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第19話 決裂

「いいかげん、正直に言ってしまったらどうかね、お嬢さん。

 我々も好きでこんなことをしているのではないのだよ」

 殺風景な部屋に簡素な机がひとつ、それを挟むように壊れかけたような音をきしませるイスがふたつ並べられていた。


 机の上には安物の電灯が置かれ、それを挟むように若い女性と、中年の男性が座って対峙している。

 若い女性は何度も繰り返される質問に、うんざりしたような表情を浮かべないように細心の注意を払いながら、静かにだが、きっぱりと否定の答えを返していた。

 焦れたような表情を作っている男性は、朝からこれで何度目になるかもう数えるのも嫌になるほど繰り返された質問を口にしている。


「お嬢さんがメディエータに肩入れしているのは、もう解っているんだ。

 帝都から離れた宿は格好の隠れ家になるからな。

 お嬢さんの宿に集まる国民政府の間諜を、洗いざらい教えてくれないかね?

 我々としても、若い女性に拷問など、できればしたくないのだよ」

 言葉とは裏腹に、数多くの拷問を手がけるうちに加虐的な性嗜好に染まりきっている男性は言った。


「何度も申し上げておりますように、あたしはメディエータに肩入れなどしておりません。

 たまたま好きな料理が彼の国のものであっただけです。

 あたしの宿を隠れ家にしているような人は、ひとりもいません」

 女性は拷問という言葉に恐怖を感じ、身を竦ませながら答えた。


「彼の国の料理がお好きなのは仕方のないことだ。

 愚かにも戦争を我が国に仕掛けさえしなければ、いま頃あなたがここにいるようなことにはならなかっただろうね。

 しかし、多くの料理屋が商売替えをしている中で、未だに彼の国の料理を作り続ける理由は何なのかね?

 それが隠れ家であることを証明していると、私たちは確信しているのだよ」

 冷酷な笑いを浮かべ、特別高等警察の取調官が言い放つ。


「そのようなご判断をされるのですか?

 どうすればあたしのことを信じていただけるのです?

 ……

 では、第二艦隊第八戦隊『ドラコ』の砲術士官、レグル少尉にお問い合わせください。

 少尉とは幼馴染みであり、許婚です。

 砂海軍士官の許婚が、将来の夫を危険に晒すような真似をするとお思いでしょうか?」

 悩み抜いてチェルはレグルの名を出した。

 レグルに迷惑を掛けてしまうことを恐れ、その名を出すことに躊躇いを感じていのだが、拷問が待っているというのであれば話は別だ。


 自分が拷問に耐えられるほどの精神力と体力があるとは、チェルは思っていない。

 間違いなく途中で心が折れ、特高警官の望む答えを口にしてしまうだろう。料理を通してでも、メディエータに対して多少なりとも好意を持っている以上、拷問の苦痛と恐怖がどのような『真実』を作り出すか正直なところ自信がない。その『真実』を自白することで、砂海軍士官の許婚が反ソル思想を持つ者だとされては、レグルの未来まで刈り取ってしまうことになる。軍からの放逐ならまだいいが、レグルにまで特高の手が伸びることだけは、絶対に避けたかった。

 レグルが少尉任官の時点で許婚の存在は砂海軍に知られているはずで、当然身元調査もされているはずだ。

 それが身の潔白を証明してくれると、チェルは信じていた。


「お嬢さん、なぜ、それを今になって?

 解りました。

 砂海軍に問い合わせてみましょう。

 今日はお帰りいただいて結構です。

 それで、ひとつお願いがあるのですが、これからも彼の国の料理を作っていただきたい。

 間諜をおびき寄せる手伝いをしていただけますかな?」

 大きく目を見開き、しばらく考え込んだ取調官は、尋問の終了を告げた。



「よろしいのですか?」

 チェルを見送った部下が、取調官に訊ねた。


「結構なことじゃないか。

 これで、堂々と砂海軍に手を入れられるぞ。

 上手くいけば、避戦派や親オリザニア派を叩き潰せるかも知れん。

 あの娘も、これであの国の料理を作るのを止めでもしたら、今度こそ引っ張れる。

 隠れ家の目印を下げたのは、間諜を守るためだっていうことだからな。

 それを恐れて作り続けていれば、そのうち引っかかる者も出るだろう」

 狙った獲物は逃さないという意志を視線に込め、取調官は部下に言った。

 当然のことながら、ここまでの内偵でチェルがレグルの許婚であることは判っている。

だが、だからといって、砂海軍士官、それも恩賜の短剣組を簡単に引っ張れるというものではなかった。


「しかし、砂海軍士官が許婚ということであれば、身元調査はしているでしょうし。

 あの娘は本当に関係ないのかもしれません。

 万が一、誤認だったとしたら、砂海軍と事構えるのは得策とは思えませんが」

 不安げな表情で部下が聞く。


「構うものか。

 手段のためには目的などどうでも良い。

 いずれ拷問に掛けて吐かせてしまえば、事実など後からついてくるのだよ」

 取調官は、チェルが苦痛に顔を歪める光景を想像していた。

 いつの間にか目的と手段がすり代わることは多々あるが、意識して手段のためには目的を選ばないなどと言う者はまずいない。

 この取調官は、長い特高勤務の中で、人としての常識を大きく歪めていた。


「あれほどの上玉を、こんな辺境の地で見つけられるとは思わなかった。

 帝都から左遷されるのも、それほど悪いことじゃないな」

 取調官は行き過ぎた取調べで被疑者を死なせてしまったため、帝都勤務を解かれ田舎の村に飛ばされていた。

 だが、それでもこの周辺オアシスの特高警官では最高位であり、そのような者に逆らうような者はいない。

 彼は、全能感に酔い痴れていた。




 一一月一九日、ユーメイ湾の岸壁は喧騒に包まれていた。

 ユーメイ湾の岸壁には、第一砂雷戦隊の一〇隻が接岸している。第三戦隊の戦艦二隻と第八戦隊の重巡洋艦二隻は、砂深の浅い岸壁に横付けすることはできず、沖合にその巨体を休めていた。岸壁の各艦艇には直接、第三、第八戦隊には多くの艀が往復し、訓練で消費した燃料の魔鉱石や、水源の魔鉱石、生鮮食料だけでなく、大量の保存食が積み込まれている。連合艦隊の補給担当が必死に集めた物資は、ユーメイ湾で訓練を続けていた将兵の知らぬうちに埠頭を埋め尽くしていた。

 この日の朝、いつものように訓練が始まると思っていた将兵に、各艦の艦長からの高声放送で訓練の終了と物資の積み込みが命じられていた。


「なんだ、この乾パンだの乾燥米だのは?」

 ランツが膨大な梱包を見て唖然としている。


「どこへ行く気なんだ、いったい……」

 若い士官や下士官兵の間では、様々な憶測が飛んでいる。

 ネグリット制圧程度では、この量は必要ない。


 ソルとはこの星の反対側にある、アレマニアの救援に向かうのではないか。

 いや、オリザニアを直接衝く気だ。

 ソルの真南にあるバラバ大岩盤を攻撃する気だ。

 そうではない、ハトーに艦砲射撃をかける気だ。

 積み込んだ糧秣の量から、長期の征途になるであろうことが容易に予測されている。誰もが疑心暗鬼になり、長く家族や恋人に会えなくなることに不安を抱え始めていた。

 しかし、いくつも挙がった予想の中で、オリザニアとハトーの直接侵攻は、与太話として片付けられていた。


 オリザニアはバキシム大岩盤の国であり、ベロクロン大岩盤すら持て余しているソルが制圧するには手に余る。

 なにより、近海での艦隊決戦を意識したソル連合艦隊に、バキシム大岩盤を衝くだけの渡洋能力はない。補給を行おうにも、ハトーやその手前にあるミルドウィオアシス群を確保していなければ、補給部隊が途中で叩かれて艦隊が立ち行かなくなるだけだ。同様にハトーへの攻撃も、ある程度の航続力を持つ第三戦隊であればともかく、一砂戦にそこまでの航続力はない。

 タンカン湾への移動は韜晦航路だろうと、誰もがそのように理解をしていた。




 ほぼ同時刻、キンコー湾は、不気味なほどの静寂に包まれている。

 連日響き渡った航空機の爆音が消え、人々は久々の落ち着いた朝のひと時を過ごしている。だが、埠頭には大量の物資が積み上げられ、多くの艀が沖合と岸壁を行き来し、航空機の訓練とはまた違った喧騒に包まれていた。

 キンコー湾への移動以来、生鮮食料の補給はあったがそれほどの量でもなかったため、エルミたち搭乗員が搬入を手伝うことはなかった。

 だが、この日運ばれてきた物資の領は常軌を逸しており、さすがに主計科の兵だけでは手が足りず、砲術から航海、機関まで手を貸しているとなれば、搭乗員だけが指を咥えて見ているというわけには行かなかった。


「もうへとへとなんだけど……

 まだ、あるの?」

 いい加減うんざりという顔でエルミがルックゥに呟いた。


「こらぁっ!

 誰だ、文句垂れてるやつはぁっ!

 貴様らが食うものだろう!

 口動かす暇があったら、身体を動かせぇっ!」

 エンザが怒鳴りつけた。

 一応、女性相手に鉄拳を振るうことは控えているものの、下手に口ごたえなどしようものなら砂海に叩き込まれそうな剣幕だ。


 なにせ、自分たちが食うための物を運び込んでいるのだ。

 普段は慣れない作業で怪我でもされたらと、飛行長に他科から手伝いの禁止が伝えられていたが、この日ばかりはそう言ってもいられなかった。膨大な物資が、広い空母の格納庫をみるみるうちに満たしていくが、埠頭に並べられた梱包が減ったという気配はまだない。少しでも早く搬入を片付けなければ、明日の出向に間に合わなくなってしまう。


 戦闘が始まらなければ搭乗員たちにすることはない。身体を万全に状態に整えておくことも仕事だといわれればそれまでだが、忙しく立ち働く下士官兵に申し訳ない気分になることも多々あった。もっとも、空母乗組員の中では消耗品という認識もされている搭乗員に対して、少しでもその気持ちをやわらげようとする配慮から余計な仕事を押し付けないという風潮がある。

 それでも今回運び込まれた物資の量は異常だ。先日の燃料魔鉱石とあいまって、航空機の格納庫まで埋め尽くそうとしている物資に、将兵はどこまで行く気なのかと首を傾げるばかりだった。




 ソル政府は一一月一七日に、三国同盟の実務を仕切った辣腕の職業外交官クリスを、オリザニアに派遣した。

 ノム在オリザニア大使ひとりだけでは、対オリザニア交渉は困難だと判断したからだ。既に対オリザニア譲歩案の甲案は国務長官デルによって、さんざんはぐらかされた後拒絶されていた。クリスをノム同格の大使として派遣し、彼の外交手腕にソル政府は期待していた。ノム大使は元砂海軍大将で、現役時代から国際法の研究に没頭し、退官する頃までにはその権威として知られていたが、豊富な知識をもってしても国家間の交渉は難事だった。

 却って正論が邪魔をしてしまい、駆け引きというものに慣れていなかったノムが、百戦錬磨のデルを相手にすること自体無理だったとも言える。


 ノム、クリスの両大使は二〇日に揃ってデルと会談し、『ティスチ植民地での物資獲得が保障され、オリザニアが在オリザニアソル資産の凍結を解除し、魔鉱石の対ソル供給を約束すればゴール植民地から撤兵』と、『更にメディエータ事変が解決した暁にはメディエータ共和国全土から撤兵』を骨子とする乙案を提示した。

 だが、既に解読された暗号から、デルはその乙案を最後通牒と理解していた。来るべきものが来たという感慨をデルは内心に抱きつつ、平静を保ってその文書を受け取った。乙案はソルにとって大幅な譲歩であり、メディエータ事変以前の状態に戻してオリザニアのベロクロン市場への参入を認めるという、全面降伏に等しい趣旨だった。本来であればオリザニアにとって、歓迎できる交渉条件であるはずだ。

 なぜ、デルは乙案を最後通牒と理解していたのか。それは、暗号の解読に単純な誤訳があったからだった。


 クリスが着任する前の一一月四日、ソル政府はノム大使に暗号魔報で甲乙両案を送付する際に、乙案は修正した『最後的譲歩』案にて左記の通り緩和せるものなり、という一文を付けていた。

 この文面をオリザニアの暗号解読班は、修正せる『最後通牒』なり。左記の通り我が方の要求を緩和した、と訳してしまったのだった。

 さらに翌日の訓令では、交渉に当たってはタイムリミットを付けるような真似や、最後通牒『的』態度を取るような印象は避け、友好的折衝を以てできる限り速やかに交渉成立を『期待するような』態度を持つようにしろ、と提出にあたり注意を促した。もちろん、この電文もやはり解読されていた。

 言うまでもなく、オリザニアの神経を逆撫でするような真似をして、交渉をぶち壊しにするような事態を招くなという意味で、最後通牒と悟られるなという意味合いは欠片も含まれていない。しかし、『最後通牒』という誤訳に惑わされて、オリザニア側はこの訓令を時間稼ぎの引き伸ばしをするようにという意味に誤解した。

 ソルの言い分など始めから聞く気のないオリザニアの態度がこの誤解を生み出し、ソルが心血注いで作成した甲乙の両案はまともに検討すらされることはなくなっていた。

 この日、キンコー湾とユーメイ湾に集結していた機動部隊は、補給を完了した艦艇からキンコー湾を離れていった。




 ソルのオアシス群を左舷に眺めつつ北上する『ドラコ』の最上甲板で、レグルは足元のまとわりつこうとするルカを捕まえようとしていた。

 砂海上を航進している間に、万が一にでも艦から落ちればそれまでだ。いくら中尉の待遇とはいえ、猫一匹に艦を止めて救助など行うはずもない。とりあえず走り回ったりしていないルカだが、捕まえようとしているレグルを遊び相手としか認識しておらず、まるで捕まる気配がない。周囲の将兵もハラハラしながら眺めているが、下手に手を出してルカが暴走したら元も子もない。

 結局、レグルが捕まえるのを待つしかなかった。


「航海長、いざというときは艦を止めよう。

 司令もそれでよろしいですね?」

 『ドラコ』艦長が苦笑いしながら言った。


「もちろんです。

 ルカ中尉の救助は、何よりも優先ですからな」

「それを断ったら、俺は『ドラコ』から追い出されるじゃないか」

 ふたりともが大真面目に答え、艦橋に笑いが弾けた。


 艦橋でハトー攻撃に付いて正確な情報を有する者は、第八戦隊司令部と艦長だけだ。

 別行動を取っている僚艦『ケロニア』では、戦隊司令部要員はいないため艦長しか知らされていない。

 艦橋要員たちにすらまだ知らされておらず、ハトー攻撃についてここでは話せない。いきおいくだらない話で場を紛らわせることになるのだが、タンカン湾を出撃するまで一切情報を漏らすわけにはいかないのだった。ソル・オリザニア交渉が打ち切られたならともかく、まだ継続されている状態でオリザニアの領土を攻撃するなど、噂のレベルであっても知られてはならないことだ。

 まもなく出撃する長征の前に、乗組員たちに上陸を許さないというわけにもいかず、タンカン湾周辺で噂の元になられても困るのだった。


 本来なら砂上補給の訓練をしておきたいところだが、機密保持の観点からユーメイ湾では実施していない。

 もちろん、訓練砂海域は定期航路からは外しており、訓練砂海域の一般船舶や浮遊車の航行は禁じていた。しかし、近くを航行する定期航路を止めることも、そこから訓練を遠望することも不可能だった。正式に戦争状態に入っているわけでもないので、オリザニアやサピエントの在ソル大使館職員が、その定期航路に乗ることを拒否することもできない。その状態で砂海上補給など行ってしまえば、近く長征があることを自ら暴露するようなものだ。

 大使館職員に武官がいることはどこの国でも同じであり、スパイ活動を行っていることは公然の秘密だった。



 第八戦隊とは別砂海域では、『デットン』が護衛の駆逐艦を引きつれ、僚艦『テレスドン』と別行動を取っていた。

 それぞれはタンカン湾へ向かっているが、二航戦として行動するのではなく、一旦母港へ戻る航路を取り、然る後にタンカン湾で合流する手はずになっていた。もちろん、将兵にはタンカン湾へ行くことは告げられているが、なぜ母港をかすめるようにして航行するのかまでは説明されていない。

 しかし、この航海が訓練や演習などではなく、明らかに実戦へと向かっていることは、母港を通過することで証明されていた。


「なんで、こんな面倒なことするんだろうね」

 搭乗員待機所で、暇を持て余しながらルックゥがエルミに言った。


「なんでって、私に聞いても解るはずないでしょうよ」

 レックスを構うことに夢中になっているエルミがぶっきらぼうに答える。


「どこに行くんだろうなぁ。

 いよいよ、戦うんだよね」

 レックスをエルミから取り上げるように抱え上げ、ルックゥが再度訊ねる。


「戦うんだろうね、いよいよ。

 なんか、不思議だよね。

 まだ、戦争にいくって実感がないわ、私は」

 平和そのものの航海からは対オリザニア戦争こそまだ開戦していないが、ベロクロン大岩盤でメディエータと血で血を洗う戦闘が行われている戦時であることを感じ取ることはできなかった。


「これが親善航海に行くんだったら、どんなによかったかしら。

 そんな世の中に、早くなって欲しいよね」

 両前肢を以って抱え上げたレックスの腹に、顔を擦り付けながらルックゥが言う。

 一声レックスの唸り声が上がり、爪を隠したキックがルックゥの顔を弾く。

 情けないルックゥの悲鳴に、搭乗員待機所に笑いが弾けた。



 静寂が戻ったキンコー湾に、第一航空戦隊の空母『ブリッツ・ブロッツ』がその巨体を休めていた。

 乗組員たちは、訓練こそないが日課作業に精を出している。汚れきった艦内を磨き上げ、整備班は航空機の整備に余念がない。埠頭には重量八四八キロ、全長五.二七メートル、直径四五センチの砂雷が一〇〇本並んでいた。

 二一日の早朝から、艀が埠頭と『ブリッツ・ブロッツ』を何度も往復し、埠頭に並んだ砂雷が運び込まれていく。

 浅海面雷撃に必要な改良を施された一型砂雷改が、この日ようやく必要数揃った。第一、第二、第五航空戦隊のキンコー湾出航に、航空砂雷の改造が間に合わなかったのだった。『ブリッツ・ブロッツ』は、この積み込みのため一日キンコー湾出航を延期している。もともと戦艦として設計され、途中から空母として建造された『ブリッツ・ブロッツ』には格納庫や砂雷庫に余裕があるため、ナンクウ機動部隊の空母五隻分の砂雷を輸送する任務を割り当てられていたのだった。

 作業は順調に進み、この日の夕刻前に『ブリッツ・ブロッツ』は出航し、キンコー湾はようやくいつもの姿を取り戻した。




 二〇日の会談で、デルの反応に危険な匂いを感じたクリスは、二一日に単独でデル長官と会談し、三国同盟問題で重大な譲歩を示した。

 オリザニアの対アレマニア参戦に際してのソルの参戦判断は自主的に行うことと、他の締結国の解釈に拘束されるものではないことを記した書面を提示し、これによりソル・オリザニア交渉が促進されるならば即座に署名してデル長官に手交すると申し出たのである。

 クリスは、当時の外相とともに三国同盟を調印した本人だ。クリスがそう書いたものをオリザニアが発表すれば、その瞬間に三国同盟は死文化し、そればかりではなくソル・アレマニア・ウィトルスの関係は、国交断絶を突きつけられても仕方がないほど冷え切るだろう。

 だが、クリスはあえてそれを覚悟で、デルに譲歩を示したのだった。


 しかし、デルはこの申し出を保留した。

 デルは、大変魅力的な提案であり充分検討に値すると前置きした上で、大統領に伝えることを約束してクリスを極めて紳士的な態度で追い返した。だが、最初からデルはクリスを交渉相手としては、信頼に値する者とは考えていなかった。そして、オリザニア政府も同様の見解を、クリスに対して持っていた。たとえ自らと敵対している国同士での話にせよ、こうも簡単に友誼を切り捨てようとする者は、オリザニア人の倫理観では許されざることだった。

 唾を吐き捨て、クリスを罵倒したい衝動を必死に抑え、デルは執務室の扉を閉めた。



「大統領閣下、ソルから大幅な譲歩案が」

 デルはどのようにローザファシスカが返答するか、判ってはいたが報告した。


「国務長官、まさか拒絶するとは言わなかっただろうな?

 まだ戦備は整っておらん。

 そうだろう、参謀長、長官?」

 ローザファシスカはデルには目もくれず、オリザニア騎兵軍と砂海軍の長に問いかけた。


「申し訳ございません、閣下。

 騎兵軍はネグリットへの展開がまだ未了です。

 バラバへの兵員輸送も、大っぴらにはできませんので。

 あと大東砂海全域に充分な配備を完了させるには、あと三ヶ月は必要かと」

 騎兵軍参謀長が冷や汗を拭いつつ答える。


「砂海軍も、多少はマシとは言え、やはり今すぐは対応しきれません。

 大西砂海にいる空母や戦艦を、回航しなければなりませんので」

 冷ややかな目で幕僚長を見ながら、砂海軍長官が答える。


「大西砂海から空母と戦艦を引き上げるだと!?

 正気か、長官!?

 アレマニアの潜砂艦がうようよいる中を、将兵に渡れというのか!?」

 騎兵軍参謀長が目を剥き、砂海軍長官に食ってかかる。


「騎兵軍参謀長、大統領閣下の前で何だ、その振る舞いは。

 貴官の言うとおり、大西砂海にはアレマニアの潜砂艦が大量に行動している。

 つまり、必要なのは優秀な対潜能力を持つ駆逐艦だ。

 図体ばかりでかくて小回りの利かない戦艦は、これは宝の持ち腐れだろう。

 空母も対潜哨戒機を積み込んだ護衛空母で充分だ。

 アレマニア大海艦隊は、遠く自国のフィヨルドに引きこもっているじゃないか。

 仮に出てきたとしても、サピエント本国艦隊で充分対処が可能だ」

 財務長官が騎兵軍参謀長を窘める。


「財務長官のおっしゃるとおりだ。

 それに対して大東砂海には、ソルの強大な水上部隊がいる。

 それに、ソルの潜砂艦隊は、通商破壊作戦を好まないとの報告も、な。

 そのような砂海域にこそ戦艦や空母を集中すべきと砂海軍は結論付け、既に大統領閣下の承認をいただいているのだよ」

 小莫迦にするような目つきで砂海軍長官が続けた。

 蔑むような目が、騎兵軍参謀長に向けられたものなのか、潜砂艦の使い方を知らないソルの同業者に向けられたものなのかは、はっきりとしなかった。



 騎兵軍参謀長がかろうじて平静を保ちつつ引き下がるのを見て、ローザファシスカは財務長官に頷きつつデルに向き直る。

「それで、我が国の返答はどうするのかね?」

 回答は既にローザファシスカの頭の中にあるが、それは公式な会議の席でスタッフからの提案で積み上げられなければならない。

 ローザファシスカはあくまでも平和を望む大統領であり、戦争の準備は和平への万策尽き果てた後に、スタッフからの進言の上で下す苦渋の決断でなければならなかった。


 オリザニア政府は、ソルが提示してきた甲乙案など問題にしておらず、オリザニアの主張を通すことしか考えていない。

 しかし、乙案を最後通牒と誤解してしまったことで、新たな問題も持ち上がっていた。ソルは戦争を避けようとしており、交渉の妥結点を探るべく必死なのだが、オリザニアはそれを欺瞞とみてしまった。もともとオリザニアは、ソルを戦争に引きずり出す気でいた。従って乙案が最後通牒であっても、これについてはまったく問題はない。だが、もし、このまま開戦となれば、両軍の長が告白したとおり、オリザニアは未だ軍備は万全ではなかった。

 そして、ソルとの交渉に臨んでオリザニアが終始取り続けてきた態度は、あまりにも不誠実であり、戦争を望んでいたと言われてもおかしくないものだった。


 ローザファシスカは、ドラゴリーでの戦争には介入しないことを公約に掲げ、オリザニア大統領選挙史上初の三選を果たしていた。

 不誠実と取られかねない交渉態度が原因となって現時点で開戦してしまっては、明らかなオリザニアの挑発の結果の開戦であり、それでは公約違反と理解されるだろう。それは有権者との契約違反であり、即辞任に繋がる一大事だ。そればかりか、戦備不足で緒戦に敗北を喫するようなことにでもなれば、国益を損ねた大統領として後世の歴史家からも糾弾されかねない。とにかく、ソルと何でもいいから暫定的な取り決めを行い、戦備が整うまでは交渉を引き延ばす必要があった。

 だが、それでソルが納得してしまっては元も子もない。時間を稼ぎつつ、ソルが暴発するような内容でなくてはならず、両大使に手交した瞬間にふたりが席を立つほど強硬であってはならない。



「それは、ただいまからご説明いたします。

 お手元の文書をご覧ください」

 僅かに苦いものを含んだ視線を財務長官に走らせたデルが、会議の開始に当たって配布してあった文書を手に取った。


 デルは、既に甲案を受け取った時点で、いずれ出されてくる乙案を念頭に、オリザニアからの『最後通牒』案を考え始めていた。

 デルからの指示で、最初に国務省極東部が独自の対ソル私案を作成していた。しかし、その内容が乙案の対案なのか、乙案を完全拒否した上での新たな交渉材料とする基礎案なのか分からぬ内容であったため、ソルへの回答としての採用は見送られた。相前後して、財務長官が国務省を通り越して、直接大統領へ対ソル私案を提出していた。この財務長官私案が大統領から国務省に戻され、それに基づいて国務省はソルに対して強硬な内容を多く含む一般案と、ある程度の妥協を示した暫定協定案に分けて作成した。

 この席で配布された文書が、その二つの案だった。


 暫定案は、かなり現実的な避戦の妥結点が含まれた内容だった。

 国務省内の避戦派は、これならばソルも強固な態度を改め、ソル・オリザニア交渉は継続され、妥結への希望が持てるものと認識していた。

 二二日に作成した案は六項目に亘るもので、メディエータ駐留軍の大幅な規模縮小を求める代わりに、ゴール植民地への駐兵を制限付きながらも認めていた。これは、ソル軍のゴール植民地進駐に態度を硬化していたオリザニアが、初めて見せた妥協だった。さらにティスチ、ゴール両国植民地での、ソル資産凍結解除も約束している。

 そして、二日後に国務省内で検討された改正案では、さらに通商問題にも詳しく言及していた。

 民需用石油の輸出許可などを盛り込んだものであり、少なくともソルにとってこれは交渉打開の期待を抱かせるには充分な内容だった。デルもその内容には賛意を示し、暫定案をソル側に提示するつもりでいた。



「国務長官、ソルが暫定案を飲んでしまったら、いかがするおつもりか。

 それをお聞かせ願いたい」

 海軍長官が不安げな表情を見せた。

 万が一にもソルが妥協し、ベロクロン市場にその状態でオリザニアが参入することは、ソルばかりではなく、ベロクロン大岩盤に権益を確保しているサピエントやティスチ、ゴールとの衝突を意味していた。


「三ヶ月後、貴軍と騎兵軍の戦備が整い次第、一般案を突きつければいいだけです。

 彼の国は、政治家に少数の人物はおりますが、軍部、特に騎兵軍に戦略眼を持った者は皆無と言ってよいでしょう。

 方面軍ごとの縄張り意識の強さもさることながら、功名心が高く、武功を競い合う傾向にあります。

 メディエータ戦役の拡大も、中央が臨んでいないにも関わらず、現地に展開する方面軍による独断専行が招いたものと、我々は結論づけています。

 従いまして、三ヶ月も待たず、彼の軍のいずれかが一般案提示のきっかけを作ると」

 デルの言葉に騎兵軍参謀長が同意を示す首肯をした。


「その前に、メディエータ国民政府を納得させられるか、ですか。

 おそらく、国民政府首相はメディエータ駐留軍の規模縮小だけでは納得しますまい。

 ベロクロン全域からの撤退。

 フェクタム帝国を取り戻す気でしょうな」

 財務長官が言った。


「強固に申し入れるなら、援助の削減をちらつかせれば、彼は引っ込みます。

 いずれ、フェクタム帝国はともかく、メディエータ国内からの全面撤退を求めるのですから、三ヶ月ほど我慢できぬ道理はありますまい。

 事細かに説明せずとも、暫定案などで我々が事を終わらすとは考えないでしょう。

 そこまで莫迦ではないと、私は期待しています」

 デルは国際政治の中にいれば解るであろうことを、わざわざ茶番を演じてまで説明する必要性を感じていない。

 メディエータ国民政府の立場や危惧は解らないでもないが、ソルに暴発されるくらいであれば三ヶ月の忍従がそれほど高額の経費ではないことくらい、政治を司るものなら解るはずだと信じていた。


「よろしい。

 その線でいけば、ソルも態度を改めよう。

 各国の大使公使に了解を取った上で、ソルに提示したまえ」

 デルの説明に満足げに頷くと、ローザファシスカは退席した。




 二四日、デルはソルに提示する前にサピエント、ティスチとゴールの両亡命政府、メディエータ国民政府、バラバの各大使と公使を呼び、暫定案についての意見を求めた。

 いくらなんでも、オリザニアの独断だけで進めていいことではない。各国の足並みを、ある程度は揃えておく必要がある。植民地とはいえ、他国軍の駐留が交渉の妥結点に含まれている以上、当事者の了解なしに話を進めるわけにはいかなかった。

 それがたとえ本国を追われた、亡命政府であってしてもだ。


 デルにしてみれば、暫定案はオリザニア軍が臨戦態勢を整えるまでの時間稼ぎであり、ソルがこの条件を呑んだとしても永続的にその状況を放置する気など、始めからなかった。

 いずれ軍備が整えば、ソルに対してさらに強固な条件の一般案を突き付け、ソルの暴発を誘う気でいた。だが、当然のことといえばそれまでだが、メディエータ国民政府から暫定案に対し強固な抗議が上がった。メディエータにしてみれば、短期間であろうとオリザニアによるソル軍駐留が認められてしまえば、支持基盤の危うい国民政府など共産政府とソルの傀儡である共和国政府に揉み潰されてしまう。

 公使の発言は、デルの説明など耳に入っていないかのような、ヒステリックなものだった。


 サピエントを始めとしたメディエータ以外の国は、代表者らが本国から何ら訓令を受けて来ているわけではない。

 あくまでもデルに呼び出され、突然大幅な譲歩を含んだ暫定案を見せられたに過ぎない。ヒステリックに喚き散らすメディエータ国民政府公使を後目に、オリザニアにすべての責任があることや、暫定案による妥結が見られた場合の損害について、大使には責任がないことを本国に証明するようデルに求めた。さらには、戦争になった時はオリザニアが軍事行動を準備し、全地域の防衛に指導的役割を担うことを暗に期待していることが、言葉の端々から滲み出ていたる。

 デルは、各国の他人任せとしか思えない不誠実な態度に、失望すると同時に呆れていた。



 メディエータ公使は、ベロクロン大岩盤にソル軍が残留することに絶対反対だった。

 デルは、当初ゴール植民地へのソル軍駐量兵力を二万五〇〇〇まで認めるとしていた案を五〇〇〇に減らし、メディエータ駐留軍も同様に五〇〇〇まで減らす案を提示した。いきなり全面撤退などさせてしまえば、メディエータ在留ソル人の安全が確保できない。ソルに対して怨み骨髄に徹した国民政府支持者に、惨殺されかねなかった。もちろん、ソル軍の全面撤退を求める際には、在留ソル人の引き上げを同時に求めることになるが、今これをしてしまえばソルが交渉を諦めてしまう可能性が高い。

 時間稼ぎのためといくら説明しても、メディエータ公使は折れる気配を見せなかった。


 会議が紛糾し、暫時休憩の後も、メディエータ公使は執拗に抗議を続けた。

 デルが、最長で三ヶ月間ソルを平和路線に縛り付けることは五ヶ国にとって利益であり、その間さらにソルへの対処を整える時間を稼げる利点があると主張したことで、参列した各国も納得したかに見えた。しかし、それでもメディエータは執拗に暫定案に反対した。

 一時的にせよオリザニアがソルと暫定協定を締結しようとしたことを知った国民政府首相は、なりふり構わぬ抗議を行ったのだった。


 さらに翌二五日には、デルのもとへ共和国政府首相の工作によって動かされたサピエント王国首相から、ローザファシスカへ宛てた魔報が届けられた。

 魔報には、協定の締結がメディエータ国民政府を不利に追い込むと、サピエント人らしい遠回しな書き方で暫定案への批判が綴られていた。国民政府首相は、オリザニアの支援なしでソルに対抗することは不可能と理解していたため、ベロクロン大岩盤の南東に巨大な植民地を持つサピエント王国の首相に泣きついたのだった。サピエントにしても、ソル軍がゴール植民地に残ることは、自らの植民地を脅かされることであり、可能な限り排除しておきたかった。

 メディエータを踊らせてオリザニアの暫定案を潰せるなら、それに越したことはないのだった。



 ついに、デルは暫定案の提示を諦めざるを得なくなった。

 そして、翌二六日の早朝、突然ローザファシスカから一般案の提示が指示された。

 ローザファシスカも、デル本人も、ソルがこの一般案を飲むなど、最初から考えてもいなかった。交渉の引き延ばしを指示していたローザファシスカが、突然一般案の提示を認めた裏には、サピエント首相からの魔報もあったが、この日届けられた一通の報告があった。

 まだ執務開始には随分と時間のある朝食前に、騎兵軍参謀長から上げられた報告だった。


 それは、ソル軍の船舶がネグリットオアシス群を目指して南下中というものだった。

 その報告を聞いたローザファシスカは、即座にソルの背信行為と断定した。交渉を続けつつ、いつでも軍事行動を起こせる準備を進めていると、ローザファシスカは判断した。交渉はソルにとっての時間稼ぎであり、兵力の配置が整い次第交渉を打ち切りネグリットに攻撃を仕掛けると断じたが、その時点でローザファシスカたちが取っている行動となんら変わりはない。

 だが、ローザファシスカはソルの背信行為に激怒し、半ば開戦覚悟で一般案の提示を決意したのだった。

 しかし、これはソルの輸送船団であり、ゴール植民地へ回送するだけのものだった。

 この情報は、ソル軍の特別な移動を伝えるものではなかったが、それまでの過程でローザファシスカはソルへ不信を高めており、やや感情的に譲歩の姿勢を放棄した。三国同盟の立役者クリス大使の派遣が、思わぬ影響を与えていたのだった。




 二六日の午後五時、ノム、クリスの両大使が国務省に呼び出された。

 緊張の面持ちで応接セットに身を沈めたふたりの前に、無表情で封書を携えたデルが姿を現したとき、ノムは嫌な予感に捕らわれた。形どおりの挨拶を交わし、ふたりは腰を下ろそうとしたが、デルは着席を勧めない。テーブルを挟んで向き合ったままだ。

 気まずい沈黙が流れ、クリスがそれを打開すべく口を開こうとしたとき、デルは手にしていた封書をノムに差し出した。


「大使、どうぞご着席を。

 立ったままで、文書を読むことはできませんからな」

 そう言ってデルはソファーに身を沈め、目を閉じた。


「国務長官、どういうことでしょうか?」

 クリスが大使に対する態度ではないと抗議しようとしたが、デルの双眸は固く閉じられたままだ。

 さらに言い募ろうとするクリスをノムが抑えて着席し、封書を開けて文書に目を通し始めた。


 一枚目を読み終えたノムの表情が強張り、クリスにそれを渡してから二枚目に目を通す。

 そこには、これまでの交渉をまったくの無にする、驚愕の内容が記されていた。



 まず口述書では、ソルが提示した乙案を、法と正義に基づく平和確保に寄与せずと正式に拒絶していた。

 そして、本体の部分は極秘・試案にして拘束力なしと書かれ、『オリザニア共和国及びソル皇国間協定の基礎概略』と題した二項から成る文書であった。

 第一項は以前からオリザニアか主張していた四原則を繰り返したものであったが、第二項の内容が問題だった。


 一、オリザニア共和国政府及びソル皇国政府はサピエント王国、ティスチ王国、メディエータ共和国、ロス共和国、シアム王国及びオリザニア共和国の間にと共に多辺的不可侵条約を締結する。

 二、両国政府はオリザニア、サピエント、メディエータ、ソル、ティスチ及びシアム政府間にゴール植民地の領土主権尊重に関する協定を締結する。

 三、ソルはメディエータ及びゴール植民地より一切の兵力及び警察力を撤退させる。

 四、ソル・オリザニア両国はメディエータ国民政府以外の如何なる政権をも軍事的、政治的、経済的に支援しない。

 五、ソル・オリザニア両国は外国租界及び居留地内およびこれに関連せる諸権益をも含むメディエータにある一切の治外法権を放棄するものとする。

 六、ソル・オリザニア両国は互恵的最恵国待遇及び通商障壁引き下げを基本とする新通商条約締結の交渉に入る。

 七、ソル・オリザニア両国は相互に資産凍結令を廃止する。

 八、両国通貨の為替安定につき協議する。

 九、両国政府が第三国と結んだ如何なる協定も本協定の目的即ち大東砂海全地域の平和と矛盾するが如く解釈されてはならない。

 十、両国政府は他の諸政府をして本協定に定められある基本的な政治的及び経済的諸原則を遵守し且つ之を実際に適用せしむる為其の影響力を行使するものとする。



 ふたりの大使は身じろぎもせず文書を食い入るように見詰めている。

 クリスが最後の文書に目を通した後、ふたりの表情は死人のそれと同じように見えた。


「長官、これはいったい?

 貴国は、我が国と国交を断絶、いえ、戦争を行おうということでしょうか?」

 やっとの思いでノムか言葉を押し出した。


「大使、誤解されては困ります。

 これは戦争を避けるための提案です。

 お読みいただいたとおり、試案であり、法的拘束力は持ちません。

 ですが、我が国はいずれこの案に添った正式な提案をさせていただくことになりましょう。

 その前に貴国内でのご意見を調整していただくべく、本日はお越しいただきました」

 デルの言葉はノムに対してなんら力のある反駁になっていない。

 文書の内容に対しての説明をすることもなく、ほとんど問答無用という雰囲気であり、それは投げやりにも見える態度に表れていた。




 デルとの会談を終えたふたりの大使は、とにもかくにも手渡された文書の内容を、ソル政府に魔報で伝えた。

 今までの交渉を根底から覆す内容に、閣僚は激昂した。デル文書は、開国以来営々とベロクロン大岩盤に築き上げてきた権益や、それまでのソルの対外政策を全否定する内容だと受け止めたのだった。ソル政府がデル文書を受け取ったのは一一月二七日になってからであり、交渉の期限切れは目の前に迫っていた。

 その内容はあまりに苛烈であり、この時期にいきなり変節したことで、誰もがこれは最後通牒であると受け取ったのも無理もないことだった。


 デル文書の中でも特に問題だったのが、第二項の三、四の要求だった。

 何よりも、ゴール植民地はともかく、全メディエータよりの完全撤兵は許容できることではない。在留ソル人保護に必要な警察力としての駐兵さえも認めておらず、それは全在留ソル人居留民の追放を意味している。そして『全メディエータ』というのが、フェクタム帝国を含むかどうかが重要な問題だった。

 これについて、デル自身はノム、クリス両大使との会談の際には明言していない。しかし、ソル政府はフェクタム帝国も含まれると解釈した。四の要求にある『メディエータ国民政府以外の如何なる政権』が、フェクタム帝国政府も指していると考えるのが自然だからだ。

 メディエータ国民政府とオリザニアが繋がっている以上、フェクタム帝国をそのままにするはずはない。



 だが、当初は一般案でも、フェクタム帝国からの撤兵が明確に除外されていた。

 ソル政府のとるべき措置として、すべての兵力を『フェクタム帝国を除く』メディエータ共和国及びゴール植民地より撤収することとあったのだ。しかし、ソルに提示された一般案からは、『フェクタム帝国を除く』という部分がそっくり削られていた。少なくともフェクタム帝国が保障されていたならば、ソル政府はこれを最後通牒とは受け止めなかったかもしれない。


 しかし、現実にはこの一文は削除されている。

 これは暫定案に対するメディエータ国民政府に配慮したことも理由のひとつだが、この一文を削除することはデル文書をより強硬な性格に変えるためだ。そして誤解を招きやすい文書でありながら、デルは一切説明をしなかった。

 これは、ソルがデル文書を最後通牒と解釈させるために、わざとなんの説明もしなかったのだった。


 さらに『メディエータ国民政府以外の如何なる政権をも軍事的、政治的、経済的に支援しない』ということは、国民政府への謝罪に等しい。メディエータ側の侮ソル姿勢から発生したメディエータ事変であるにも拘わらず、なぜソルが折れなくてはならないのか。もちろん、メディエータ事変のきっかけは駐メディエータソル騎兵軍の謀略なのだが、公式に認めるなどできるはずもない。そして、もしソルが謝罪する形で国民政府のみを承認すれば、親ソル共和国政府を否定するだけでなく、謀略が暴かれることになる。そのような事態になってしまったら、ソルがメディエータ市場に食い込む余地などは完全に吹き飛ぶ。

 ソル政府は、デル文書を最後通牒と判断した。




 ソル政府の混乱が、皇国国民に知られることは一切なかった。

 情報局による情報統制が敷かれ、新聞は自由な記事を書くことができなくなっていたが、それ以前にデル文書については存在すら明かされていない。万が一、この文書の存在が国民に知られてしまったら、ただでさえ過熱気味になっている反オリザニアの機運が一気に爆発し、開戦を望む声が燎原の炎のごとく広がることは容易に予想できたからだ。そのようなことになってしまえば、熱しやすいソル人気質が、どのような事態を引き起こすか解ったものではない。

 甲案提示以来、政府は対オリザニア交渉の情報を、一切秘匿していた。


 ソル・オリザニア交渉の行く末に不安を感じた人々は、特別高等警察や憲兵隊の目を逃れるようにしてその現状に付いて予想を口にした。

 これまでの報道や、日に日に苦しくなる暮らし向きから、ほとんどの人々は交渉の難航を悟っていた。中には交渉は既に決裂し、ソル軍は臨戦態勢に入っているという発言をする者もいる。特に第一、第二、第五航空戦隊が浅海面雷撃訓練を行っていたキンコー湾や、機動部隊の水上打撃部隊が艦隊行動訓練を行ったユーメイ湾周辺の人々にそのような発言が見られていた。超低空飛行で民家をかすめ、湾内で雷撃訓練を行うなど、いずれかの軍港を攻撃するためのものとして考えられない。そうでなくとも日常の補給以上の物資が埠頭に山積みされ、あっというに積み込んだかと思うと忽然と姿を消した多くの艦艇は、軍事行動を起こすことを容易に想像させた。

 だが、そのような発言をした者は数日以内に姿を消し、さらに数日後再び姿を現したときには異様なまでに憔悴し、二度と開戦を匂わせるような発言をしなくなっていた。


 特別高等警察は、人々の間に張り巡らせた情報網から、ソルにとって不都合な発言をした者を瞬時に見つけ出し、片っ端から連行していた。

 普段から反ソル思想の持ち主や、共産主義者、親メディエータやオリザニアの立場を取る者たちを狩り出すことを使命とし、ときには強引な捜査や言い掛かりに等しい罪状で一般人まで連行している特高は、多くの人々から恐れられ、蛇蝎のように嫌われていた。そのような特高に連行された不用意な発言をした者は、その発言の根拠となった情報源を執拗に問い詰められ、数日に亘る尋問の後、想像上の発言であることを厳しく叱責されて、ようやく解放されたのだった。

 本来の摘発対象が巧妙に姿を隠し始め、検挙率が下がっていた特高警察官たちは、八つ当たりとストレス発散のために、不用意な発言をした者を狩り続けていた。




「俺、ちょっと村に帰るわ。

 二、三日で帰ってくる」

 専門技術学校からの帰り道、ガルはフィズに言った。


「どうしたんだよ、急に。

 ああ、幼馴染みに会いたいってか?

 でも、いいのか?

 砂海軍さんの許婚なんだろ?

 横恋慕がバレたら、砂海に沈められちまうぞ」

 フィズがからかうように答える。

 先日、チェルが疑われかねないと焚きつけた張本人だが、そのことなどすっかり忘れている。


「失礼なヤツだな、誰が横恋慕か。

 それに、お前だぞ、チェルが心配だって言ったのは」

 なぜチェルに対する恋心がバレたのか、ガルは軽く挙動不審になりながら言い返す。


「そうだっけか。

 忘れてた。

 そう言えば、そんなことも言ったっけ。

 

 サボりがバレたら、えらいことになるぜ」

 あっけらかんとフィズが答える。

 本気で忘れていたらしい。


「一回くらい病欠でも大丈夫だろ。

 教授にはそう言っておいてくれよ」

 そう言うとガルはフィズと分かれて下宿への道を歩き出した。


「おいおい、俺が言いに行くのかよ。

 どうすんだ、様子見てこいって言われたら?」

 違う下宿に帰るフィズが、ガルの背中に声を掛けた。


「死に掛けていますとでも言っておいてくれ。

 任せたぜ。

 恩に着るからさぁ。

 帰ってきたら、飯くらい奢らせてもらうよ」

 振り返ってガルはそう言いながら手を振り、フィズに背を向けた。


 下宿に戻ったガルは、女将に数日村に帰ることを告げ、急いで身支度を整えると帝都駅へと歩き出した。

 今から帝都を浮遊車で出ても途中で足止めになるが、一刻も早く村に戻りたいガルは途中の駅で夜明かしするつもりでいた。


 どこか暗い表情で道を行く人々とすれ違い、追い越しながら、ガルは汗をかきながら帝都駅へと急いでいた。


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