第20話 前夜
オリザニア共和国国務長官デルが、ソル皇国の駐オリザニア大使ノムとクリスのふたりに事実上の最後通牒を突きつけたとき、ナンクウ機動部隊はタンカン湾を出航していた。
一一月二三日に、浅海面航空砂雷を積み込んだ『ブリッツ・ブロッツ』が到着し、他の空母に分配された。その間も最後の物資積み込みが行われ、艦内の空所を満たしていく。未だ行く先を示す命令は下っていないが、間違いなく演習ではなく実戦に赴くことは明白だ。艦内の各所に積み上げられた魔鉱石の梱包や保存食の山は、与えられた使命を果たすまで皇国に戻らないという、強烈な意志を感じさせている。やがて、すべての準備が完了したとき、機動部隊の各艦乗組員は、もう後戻りができない征途につくことを覚悟した。
出港直後から厳重な魔報封鎖が敷かれ、外部との連絡は魔道放送以外一切絶たれていた。
タンカン湾が遠ざかり、視界から消えた辺りで、各艦の艦長や戦隊司令、機動部隊司令長官の声が、高声放送に乗って艦内に流れる。
乗組員たちは、この航海についての訓令を出航に際して聞いていなかったため、まだ自分たちがどこへ向かっているのかさえ知らない。今までにこのようなことは一度もなく、少なくとも次の寄港地くらいは知らされていた。倉庫や燃料庫、格納庫はおろか、通路にまで積み上げられた物資の存在とあいまって、何か途方もないことに向かっていることだけは、朧気ながら解ってはいる。
高声放送は、乗組員たちすべてが待ち望んでいるものだった。
「現在、遠くオリザニアでは、大使によるソル・オリザニア交渉が続けられている。
オリザニアは強硬な態度で、我が皇国に大幅な譲歩を求めてきた。
皇国は、平和を望む。
決して戦争を望むものではない。
しかし、不幸にして交渉が決裂すれば」
第二航空戦隊司令オーキキ少将の声が、二航戦旗艦空母『デットン』の艦内に響く。
一旦言葉を切り、全将兵に次の言葉を予想させる猶予を与えた。
「本艦隊は、ハトーに在泊するオリザニア大東砂海艦隊を討つ。
史上初の長征となる壮挙であり、航空機が戦艦に勝ることを証明するための快挙である。
諸子が実力の涵養に努めたのも、ひとえにこのためである。
緊褌一番、各員が多大なる戦果を挙げると、司令官は確信する。
戦場においては混戦となり、信号も届かない場面もあろう。
その時は躊躇無く敵に向かって猛進撃すべし。
それが司令官の意図に沿うものである」
息つく間もなくオーキキは訓示を吐き出すと、高声放送のマイクを置いた。
一瞬の静寂の後、艦内を大歓声が支配する。
今や戦意は天を衝かんばかりに高揚した。厳しく苦しい、時には殉職者まで出した訓練は、ひとえにこの壮挙のためだ。艦隊は巨大な弓であり、航空機とパイロットたちは無数に撃ち出される火矢だ。理不尽にソルの行く手を阻むオリザニアを、その破壊を司る大槌になぞらえられる大東砂海艦隊を討ち沈め、大東砂海に平和をもたらす巨大な力だ。
誰もが征途の成功を、敵艦の撃滅を誓い合っていた。
「ついに、やるんだね」
搭乗員待機所で、艦内の熱狂から逃れてきたルックゥが、エルミに話しかけた。
「うん。
とうとう、始まるんだ。
本当に始まっちゃうんだね」
僅かに肩を震わせながら、エルミが答える。
「あ、キミたちここにいたんだ。
部屋にいないからどこに行ったのかと思ったよ。
ガンルームにもいないし。
探しちゃったじゃないか。
あれ、エルミ、震えてるの?」
待機所に飛び込んできたファルがエルミをからかう。
「武者震いってやつよ、ファル。
ファルこそ大丈夫なの?
声が震えてるよ?」
自身の恐怖心を見抜かれたかと焦ったエルミは、何とか言い掛かりに等しい切り返しで取り繕う。
「何言ってんだい、ボクがそんな……」
ファルは言い返そうとするが、思わず言葉を詰まらせた。
自分では武者震いだと思いこんでいた震えが、恐怖から来るものと気付いてしまったのだった。
「みんな、怖いんだよ。
エンザ中尉みたいに、ベロクロンで戦ってきた人たちみたいに、誰もが鋼鉄の神経を持ってるんじゃないんだよ。
いいんじゃないかなぁ、今は震えていても」
ルックゥも僅かに語尾を震わせながら、ふたりに言った。
ソル・オリザニア交渉の結果次第で、機動部隊は帰投する可能性があるとはいえ、決裂を想定したからこそ出撃している。
遠くない未来に、誰かが命を落とすことは確実だった。それが自分なのか、苦楽を共にした誰かになるのか、それはまだ判らない。だが、その未来を見てしまった今、この長征が初陣となるエルミたちは、言い知れぬ恐怖に襲われていた。ルックゥは気丈に振る舞おうとしているが、その目からは涙が溢れている。やがて、三人は声を殺して泣き始めた。
同じような光景が、機動部隊全艦の新任少尉の士官私室や搭乗員待機所で見られていた。
第八戦隊旗艦の重巡洋艦『ドラコ』でも、同様の熱狂が渦を巻いている。
レグルはタンカン湾に入港したときの驚きを、まるでついさっきのことのように思い出していた。
見慣れた二航戦だけでなく、一航戦、五航戦が勢揃いしていた。ソルが保有する制式空母のすべてが、タンカン湾に舳先を並べていた。ユーメイ湾で行った艦隊行動訓練の意味が、そのとき理解できたのだった。
エルミと同じ艦隊に所属できたことは心強いが、これから何が起きるのか、レグルはルカとじゃれ合っていたときの予想を思い出し、慄然とした。
熱狂から身を冷まそうと最上甲板に上がり、何の気なしに後甲板に歩いていたレグルの耳に、啜り泣きが聞こえてきた。
『ドラコ』が搭載する砂上偵察機の搭乗員待機所から、その泣き声は聞こえてきた。レグルは、聞かなかったことにして通り過ぎるか、様子を見に行くか僅かの間悩んだが、思い切って見に行くことにした。
「どうした?」
待機所には、砂偵パイロットのリンが、ひとりで泣いていた。
「あ、レグル。
怖いの。
戦争が。
怖いの。
私、偵察も着弾観測も怖いの」
崩れ落ちそうな身体をなんとか支え、リンが言った。
「どうしたんだよ、リン?
お前らしくな――」
「怖い! 怖い! 怖い! 怖い! 怖い! 怖い!
怖いの!」
レグルの言葉を遮り、リンが叫んだ。
「落ち着けよ、リン。
俺だって怖いさ」
レグルはなんとか宥めようとする。
「弾が飛んでくるんだよ?
私を殺そうとして、弾が飛んでくるんだよ?
訓練じゃ絶対になかった、弾が、私を、殺しに、飛んで、くるの。
逃げても、敵の、飛行機は、追いかけて、くるんだよ。
怖いよ」
リンが泣き崩れた。
妹に似た名前を持つ、このどこかあどけなさを残す女性に、レグルは何ともいえない親近感を抱いている。
だからというわけではないが、このまま放っておくことができない。
しかし、リンの恐怖をレグルは理解できない。レグルの配置は、艦底近くの分厚い装甲に包まれたヴアイタルパートの奥にある、主砲発令所だ。戦艦の主砲弾が直撃でもしない限り、いきなり死ぬようなことはない。もっとも、敵弾が弾薬庫を直撃し、『ドラコ』が轟沈でもすれば逃げる間もなく艦と運命を共にすることになるのだが。
それに対してリンは、速度の遅い砂上偵察機のパイロットだ。
偵察任務の途中で敵戦闘機に出会えってしまえば、とても逃げきれるものではない。一度撃ち出してしまえば途中で目標を追尾できない砲弾と違い、いつまでも執拗に追い続けることができる航空機が相手だ。
着弾観測も、敵艦隊の頭上に張り付いていなければならない。
制空権を味方が握ったとしても、明確な殺意を持って対空砲かが襲い続ける。着弾観測機の有無で、命中率に大きな変動がある以上、敵が着弾観測機を放置しておくはずがない。砲術に比べ、圧倒的に戦闘行動や死と隣り合わせる時間が長い。
撃ち落とされなくても、燃料が切れたらそれまでだ。『ドラコ』が戦闘行動中に、砂上に舞い降りた砂偵を収容している余裕など、あるはずもない。
レグルは、泣きじゃくるリンの髪を、優しく撫でることしかできなかった。
一一月二七日以来、政府と軍部の首脳陣で構成された大本営連絡会議では、ソル文書について激論が交わされていた。
その結果、一二月一日、デル文書はオリザニアからソルに対する『最後通告』であり、自存自衛のため開戦せざるを得ずとの結論を出すに至った。外交による解決に執念を燃やしていた外相も、ソル側が身を切る思いで提示した乙案が拒否され、デル文書を突きつけられたことで、オリザニアに交渉の余地なしと悟ることになったのだった。
「総理、自分は目もくらむばかりの失望に撃たれました」
外相の落胆を隠せない言葉に、一貫して避戦の立場を取っていたジョウエイも力なく頷くだけだ。
「この文書は、皇国に対して全面的屈服か戦争かを強要する以上の意義があります。
即ち、皇国に対する挑戦状を突きつけた、と見て差し支えないようです。
少なくともタイムリミットのない最後通牒と云うべきは当然のことと考えます」
外相は続けた。
大本営連絡会議の構成員たちは、寂として声もなかった
「オリザニアは従来の交渉経緯と一致点を全て無視し、最後通牒を突きつけてきたのです。
我々は、オリザニアは、明らかに平和解決への望みも意思も持っておりません。
デル文書は、平和の代価として皇国がオリザニアの立場に全面降伏することを要求するものであることは、我々に明らかです。
皇国は、今や長年の犠牲の結果を全て放棄するばかりか、極東の大国たる国際的地位を棄てることを求められたのです。
これは国家的自殺に等しく、この挑戦に対抗し、自らを護る唯一の残された途は戦争しかないと、私は考えます」
戦争という単語を口にするとき、外相は血涙滴らんばかりに無念そうな表情になった。
このとき、外相はメディエータ国民政府の暗号を解読することで、オリザニア側でソルの乙案よりも緩やかな暫定協定案が検討されていることを知っていた。
もし、その案が提示されていたらと思うと、外相の失望はそうしたものも合わせたものだった。
デル文書の前段には『極秘、試案にして拘束力なし』との記述があり、デル文書は試案であることが明記されている。
しかし、外務省は 『試案にして法的拘束力無し』の部分を削除して枢密院に提出していた。もし、削除などせず、そのまま枢密院に提出されていたら、ここまで一気に開戦論に傾かなかったかもしれない。あくまで試案であり、交渉の叩き台でしかなかったはずだからだ。
だが、政府は交渉のタイムリミットを一二月一日と切っていた。
さらに、ハトー攻撃のための機動部隊は、既にタンカン湾を出撃し、一路ハトーへと進撃している。
これを呼び戻すことは、容易い。もちろん内地に戻った将兵には、厳重な箝口令を敷き、厳しい秘匿義務を課すが、万単位に及ぶ口の戸口に板は立てられない。かならず、スパイは感知するだろう。
交渉を進めつつ、背後に短剣を隠していたことが知れてしまえば、信頼関係を築くなど夢のまた夢だ。
『試案にして法的拘束力無し』だったデル文書が、公文書に変更されることは、子供にでも解る。
乙案以上の譲歩を示すなど、どう考えても無理だった。
もし、そのような真似をしようものなら、軍部、特に騎兵軍がクーデターを起こしかねない。そして、万が一にも庶民にそれが知れたら、間違いなく暴動が起きる。
フェクタムに注ぎ込んだ戦費が、すべて無駄になることを許容できないばかりでなく、一五万の英霊に申し訳が立たない。軍部の詭弁だけではなく、実際に家族を失った者たちの心の叫びだ。
愛する者を、父を、兄を、弟を、恋人を失った者たちの、心の叫びだ。父や、兄や、弟、恋人の死が無駄死にであるなど、誰が認められようか。
クーデターは、今度こそ支持されてしまう。
それが解っているから、外務省は『試案にして法的拘束力無し』の文言を削ってしまった。
オリザニア政府も、まさかこの案にソルが乗るまいと確信したからこそ、デルに一般案を叩き付けさせたのだった。フェクタムはソルの生命線であり、常に南下を狙うロスへの防壁だ。三六年前のソル・ロス戦争後にロスから譲渡されたフェクタム浮遊路線社は、浮遊路線事業以外にも多くの事業を展開しており、そこから上がる巨大な収益はソルにとって欠かせないものだった。そして、共産主義への防壁としても、フェクタムはなくてはならない存在だ。
これを手放せという要求は、ソルに滅びろということ同義だった。
一二月一日の大本営連絡会議に引き続き行われた御前会議でも、当然この問題は取り上げられた。
「メディエータという字句の中にはフェクタム帝国も含む意味なのか?」
枢密院議長が質問した。
「もともと四月一六日のオリザニアからの提案のなかにフェクタム帝国を承認するということがありました。
ですので、メディエータにはこれを含まぬわけです。
ですが、話が今度のように逆転して国民政権を唯一の政権と認めて、共和国政権を潰すというように進んできたのです。
ことから考えますと、前言を否認するかも知れぬと思います」
外相は、四月の幻となったソル・オリザニア了解案、もっともこれはオリザニアの正式な提案ではないのだが、これを例にとって答えた。
軍部もまた、メディエータにフェクタムが含まれると解釈しており、最早戦争しかないと考えていた。
ソルとしては、フェクタム帝国の独立以来、メディエータの領土ではないと主張してきた。
しかし、なぜ政府や軍部はメディエータの字句の中に、フェクタムが含まれると解釈したのか。オリザニアは、最初からフェクタム帝国を承認していない。オリザニアの認識では、フェクタムはメディエータ共和国の一地方でしかない。そういった立場を取り続けていたオリザニア側の要求にある『メディエータ』の中には、当然フェクタムも含まれるのだという先入観がソル政府と軍部が考えても不思議ではない。
完全なソル側の誤解なのだが、オリザニアとしてはこの誤解を狙っていた部分もあったのかもしれない。
「この文書は、半年を超える交渉経緯を全然無視した不当なるものです。
オリザニアは、終始その伝統的理念と原則に固執し、東ベロクロンの現実を見もしません。
しかも、自らは容易に実行できない諸原則を、皇国に強要せんとするものです。
わが国幾多の譲歩にもかかわらず、七ヵ月余りの全交渉を通して当初の主張を一歩も譲ろうともしていません。
デル文書は到底容認し難きもので、オリザニア側がこれを撤回せぬ限り、交渉を継続しても我が主張を貫徹することはほとんど不可能という他ありません」
外相は、デル文書への所見をそうまとめた。
続いてジョウエイ首相を始めとした政府と統帥部の各責任者より、所管事項の説明が皇王になされた。その際、ジョウエイ首相より、ノシュウ砂海軍令部総長に対して避戦への最後の望みを託した質問があった。
皇王の御前で戦争に勝つ見通しがないと言えば、改めて交渉延長の希望を見いだせるかもしれないと考えてのことだった。
「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれません。
しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国であります。
しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるでありましょう。
戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹したソル精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するでありましょう。
そして、いったん戦争と決定せられた場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみであります」
負ける可能性を口にしたノシュウ砂海軍軍令部総長だが、ついに勝つことは不可能と言い切ることはしなかった。
この間、アッキカーズ皇王は黙って説明を聞いていた。その目は堅く閉ざされ、開戦の決定を拒むかのようだった。
「オリザニアの態度は、皇国の忍ぶべからざるものです。
この上、手を尽くしても無駄になるだけでしょう。
したがって、開戦も致し方ありません」
ついに枢密院議長からも、開戦を決意する意見が表明され、出席者全員の賛成で開戦が決定された。
アッキカーズ皇王がそれを了承し、ソル皇国は戦争へと大きく舵を切った。
オリザニア政府がソルに最後通牒とも取れるデル文書を突きつけた背景には、ドラゴリー大岩盤戦争に参戦したくてもオリザニアの世論、国民が戦争を望んでいないということがあった。
オリザニアはサピエントの移民が独立を果たした国家であり、サピエントは独立戦争を戦った相手とはいえ、父祖の地でもある。ドラゴリー大岩盤での戦争が勃発し、心情としてはサピエントを救いたいと、国民の多くは思っている。現在も血族が暮らしている者も少ない数でなく、積極的な介入を求める声も皆無というわけではない。しかし、サピエントが危機的状況に陥っているとはいえ、オリザニア本土に実質的な損害はない。ドラゴリー大岩盤の戦争は多くの人々にとって、広大な大西砂海を挟んだ遠い世界でのできごとでしかなかった。
それだけに現実味が乏しく、オリザニア国内ではアレマニアに対する敵意が、たいして芽生えなかったのだった。
二三年前に終結したドラゴリー大岩盤全域を巻き込んだ戦争に参戦し、多くの戦死傷者を出したわりには見返りの少なかった教訓から、オリザニアの世論は今回の戦争への参戦には消極的だった。
しかし、ローザファシスカ大統領は、国家の未来のため、この戦争への参戦は不可欠と考えている。
ベロクロン大岩盤諸国のほとんどは、オリザニア建国のはるか前にドラゴリー大岩盤の列強諸国の植民地となり、宗主国に大きな利益をもたらしていた。いまさらオリザニアが食い込む余地など、ほとんど残されていなかった。だからといって、力で奪い取るわけにもいかない。オリザニアはサピエントだけでなく、ドラゴリー大岩盤からの移民も多数いる。かつての母国に対し戦争を仕掛けることに、反対する者は多かった。
だが、この戦争で国土を蹂躙された宗主国が、植民地を維持していけるはずもない。情けない姿をさらけ出した宗主国に対し、反乱や独立戦争を仕掛ける植民地が出ないとも限らなかった。
植民地をネグリット以外に持てなかったオリザニアにとって、この戦争は大きなチャンスだった。
対アレマニア・ウィトルス戦争で指導的役割を果たし、勝利への牽引車の立場を得ることができれば、没落した列強諸国から植民地を合理的に奪い取ることができる。メディエータの市場化ももちろん重要だが、それ以外の地域もオリザニアの経済圏に収めるためには、ドラゴリーの列強諸国に対し優位な立場が必要だ。
この戦争は、オリザニアが世界に君臨するための千載一遇のチャンスだと、ローザファシスカは認識していた。
しかし、戦争を望まない世論や国民に、戦争への介入を納得はさせるには、アレマニアに先に手を出させることが必要だった。
もちろん、アレマニアもオリザニアまで敵に回す危険は、充分すぎるほど理解している。そのためサピエントに武器や救援物資を運ぶオリザニアの輸送船団には、一切攻撃を仕掛けることはなかった。敵国に救いの手を差し伸べる者は、明確な敵であるにも拘わらず、アレマニア潜砂艦部隊は隠忍自重していた。
わざわざオリザニアに、参戦の大義名分をくれてやる必要などないからだ。
九月四日、大西砂海でオリザニア駆逐艦がアレマニア潜砂艦の雷撃を受け、ローザファシスカ大統領は『アレマニアは意図的に攻撃してきた』と発表した。
だが、不振に感じた上院砂海軍委員会が調査したところ、先に攻撃をしかけたのはオリザニア駆逐艦だったことが判明した。
さらに一〇月一七日にも、オリザニアの艦艇がアレマニア潜砂艦の攻撃を受け、ローザファシスカは『オリザニアは攻撃された』と発表した。前回は輸送船団の護衛だったが、今回はまったくアレマニアに対して不利益な行動を取っていない。
これを以て国内に反アリマニア熱が広まれば参戦が叶うとの目論見だったが、この事件もまた先に手を出したのがオリザニアということが判明した。
国民はローザファシスカこそ戦争を欲していると非難する結果となり、まったくの逆効果になってしまったのだった。
この状況を打開するには、いかにソルを挑発して戦争を起こさせ、国民に反ソル感情を抱かせるかというのが重要問題となっていた。
ソルと開戦すれば、三国軍事同盟を結んでいるアレマニアから、自動的に宣戦布告をしてくれるからだ。それゆえ、クリスが提案した三国同盟の死文化を、デルは蹴ったのだった。
しかし、国民を納得させ、世論を纏めるには、当然オリザニアがやむを得ず戦争に巻き込まれたという情況を演出せねばならない。
ソルをして最初の発砲者たらしめることは危険ではあったが、誰が侵略者であるかオリザニア国民に理解させ、完全な支持を得るには必要なことだった。そのために、多くの命が失われようと。
オリザニア政府は世論操作のためにソルを挑発し、暴発を誘うために誤解しやすいデル文書を叩き付けたのだった。
デル文書の提示は騎兵、砂海軍の長官にも知らされていなかった。
騎兵軍長官が今後の方針を決めるため、デルに電話で問い合わせたとき、『事柄全体を打ち切ってしまった。ソルとの交渉は今や貴下たち軍の手中にある』と言われた。
騎兵軍長官は、デル文書がノムとクリスの両大使に渡されたとき、ローザファシスカ大統領と会見していた。その席では『我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにしてソルを先制攻撃する立場に操縦すべきか』と彼は言っている。
だが、騎兵軍長官はあまりの急展開に思考が追いつかず、多数の犠牲者を想像して思わず受話器を落としそうになった。
そして、デル文書はオリザニア議会に対しても、充分説明されていない。
もし、議会に諮れば戦争を誘発するとして、大反対を受けることは明白だったからだ。デル文書は、オリザニア共和国の意志ではなく、ローザファシスカの独走によるものだった。
ローザファシスカは、デル文書を基礎にしてソルと交渉ができるとは考えていなかった。
ソルの外交暗号を解読していたことで交渉期限が一一月末までであることを知っている。そして、交渉がまとまらない場合、一二月初めにはソルが交渉を打ち切るであろうこと、先制攻撃があることを予想していた。
そのため、デル文書がソル側に提示された日に、開戦に備え無制限潜砂艦作戦の指令が各地の潜砂艦部隊に対して出されている。だが、当面差し迫った危険のない騎兵軍には、何の情報提供もなかった。騎兵軍長官の驚愕は、このことに起因していたのだった。
ソル・オリザニア交渉は、デル文書を以てして終了したのだった。
「どうだった?
お前の親友の許嫁は、無事だったかい?」
茶化すような笑いを含んだ声で、フィズが聞いた。
「うるせぇ
お前はいつもひと言余計なんだ。
普通に、幼馴染みは、と聞けばいいだろう」
ひと言余計はガルの方だ。
素直に答えていれば、さらに茶化されることはないのだった。
「まあ、その顔を見れば大丈夫なんだろうさ。
特高に目を付けられたら、お天道様の下は歩けないからな」
弛緩したようなガルの顔を見て、フィズはまた笑った。
「いろいろと迷惑をかけた。
お詫びというか、手間のお返しに今夜は奢らせてもらおう。
といっても、外食もままならない世の中だ。
俺の部屋に来いよ。
親友の親父さんが持たせてくれたものがあるんだ。
あと、幼馴染みからもな」
そう言ってガルは大きな鞄を軽く叩いた。
一一月三〇日の安息日、夕刻になって帝都に戻ったガルは、魔報で到着時刻を知らせてあったフィズと帝都駅で落ち合っていた。
一一月二八日の夕刻に帝都を出たガルは、村への乗り換えがある大きなターミナルで夜を明かし、二九日の昼前に村へ到着した。そこでチェルの無事を確認し、一晩実家に泊まってから、この日一番の浮遊車で村を出て、いつものように乗り継いで帝都へ戻っていた。
村を出る際に、レグルの父から何とか運べるだけの米と、チェルからはひとりでは食べ切れそうもないほどの折り詰めを持たされていた。どちらも心配して来てくれたガルへの心尽くしであり、それを促してくれたフィズへの感謝の気持ちだった。
「それは、俺がもらったら申し訳ないだろ。
お前が大事に食えよ。
お前の親友の許嫁が作った、例の料理はいただいてみたいもんだが」
あっけらかんと笑いながらフィズは言った。
「あれなんぞを持たせるもんか。
独特の香りだぞ。
そこら中に宣伝してるようなもんだろ、あれは。
まあ、そう言うな。
米はともかく、腐らせちまったらそれこそ申し訳がない」
苦笑いとともにガルは答える。
メディエータ料理にはいくつか独特の香料や調味料があり、匂いを嗅げばすぐに判ってしまう。密閉容器などない世界でそのような香りを振りまいてあるいていては、メディエータのスパイだと看板を背負っているのと同じことだ。
途中のターミナルで特高に連行され、二度と表に出ることはなかっただろう。
「そうか。
そういうことなら、是非に及ばず。
ありがたく、ご馳走になろうじゃないか」
最初から断る気など欠片もなかったフィズが、芝居がかった言い回しで承諾した。
「お前の親友の許嫁、良い腕をしてるな。
別にメディエータ料理に拘らなくても、充分開業できるだろ、これ」
折り詰めをつつき、茶碗酒をあおりながらフィズが言った。
「お前もいい加減しつこいな。
許嫁、許嫁って、それがどうしたってんだ」
フィズの意図は分かり切っているが、うまい切り返しが思いつかないガルは、フィズの思い通りの反応しかできない。
ガルの下宿に戻ったふたりは、女将に挨拶をして米を分けた後、部屋に戻るなり包みを開けて飲み始めていた。外で飲むことができなくなった今、誰かの部屋に集まってはこうして憂さを晴らすばかりだった。
「詳しいことは聞かないけど、特高が引っ張ったやつを何事もなく返すっていうのも信じられんな」
フィズが心底よかった、といった表情で言った。
悪名高い特高が、連行した者を無事帰すことなど、砂漠が水で満たされるよりあり得ないという顔だった。
「ああ、何度か事情徴収はあったらしいが、何をされたってわけじゃないそうだ。
ただ、毎回朝から晩までっていうのが、大変だったらしいけどな。
疑いも晴れたらしいし、料理は誤解されないように気を付けろってさ」
やはり、こちらも安心したような表情のガルが言う。
もちろん、チェルやその父親から聞いたことすべてを、フィズに言っているわけではない。
「そうか、それは何よりだ。
済まなかったな、余計なことを言って、学校をさぼらせるようなことにしちまって」
他人事ながらほっとしたのか、フィズが気の抜けたような顔になった。
「それは気にするな。
思わぬ里帰りってことで、浮遊車代以上のことにはなったし。
米はお前も持って帰ってくれよ」
ガルは鞄から米の包みを出して、フィズに渡す。
少なくとも一人暮らしが、しばらく食べられるくらいの量は持たされた。
賄いがあるとはいえ、食べ盛りの男にはそれだけでは量が圧倒的に足りない。贅沢禁止令がさらにエスカレートして、外食の米飯販売禁止通達まで出ていた。軍の糧秣として優先的に流通させるためだが、全体の流通量が減少し、農村には米が余るという皮肉な現象を引き起こしていた。
ガルが持たされた米は、そういった余剰の一部だった。
「どうだい、いっそ砂海軍に志願して、許嫁の艦で士官食堂のコックとして雇ってもらえって勧めてみては?」
酔いが回り始め、フィズは楽しそうに絡み続ける。
「そんなこと……とっくに勧めてるわ。
それより、どうだ、旨いだろう、それ」
開き直ったガルが、笑いながらフィズに酒を注ぐ。
「ああ、旨い。
酒によく合うな。
お前の親友の許婚は、彼の国の料理だけじゃないんだな」
煮物を口に入れ、茶碗酒で流し込んだフィズは、心底感心している。
幼い頃から宿の手伝いをしているとはいえ、まともに料理をするようになってから数年でこの腕だ。重巡洋艦の艦長付きコックどころか、連合艦隊旗艦で司令長官付きのコックすら勤まるのではと思っていた。
「ああ、さすがだよなぁ。
チェルの親父さんは。ソルの料理はもちろん、彼の国の料理どころか、ゴールだのアレマニアだの、何でもこいだ。
思うに、チェルは無理に修行に出なくてもいい気がするよ、俺は」
大笑いしながらガルが言う。
確かに火の魔鉱石を操る能力はチェルのほうが上だが、父の経験と技術は火力不足を補って余りあるものがあった。そして、メディエータ料理には欠かせない大火力は、ソルを始めとした他国の料理には多少強すぎる。
メディエータ料理に拘らなければ、チェルの父は一流どころの料理人といえる腕を持っていた。
「じゃあ、お前の、親友の、許婚の、料理はどうなんだ?」
別にチェルの手料理に拘るわけではないが、一杯食わされた気分のフィズは苦笑いと怒りがない交ぜになった顔で、わざとひと言ずつ区切りながら言った。
「ああ、別に担ごうってわけじゃない。
これだ。
これだけで食えば充分旨いが、親父さんのと比べちまうと、まだ一味足りないな。
いや、料理ってのは、本当に奥が深いぜ」
笑いを噛み殺しながらガルは答えた。
そう言いながら、ガルはチェルや自身の父から聞いた話を反芻していた。
息急ききって飛び込んできたガルを、チェルは目を丸くして迎えた。
宿にはメディエータ料理特有の香料が、その存在を主張している。その中でいつもと変わらぬ様子で立ち働くチェルとその父は、少し困ったような、慌てたような表情を見せた。だが、それは一瞬のことで、ふたりはすぐに、いつもの穏やかな顔に戻っている。
自分が村に戻ることで、何か困ったことでもあるのか、ガルはふとそんな考えが浮かんでいた。
「どうしたの、ガル、そんなに慌てて?」
チェルがガルの急な帰郷に思い当たる節はない。
特高による取り調べについては、口止めされていたこともあるが、特に伝えておく必要を感じていなかった。魔報や手紙で知らせるようなことをすれば、かえってスパイに警戒を促す措置と取られかねない。ガルに無用の疑惑が向けられるような事態を、わざわざ招きたいとは思わなかった。
もし、ガルに疑惑の目が向けられずとも、ガルが騒ぎ出したり、レグルやエルミに知らせたりでもしたら、事態は一層ややこしくなるだけだからだ。
「いや、たいしたことじゃないんだけどさ」
チェルの普段と何も変わらない態度の中に、ガルは何ともいえない違和感を抱いた。
「学校はどうしたんだ、ガル坊?」
懐かしい呼び方で、チェルの父が声を掛けた。
「そうだよ、冬休みにしては、まだ早いんじゃない?」
チェルはからかうような表情になるが、ガルにはそれが痛々しいほどわざとらしく見えた。
「親方が、大怪我して店をたたんだんだ。
だから、チェルもひょっとしたらって思って。
でも、何もないみたいで良かったよ」
大声で特高は来なかったのかと叫びたい衝動をかろうじて抑え、ガルはゆっくりと言った。
もちろん、どこに特高の目が光っているか判らない。親方の怪我が特高の取り調べによるものだと、ここで言うわけにはいかなかった。
「うん、大丈夫だよ。
大丈夫。
心配しないでいいよ。
多分、それでだと思うけど、話を聞きには来たよ。
それだけだから、ね」
ガルがなぜ突然来たかの理由を悟り、チェルは安心させるように答える。
詳しい経緯をチェルは知らないが、親方が店をたたんだことは特高の取調官から伝え聞いていた。
修行の中断を余儀なくされて以来、チェルは表立ってメディエータ料理を作ることや、宿の食事として客に出すことはなかった。だが、以前ガルが帰郷していた際に、ほぼ身内といって言い相手という気の緩みもあったか客のいる時間帯であるにも拘らず、ガルにだけ修行の成果を見せようとメディエータの料理を出したことがあった。当然、食堂は独特の香りに満たされたが、村の者たちには別段気にかかることではなかった。
しかし、折悪しく帝都からの客がチェックインに訪れ、その香りに気付いてしまった。
僅かに眉根を顰めた客に気付いたチェルは、何事もなかったよう対応していた。
ふたりの客も食堂に充満する独特の香りをあげつらうことも、特に何かを聞きまわるような真似もせず、翌朝機嫌よく出立して行った。しかし、このふたりが帝都に戻って軍務に復帰した後に何気なく交わした言葉が、特高が軍に潜り込ませていた密告者の耳に入ってしまったのだった。密告者はメディエータ料理のことを聞くようなことはせず、ふたりの旅程を言葉巧みに聞きだし、僅かな調べ物だけでチェルの宿を特定していた。
その結果が、先日まで行われた取調べなのだが、チェルがその原因に気付くことはなかった。
チェルは、親方の線から自分が浮かんだのであろうことは想像していたが、辺鄙な村にメディエータ共和国政府の手のものが潜伏などできるはずもないと考えていた。
それぞれが子供の頃からの顔見知りであり、個々の家族という単位は村という大家族の中に含まれるようなものだった。その中にスパイが潜伏するなど、どう考えても無理だった。知らない顔があれば誰もが警戒し、怪しい行動があればすぐに村中に伝わってしまう。
排他性といってしまえばそれまでだが、村という大家族の結びつきはそれほど強固なものだった。
「ならいいんだ。
ちょっと気になったんでね」
安心したような表情のガルから、ようやく緊張が抜けた。
チェルが怪我を負うようなことや、身体だけでなく心に深い傷を負っている様子もない。もしそうであれば、チェルが厨房に立つことを父が許すはずがない。
「それにね、疑いが晴れた後は、メディエータ料理を作っていてもいいって言われたんだよ。
やっぱり、レグルの信用って大きいんだね。
砂海軍少尉の名前を聞いた途端に、取調官さんの態度が変わっちゃったもん」
ガルは、満面の笑みをたたえたチェルの言葉に、僅かだが胸の奥を抉られたような気がした。
翌朝一番の浮遊車で村を発つガルは、両手に抱えきれないほどの荷物を持たされていた。
途中で食べる弁当だけでなく日持ちが効くように作られた折り詰め、レグルの父が作った米や野菜、そして自らの父から付けられた横っ面の腫れを抱えて、浮遊車の揺れに身を委ねている。
家に帰るなり、学業を放り出したことを咎められ父に殴り飛ばされたが、そのことに対する怒りはない。当然のことであり、ガルにしても少なからず負い目があった。だが、父の怒りはそれで終息し、久々に戻った息子に対し頼もしげな視線を送っている。最優先で行わなければならないことを多少誤ったとはいえ、他人を気遣い、すぐに行動を起こせる積極性や、他者を思いやる優しさは叱りつけるべき対象ではない。
ガルを家に入れた父は、早く嫁を見つけて来いとガルをからかいながら酒の準備を妻に頼んでいた。
父は、チェルが連行されたこと、無事戻ってきたが、それ以降おおっぴらにメディエータ料理を作り始めたことに、大きな疑義を抱いていた。
大きな声ではいえないが、と前置きしてから、父はチェルが特高に抱きこまれた可能性があると自身の考えを口にした。帝都や他のオアシスで、メディエータ料理の店が片っ端から閉鎖している現状で、この村だけがメディエータ料理を黙認されているということは、特高警官の裁量だと考えるほど父は世間知らずではない。もしくは、チェルの性格からすると、スパイをおびき寄せる餌になっていることにすら気付いていないかもしれないとも考えられた。
父は、ガルにこのことはチェルにはもちろん、誰にも言ってはならないと厳しく命じていた。
「まあ、今夜は飲もうぜ、フィズ。
早くオリザニアとの交渉が纏まって、メディエータ戦争が片付いて欲しいよな。
こんなこそこそした世の中が終わって、堂々と酒を飲みたいぜ」
ガルは一升瓶を傾け、フィズの茶碗に酒を注いだ。
「ああ。
はやく、こんな世なのかは終わって欲しい。
俺もそう思うぜ」
茶碗の酒を一気に空けると、フィズは立ち上がった。
「どうした?
今夜は泊まっていけよ」
ガルが怪訝な顔でフィズを引き止める。
「いや、明日の朝米を担いで学校へ行ったら拙かろう?
残念だが、今日は帰る。
もしかしたら、明日にでもオリザニアとの交渉が纏まるかもしれない。
そうしたら、また、ゆっくりと飲もうじゃないか、ガル」
引き止めるガルに言葉を投げかけ、フィズは米の包みを担いで部屋を出て行った。
国家が戦争への巨大な歯車を回し始めたことは、一切国民に知らされていない。
それどころか、ソル・オリザニア交渉の進捗状況も、砂海軍の期待を一身に背負った最新鋭戦艦が間もなく産声をあげることも、なにもかもが知らされていなかった。ドラゴリー大岩盤での戦況は、ほぼ正確な情報が伝えられているが、オリザニアに関する情報が庶民に知らされることはほとんどない。
アレマニアとウィトルスの快進撃が連日報じられ、オリザニアに関しては敵愾心を煽るような社説やコラムが掲載されていた。
情報局がすべての情報を抑えている以上、国民が政治の裏で動いていることを知る術はなかった。
それでも一部の国民、造船や物流に関わる者たちは、甲案がオリザニアに拒否された一一月初旬以来、急激に軍関連の仕事量が増えたことで言い知れぬきな臭さを感じていた。外地へ送る糧秣の増加に始まり、人員の大移動による納品量や場所の激変といった変化は、開戦を想像させるには充分なものだ。もちろん、理由を聞いたところで答えが返ってくるはずもなく、世間話にでもすれば特高が扉を叩きかねない。
社会の変動は、不気味にうごめき始めていた。
一二月二日、外務省は、御前会議の決定を受け、大急ぎで対オリザニア通牒覚書の作成に入った。
いきなり戦争を仕掛けるのではなく、まずは通商交渉の打ち切りから始めなければ、不意打ちの誹りを受けかねない。もちろん、通商交渉を打ち切るということは、宣戦布告と同義であることは子供にでもわかる道理だ。
砂海軍のハトー攻撃部隊は、ハトー現地時間一二月七日、安息日の午前七時に攻撃に移る手はずになっていた。
同時に騎兵軍はサピエント植民地のマーレイヤへの進駐を計画している。サピエントに対する宣戦布告はもともと予定にないが、マーレイヤへの上陸はオリザニアに対しての不意打ちと同じことだ。オリザニアへの通商交渉打ち切りの通告と通牒覚書の手交は、ハトー攻撃の一時間前となるオリザニア首都時間一二月七日一〇時三〇分、ハトー時間で午前六時に行うことと決定した。
そして、作戦開始命令暗号『水泳大会開催一二〇八』が、この日の午後八時三〇分に発令された。