デル長官に面会したのは二時二〇分。
「長きに渡る私の外交官人生の中で、これほど恥知らずで、これほど無意味な文書に出会ったことは、いままで一度もない」
ノムから交渉打ち切りの回答書を手交されたデルは、既に内容を把握していたにも拘らず、長い時間をかけて読む振りをした。
そして、固唾を呑んで見守るノムとクリスに冷たい視線を投げかけ、オリザニアの品位を汚さぬように注意深く侮蔑の言葉を選んで口にした。
「長官、いったいどうされたのです?
皇国は礼を尽くして文書を作成し――」
「現在、ハトーは貴国の攻撃隊に襲撃を受けています。
従って、このような欺瞞に満ちた文書など、今更無用。
貴官たちとの長い友情があればこそ、こうして面会することにしましたが、私にはこの面会はまったく以って無意味なものとしか思えません」
デルはノムの言葉を遮り、顎をしゃくってドアを示した。
これ以上はない屈辱だったが、祖国の取った恥知らずな行動に打ちのめされたノムとクリスの両大使は、デルに反論する気力すら失っていた。
ノムとクリスがデルに手交した『皇国政府ノ対オリザニア通牒覚書』は七項からなる長文で、これまでのソルの立場を改めて述べ、交渉の打ち切りを通告する文書だった。
だが、簡単に言えば『もう交渉は止めます。もし戦争になっても、それは仕方がないと思って下さい。仮に、この瞬間に戦争状態に突入しても、ソル皇国としては仕方がないことだと考えています』という程度の内容でしかなく、どこをどう探しても開戦を決意したという文章は見当たらない。
『宣戦布告』の文書としては、まるで通用しないものだった。
既に解読していた暗号から、今日この文書が手渡されることも、ソル軍が何らかの行動を起こすこともデルは承知していた。
だが、宣戦布告とはおよそかけ離れた内容から、せいぜい南方資源地帯への新たな進駐程度であろうと、大統領を始めとしたオリザニア政府は考えていた。しかし、ソル皇国はこのような文書の裏で、オリザニア大東砂海軍最大の要衝であるハトーに、大規模な機動部隊を密かに送り込んでいた。新たな進駐程度であれば、大使を国外退去にする必要もなく、非公式に交渉は継続できる。オリザニア軍の体制を整える余裕は、充分すぎるほどあるはずだった。
それを欺瞞に満ちた文書が、粉々に打ち砕いてしまったのだ。
これ以上はない屈辱だった。
自分たちが欺瞞に満ちた時間稼ぎをしようとしていたことは棚に上げ、デルはノムとクリスの両大使を応接室から追い出した。
「外交官ともあろう者が、祖国の意志を把握できないとは。
結果的に、我々同様、彼らもソル皇国に裏切られたということか」
デルは、悄然として部屋を出て行ったノムが閉めたドアに向かって、小さく呟いた。
もし、交渉打ち切りの文書がハトー攻撃の前に手交されていたとしても、宣戦布告文書でない以上、ハトー攻撃は不意打ちの卑怯な振る舞いであることに変わりはない。
しかし、交渉が打ち切られたということは、いつ戦争へと発展してもおかしくない状態だ。その状態にあって不意打ちを喰らうなど、軍の怠慢以外の何物でもない。そうなっては国民の怒りはソルと軍部、そして政府へと分散してしまう。国民と議会をひとつにまとめ、ソルとの開戦を認めさせ、次いでドラゴリーでの戦争に介入するには、どこかでソルによる卑怯な振る舞いが必要だった。
在オリザニア外交官たちの鈍感としか言いようのない情報への感覚が、オリザニアに正義の御旗を与え、同時にソル人に『騙し討ち』の汚名を着せることになった。