第17話 交渉
「ガル、聞いたか?
また発禁だってよ」
レグルエルミがそれぞれユーメイ湾とキンコー湾へ移動している安息日前日の一一月一日、冶金技術専門学校の同級生であるフィズが声をかけてきた。
「ありすぎて、どれのことだか判んないぜ。
新聞に出てたのか?」
弁当を食べながらガルが答える。
「今朝の新聞見てないのか?
そうだよなぁ、これだけじゃ判らんか。 今回のは凄いぜ。
オリザニアとサピエント国籍の作家、全部だ」
頷いたガルの前に、呆れ顔のフィズが新聞を広げた。
この日ガルは宮城遙拝の後二度寝してしまい、朝刊に目を通す余裕がなかったので、まだこの日のニュースを見ていなかった。
ガルは広げられた紙面を見て、我が目を疑った。あまりにも莫迦しい報道に、思わず額に指を当て俯いてしまう。
紙面には、オリザニアとサピエント国籍を持つ作家の絵本が、発禁処分になったことが報道されていた。
情報局による統制が厳しくなり、皇国の国策に反するものは片っ端から発禁になっている。
これまでに共産主義やあからさまな反戦思想の小説や、論文を掲載した雑誌が発禁になってきた。オリザニアとサピエント国籍の著者による古典や児童文学も、思想や主義主張とは関係なしに、つい先日発禁になっている。それが、今回はついに絵本までだ。
オリザニアとサピエント両国に関わることすべてが、庶民の前から姿を消そうとしていた。
「やっぱり、この前の報道にあったあれのせいか?」
ため息をつきながらガルは答えた。
村では本がそれほど手に入らず、帝都に来てからガルは読書に目覚めていた。レグルとエルミが帝都を去り、チェルが村に残り、贅沢禁止令のせいで街で遊ぶこともままならない状況で、ガルは片っ端から図書館の本を読み漁っている。技術の専門書はもちろんのこと、冶金以外の専門書、文学から哲学、思想書まで乱読に近いが、活字中毒といっても過言ではなかった。
当然国外の作家による文学や哲学、思想書もその対象だった。
一〇月一八日、オリザニアは全ての国家の領土保全と主権尊重、他国に対する内政不干渉、通商を含めた機会均等、平和的手段によらぬ限り大東砂海の現状不変更というかねてより主張していた四原則に加え、フェクタム帝国を除くベロクロン大岩盤からの撤兵をソル政府に要求してきた。
それに対し、オリザニアに譲歩すれば四年以上に亘るメディエータとの戦争で獲得した利権が消滅し、莫大な戦費がすべて無駄になり、散っていった十五万の英霊に申し訳が立たないと、主要な全国紙だけでなく地方紙までもが書き立てた。
もちろん情報局による統制であり、オリザニア、サピエント討つべしの論調でまとめられていた。
その日から当たり障りのない内容であっても、オリザニアとサピエント国籍の著者による思想書や哲学書が、次々に発禁されていった。
僅かの日数で、書店からはそれらの本が姿を消し、次は小説が片っ端から発禁の指定を受け始めた。外国文学の棚が空になると、次は童話や民話が姿を消した。
そして、ついには絵本までが書店から撤去されたのだった。
ガルは騎兵軍の将軍が政権を握ったことに、大きな危機感を抱いていた。
だが、それに異を唱えることは、『非国民』『売国奴』の誹りを受けかねない。公然と政策に疑義を申し立てた者が、憲兵や特高に引っ張られたまま姿を消すことが多くなっていた。偏った思想などないようなオリザニアやサピエントの作家の小説を発禁にした時点で、ガルはヒステリックな対応だと感じていたが、絵本まで発禁にする政府の意図が理解できなかった。
これでは皇国民の反オリザニア、反サピエントの気運を煽るだけで、政府は戦争を望んでいるのではないかと、ガルは内心薄ら寒いものを感じていた。
「さぁ、どうだかな。
いいんじゃないか、あんなふざけた要求を出してくる国だぜ。
そこのやつらの書いた本に価値があるとは、俺には思えないね」
フィズの顔には、大きく嘘だと書かれていた。
もちろん、本心を言ってしまえば、今夜にでも下宿の扉を誰かが叩きに来る。
フィズの言ったことは、新聞報道にあるような模範解答だった。
庶民の間に対オリザニア・サピエント強行論が吹き荒れる中、政府は必死に交渉妥結の道を探っていた。
報道されることはなかったが、先月一六日に全内閣が総辞職した際、ジョウエイは次期総理には現皇王の血筋である皇族を推していた。
騎兵軍内部では、中堅将校たちの間でオリザニアに対する不満が頂点に達している。とにかく開戦という空気が濃厚であり、これを抑えなければ対オリザニア交渉はおろか騎兵軍の勢いだけで戦争へと雪崩れ込みそうだった。
騎兵軍軍務局長から、砂海軍は和戦について総理一任と言っているが積極的に砂海軍は戦争を欲せずと公式に表明して欲しいと申し入れがあった。総理の裁断だけでは陸軍部内は抑えられない。砂海軍が態度を明らかにすれば、騎兵軍としては部内を抑えやすいということだった。
砂海を渡るには、砂海軍の護衛がなければ、騎兵軍はソル国内から一歩も外へは出られないからだ。
しかし、砂海軍としては首相の裁断に一任というのが精一杯という回答しか引き出せなかった。
伝統的に砂海軍には『軍人は政治に関与しない』という態度であり、今回もその態度を崩すことはなかったが、ジョウエイにはこれは責任逃れとしか見えなかった。対オリザニア戦は広大な大東砂海を舞台にするため、砂海軍主体の戦争となるのは当然だ。もし海軍が戦争をやる気がないと正式に言えば、これは出来ないということになる。そうであるにも拘らず、砂海軍は態度を表明しないのはどういうことか、この非常時に何をためらっているのかとジョウエイにはもどかしかった。いや、怒った。
このような閣内不一致の状態では何も出来ないので総辞職するしかないと近衛に勧めたのだった。
そしてジョウエイは後継首班について、騎兵軍大将の階級を有するリベラル思考の皇族を推薦した。
これは騎兵軍部内を抑えるためであり、さらに御前会議での政府と統帥部の決定を覆すためだった。政府が『皇国国策遂行要領』についての再考を統帥部に求めたとしても、拒否する可能性の方が高かった。
ジョウエイは皇族を首相にすることで、これを乗り切るしかないと考えたのだった。
しかし、現実には皇族内閣は戦争を開始した内閣として国民の怨嗟の的となる恐れ有りとして見送られ、忠誠心と手腕を期待されてジョウエイに組閣の大命が降りていた。
大命とともに、『九月六日の御前会議決定に囚われることなく、内外の情勢をさらに広く深く検討し、慎重なる考研を加うることを要す』と皇王から伝えられていた。つまり『十月上旬頃に至も尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、直ちに対オリザニア開戦を決意す』る『皇国国策遂行要領』の白紙還元を皇王は望んでいたのだった。
だが、ジョウエイは騎兵軍を抑えるという意図から、騎兵軍大臣を兼任していた。
相反する主張をする組織の長が、ひとりの中に並立することは困難だった。
首相としては『皇国国策遂行要領』を白紙化し、対オリザニア交渉に全精力を傾注したい。だが、騎兵軍としては、オリザニアの要求は到底飲めるものではない。一五万の英霊は重かった。
そして、彼の忠誠心は正式な御前会議で出された皇王の『決定』を、非公式な『希望』で覆してよいものかというジレンマに苛まれていた。
皇国を戦争へ追い込むことはできないが、騎兵軍の立場を隅に追いやることもできない。
対オリザニア交渉に全力を挙げながらも、騎兵軍としての主張を下げることはしなかった。結局『皇国国策遂行要領』が白紙化されることはなく、検討課題として残されただけになっていた。
もちろん、これらのことが報道されることはなく、庶民はオリザニアの一方的な要求と皇国の窮状ばかりを知らされていた。
「姉ちゃん、大丈夫だった?」
心配そうに、弟のアレイが聞いた。
横にはレグルの妹であるリーンも、心配そうな顔で座っている。
「大丈夫だよ、ふたりとも。
そんな心配しないでね」
明らかに疲れ果てた顔をしたチェルが答える。
朝から駐在所に呼ばれたチェルは、昼食を挟んで長い取調べを受け、陽が沈んでからようやく家に帰ってきた。
「いったい、なんだったの?
駐在さんはなんて言ってたんだい?
駐在さん、なんか怖くなかった?」
物心付いたときから可愛がってくれた駐在が、突然鬼のような顔で姉を連れ去ったときの恐怖をアレイは忘れられない。
「なんでメディエータ料理を志したのかとか、今でも作っているのかとか、どんな人が宿に来るかとか、ね。
でも、駐在さんはあたしを連れて行っただけで、聞いてきたのは知らない人だったよ」
当たり障りのない会話から始まった取調べは、村では見たことのない人物が行った。
駐在はチェルに何の容疑があるのかと連行には懐疑的だったが、特高が動き出したと知ってやむなく呼び出しにきたのだった。
帝都近くのオアシスにあるチェルの修行先が商売替えをしたのは、親方自身がいくどかこのような取調べを受けたことがあったことも大きな原因だ。
以前、夏に宿泊した砂海軍人が軍務に復帰した後の会話を漏れ聞いた特高の職員が、帝都から消えた共産主義者がどこに潜伏したかを調べるために取り調べにきたのだった。昼食時に一度宿に戻されたが、宿泊者名簿を持ち出すためだった。オリザニアやサピエントの小説から絵本までが規制されていても料理が排斥されることはなかったが、オリザニア料理を出す店だけが目の敵にされる理由がチェルには分からない。たしかにメディエータ人が経営している店に、反ソル思想を持つメディエータ人やそのシンパが集まることはあった。
それが摘発されることは仕方がないと思っているが、料理を作っているだけでなぜ自分が取調べを受けなければならないか、チェルには理解できなかった。
「戦争が始まっちゃったら、どうなっちゃうんだろうね。
やっぱり、禁止されちゃうのかなぁ。
やだね、戦争なんか」
リーンが呟く。
もちろん、政府が戦争へ皇国を引っ張っていたわけではない。
組閣直後から、ジョウエイは精力的に連日連絡会議を開催していた。
第一回会議ではノシュウ砂海軍軍令部総長より魔鉱石の消費量から事態は逼迫していること、サゲン騎兵軍参謀総長も同様に時間の空費は許されぬとして、開戦廟議の決断を迫った。
現実問題としてソルの魔鉱石備蓄量は減少の一途を辿っており、年間約五五〇トンを消費している現状から計算すれば、あと二年で底を尽くと見られていた。
砂海軍艦艇は何もしていなくても停泊しているだけで艦内発電のために魔鉱石を消費する。電気なければ生活さえできないし、完全に活動を止めて乗組員を上陸させていては、再度動かす際にどれくらいの準備期間がかかるか分からない。全乗組員の将兵を一瞬で乗船できるはずもなく、それから魔鉱石で火を熾し、缶の圧を上げ、艦が動くまでには一日や二日では無理な話だ。これではいざというとき、ただの置物でしかない。
もちろん、中途半端な状態で途中で戦争になってしまった場合、作戦用の魔鉱石も満足に調達できず一方的な負け戦となることは明白で、開戦の時機は今でも遅いくらいと統帥部では考えていた。
ソル・オリザニア日米交渉におけるメディエータよりの撤兵問題で、議論は紛糾した。
ジョウエイは、あらかじめシタロ砂海相に不戦を明言してくれるよう暗に示していたが、海軍は従来通り動かなかった。騎兵軍はメディエータよりの期限付撤兵など、議論の対象ですらないと反対していた。
ジョウエイは騎兵軍の強硬態度と砂海軍のともすれば政策に対し無関心な態度に、内心の怒りを抑えつつ妥協の途を模索していった。
ジョウエイのメディエータやオリザニアに対する強硬姿勢からの方向転換について変節漢と罵る声も騎兵軍部内から出たが、これはひとえに皇王への忠誠心からの行動であり、ジョウエイに僅かな迷いもなかった。
「そうだね、そうしたらオリザニアとかサピエント風の料理も、ひょっとしたら今着ているような服だって禁止なのかな。
全員が開国前の格好にしなきゃいけないのかなぁ」
タンスの奥にしまい込まれたサピエント風メイド服を思い浮かべ、チェルは新聞の記事に目を落す。
この日は朝の仕込みが終わって一息つく暇もなく、駐在所に呼ばれてしまったのだった。
その一一月一日の記事には、オリザニアとサピエント国籍の者が書いた著作の発禁と、サピエント王国首相の演説が掲載されている。
それは、サピエントはソル・オリザニア開戦となれば、サピエントもまた対ソル宣戦するという文字が踊っていた。
一一月二日、第八戦隊はユーメイ湾到着し、泊地への進入の順番をまっていた。
「あれは、第三戦隊の『アロン』と『ケムール』じゃないか?
『キュラソ』と『ギラドラス』が見えないが、二隻だけか?」
艦底の方位盤室から出てきたレグルが、誰とはなしに呟く。
「二隻だけですね。
後ろに控えているのは、第一砂雷戦隊のようですよ」
第一分隊のランツ一等兵層が、双眼鏡を覗いて確認した。
第三戦隊は、本来『キュラソ』型戦艦四隻で編成されている。
だが、この砂海域には二、四番艦の『アロン』と『ケムール』の姿しか見えない。
『キュラソ』型戦艦は、一番艦の『キュラソ』が二八年前に、四番艦『ケムール』でも二五年前に就役した老齢艦だが、ソル砂海軍戦艦のなかでは速力三〇ノットと最速の艦だ。
南方資源地帯でよく見られる仏塔のような複雑なシルエットの艦橋は、サピエントやオリザニアの砂海軍からはパゴタマストと呼ばれていた。
丈高い艦橋の前に連装三六センチ主砲塔を背負い式に二基、小振りな後楼の後ろに一基、航空機運用甲板を挟んでさらに艦尾側に一基の合計四基八門を備えている。この三六センチ主砲は、火の魔鉱石を装薬にして、八五〇キロの弾丸を二万八六〇〇メートルの彼方に投射し、二六〇ミリの鋼板を貫通する能力を有している。
竣工当時は、近接戦闘用に副砲一五.二センチ単装砲を片舷八門計十六門を敷き並べていた。だが、第二次改装でこれを半減させ、片舷四門計八門に減らし、一二.七センチ連装高角砲六基、二五ミリ三連装機銃一八基、同連装八基、同単装三〇挺を増設している。
速度増進の艦尾伸張と対砂雷防御のバルジ増設のため全長は二一四.六メートルから二一九.四メートルに、全幅は二八メートルから三一メートルに増大していた。
そのために基準排水量は二六三三〇トンから三一七二〇トンに増大したが、艦を走らせる主機を、蒸気タービン二基四軸六万四〇〇〇馬力から、蒸気タービン四基四軸十三万六〇〇〇馬力に換装し、最大速力は二七.五ノットから三〇.三ノットとなっている。航続距離も、一四ノット八〇〇〇浬から一八ノット九八〇〇浬と大きく伸ばしていた。
「また機銃を増やしたようですね。
しかし、『ケムール』もそうですが、『アロン』すっかり形が変わってしまいましたね。
私には、三本マスト時代が一番馴染みがありますが」
感慨深げにランツが言った。
就役直後の『キュラソ』型は、艦橋が三本マストで構築されており、その後二度に亘る大改装を施されていた。
一番艦『キュラソ』は、まだ建艦技術が立ち後れていたソルに新技術を導入するため、当時は友好国で最大の砂海軍国だったサピエント王国のウイック社に発注された。
二六一一年一月一七日に起工し、翌二六一二年進砂、二六一三年に巡洋戦艦『キュラソ』として竣工、ソルに回航された。
就役から一五年後に第一次改装を実施し、水平及び水中防御を強化改善した結果、排水量が増え速度が低下したため、戦艦に艦種変更された。このとき艦橋は三本マストから七本マストへと改装され、艦容が一変する。
さらに七年後、第二次改装が実施され、ボイラーと主機を換装し、長距離砲戦能力を強化した。機関出力は2倍になり速度は建造時を上回る三〇ノットに達し、高速戦艦に生まれ変わった。七本マストの艦橋を、複雑化する戦術に対応させるために様々な機構を盛り込み、現在のパゴタマストへと変更した。
「俺は『アロン』の御召艦時代が一番覚えている。
よく新聞で見たからな」
レグルが舷側の落下防止チェーに身体をもたれさせながら答えた。
『キュラソ』型巡洋戦艦の二番艦として、二六一一年一一月四日に『アロン』は帝都工廠で起工され、翌二六一二年一一月二一日に進砂していた。
二六二九年一〇月に、西工廠で第一次改装に着手するが、砂海軍軍縮条約成立により工事は一旦中止されてしまう。条約により戦艦1隻が練習戦艦へ改装されることになり、『キュラソ』型で工事の一番遅れていた『アロン』が選ばれた。
練習戦艦への改装工事は、四番主砲と舷側装甲の撤去、航空兵装と戦術の変換に伴い不要となった砂雷兵装を全廃し、機関の変更が行われた。二六三二年の最後の日、十二月三一日に完了し、翌二六三三年一月一日に練習戦艦に類別変更された。
兵装の撤去により艦内に余裕のあること、また艦隊所属でないためスケジュールの組みやすいことから皇王の御召艦としても利用されることが多かった。この年の五月には展望台を設けるなど、御召艦用施設の設置工事を帝都工廠で行っている。『アロン』はこの年と二六三六年、そして戦艦に復帰した第二次改装直後の昨年二六四〇年の合計三回も観艦式での御召艦を務めていた。また皇王行幸の際にも御召艦として指名され、フェクタム皇帝の訪ソルの際にも御召艦となっていた。
その姿は度々新聞紙上を飾り、連合艦隊の旗艦を務める戦艦『アーストロン』、その姉妹艦の『ゴーストロン』と並んで、皇国国民に親しまれた戦艦といってよい。
レグルたちが物心ついた頃には、『アロン』を除く『キュラソ』型戦艦の第一次改装はほぼ完了しており、七本マスト姿になっていた。しかし、多数の戦艦に入り混じった三隻より、その後に何度も新聞で見た『アロン』の方が印象に残っていたのだった。
「そうですか。
私の軍歴は『アロン』からでした。
まだ三本マストの。
だからですかね」
ランツは懐かしむような目になった。
砂海兵団を出て、最初に乗り組を命じられたのが『アロン』だった。
練習戦艦への改装で乗組員に余剰が出たため、いくつかの船を渡り歩いた後、二六三八年に竣工した新鋭重巡『ドラコ』へと横滑りしたのだった。
「『アロン』が戦艦に復帰したとき、戻りたかったんじゃないのか、ランツ?」
『アロン』は、二六三六年一二月末の条約切れを待って、翌三七年四月一日より西工廠で戦艦に復帰するための大改装が行われた。
この改装は他の『キュラソ』型戦艦が一次と二次の二回に亘って行われた改装を、一度に済ませる形となった。
第四砲塔と舷側装甲の復活、各種装甲の追加、砲戦距離の伸展、主缶や魔鉱石庫の増設、主機の換装を行い、艦尾の延長とバルジを装着した。
対空砲火増設と重量軽減のため副砲を二門降ろし、一二.七センチ高角砲の指揮装置を最新の型に変更し、二五ミリ連装機銃一〇基を追加装備した。艦橋の近接防御用に一三ミリ四連装機銃二基を装備したが、これは現在急ピッチで慣熟訓練を行っている最新鋭戦艦『アンギラス』と同じ装備だった。
『アロン』の大改装工事は、『アンギラス』型戦艦のテストとしての役割も担っていた。
艦橋構造物は他艦のパゴタマストではなく、比較的すっきりとしたデザインの塔型構造を採用している。艦橋トップの方位盤も、『アンギラス』型で採用している八型射撃盤と四型方位照準装置を、『アンギラス』型と同様に縦に重ねて搭載していた。これにより姉妹艦とは、艦影がかなり異なる形となった。
主砲旋回用水圧ポンプは、『アンギラス』型への導入テストとしてターボポンプを導入していた。
艦齢こそ古いが、『アロン』はこの時点で最新式の装備を持つ、戦力化された戦艦だった。
レグルは、ランツがかつての乗艦を恋しがっているのではと、感じていたのだった。
「いえ、古い者の出戻りは歓迎されませんので。
第一線から退かされた劣等感と妬みは、その間戦闘を行える艦に転出した者とは共有できません。 御召艦の栄誉という優越感は、他を見下すことでしか紛らわせない劣等感の裏返しでしかありません」
ランツは嫌な物を見たという表情で、嫌そうに答えた。
「そうか。
古巣が恋しくないかと思っただけで他意はない。
貴様にはまだまだ教えてもらいたいことがたくさんあるんだ。
戻りたいと言っても、俺は手放さん」
ランツの言葉に、レグルは慌てたように言い返した。
ランツの態度は、かつての乗艦に対して素っ気ないというよりは、嫌悪しているようにも受け取れた。何か言いたくないこと、聞くには忍ばれることがあるのかも知れない。
レグルは『アロン』の話題を打ち切ることにした。
「後ろにきたのは、第一砂雷戦隊だな。
第一艦隊から分離したのか?」
レグルが双眼鏡で艦尾方向を眺める。
砂雷戦隊は、駆逐艦四隻からなる駆逐隊を二個、一隻の軽巡洋艦が旗艦として率いている。
軽巡『ユートム』を先頭に、八隻の駆逐艦が単縦陣を組んで、停泊地への進入順を待っていた。
「第一、第二艦隊の編制を変えるのか?」
レグルの言葉は語尾が疑問形になっていたが、ランツにそれを向けたわけではなかった。
「そうですね。
もし、二砂戦が来ていたならば、足が速くて長い艦を集め、神出鬼没の遊撃戦部隊を作ろうってことになるのでしょうが……
それであれば、第二艦隊から分派すればいいだけです。
いくら『ケムール』型の足が速いとはいえ、わざわざ重巡を減らしてまで、戦艦を持ってくる意味が解りません。
確かに砲撃力はあの二隻で、第二艦隊の重巡全てを相手取れますが……
これでは雷撃力が余りに少なく、まともな夜戦はできません」
ランツの回答も歯切れが悪い。
ランツが言った二砂戦、第二砂雷戦隊は第二艦隊に所属し、最新鋭の駆逐艦が優先配備されている。
砂上雷撃戦部隊として世界最強の破壊力を誇るソル砂海軍水雷戦隊の中でも最も練度、攻撃力の高い最強の砂雷戦隊だ。漸減邀撃作戦における前線部隊に位置付けられた第二艦隊に属し、最前線の攻撃部隊として活動するには、第二砂雷戦隊には強力な装備と長大な航続力が要求された。
そのためには、最新鋭かつ最強の駆逐艦でなければならなかった。
一方、現在この砂海域に来ている第一砂雷戦隊は、最終防衛線で主力の戦艦の護衛が主任務であり、第二砂雷戦隊ほどの強力な武装を要求されなかった。
このため、第二砂雷戦隊に新型が導入されて、そこを押し出された型落ちの駆逐艦が回されていた。また、最前線での使用を考えられていなかった二等駆逐艦や、期待された性能に届かなかった駆逐艦が第一砂雷戦隊に配属されていた。
それでも世代が違うほど旧式化した老朽駆逐艦を、ようやくかき集めて編制した第三、第四砂雷戦隊などからみれば、充実した戦力を保有していたといえる。
いくら高速とはいえ、最大戦速が三〇ノットの『アロン』や『ケムール』に随伴するには、一砂戦にとって無理な話ではない。
だが、戦艦二隻、重巡二隻、軽巡一隻、駆逐艦八隻という戦力は、遊撃戦を行うにはあまりにも中途半端だ。砲撃力も雷撃力も足りなすぎる。何を企図して第三戦隊を分割し、第八戦隊と第一砂雷戦隊を組ませるのか、この時点では艦隊司令官以上の立場の者しか知らされていなかった。
一一月二日の夜、エルミを乗せた『デットン』と僚艦『テレスドン』は、三隻の護衛駆逐艦とともにキンコー湾内に停泊していた。
エルミは飛行甲板に上がり、ルックゥと並んで砂海を渡る風に当たっている。湯上がりで火照った体には、今吹いている微風が心地よかった。
この日は移動だけで、艦内では日常の課業が行われ、飛行訓練や対空射撃訓練は行われていない。整備兵とともに油にまみれた体には、風呂が何よりもありがたかった。とはいっても、女性が乗る予定のなかった『テレスドン』以前に竣工した空母には、風呂はおろかトイレすら専用の施設がなかった。
エルミたちが士官学校に入学した頃には、風呂に入らねばならないような長期の航海実習は行われず、トイレは仮囲いを付けただけだった。
エルミたちの配属に合わせ、各艦とも女性専用の風呂とトイレを急遽作っていた。ほとんどの艦では、余剰スペースがないことから、士官専用の風呂をいくつか女性用に割り振り、トイレの仮囲いをそれなりの物に変えることで精一杯だった。
日没後は他の艦を目視することは困難だが、それぞれの位置は灯火で判る。
エルミとルックゥは、五キロほど離れたところに並んで停泊する新鋭空母『アパテー』と『アルギュロス』の灯火を、羨望のまなざしで見つめていた。
「ずるいよね、『アパテー』も『アルギュロス』も」
「ええ、ずるいわ」
エルミの呟きに、ルックゥが同意する。
女性飛行士官の採用を決める時点で、『アパテー』型空母はまだ二隻とも建造前だった。
そのため、急遽設計図の一部を手直しし、女性専用の施設を新造時から備えている。エルミに限らず、一航戦、二航戦の空母女性飛行士官たちにとっては、それがうらやましくて仕方がない。基地航空隊であれば、兵舎の増床や改装などたいした手間ではないが、容積の決まっている艦内に新たな施設を作ることは、ほぼ不可能といえた。
『アパテー』型空母は、『コッヴ』や『ブリッツ・ブロッツ』、『デットン』と『テレスドン』で得られた運用実績や建造実績を取り入れた、ソル砂海軍空母の決定版ともいえる艦に仕上がっている。
軍縮条約失効を見越して計画され、失効後にその制約を受けることなく建造されていた。
基準排砂量二万五六七五トン、全長二五七.五メートル、水線幅二六メートルの巨体に、長さ二四二.二メートル、幅二九メートルの飛行甲板を乗せている。
この飛行甲板は『デットン』や『テレスドン』より、一割増しの長さになっている。しかし、『アパテー』型の飛行甲板は艦の長さより十五メートル以上短く、他の空母と比べて著しく短かった。『コッヴ』、『デットン』、『テレスドン』の飛行甲板は艦体より一〇メートルほど短く、逆に『ブリッツ・ブロッツ』の飛行甲板は艦体より約一メートル長い。これは機動部隊の性格上、充分予想される敵空母の反撃を想定したもので、敵航空隊に攻撃された場合に被害を局限するという、戦略的な考えから判断されたことだった。
間接的な防御ともいえるが、この点については完成直後の『アパテー』を訪れた第一航空艦隊司令部からは、大きな欠陥だと指摘されてもいた。
艦の大型化による格納庫の拡大と航空艤装の洗練により、零型艦上戦闘機一八機、九型艦上爆撃機二七機、七型艦上攻撃機二七機の常用七二機に補用一二機の合計八四機を搭載している。
これは、『デットン』や『テレスドン』の約三割増しであり、ソル砂海軍の保有する全空母の中でも、戦艦を改装した『ブリッツ・ブロッツ』に次いだ運用能力になっている。
八基搭載した『アンギラス』型戦艦と同じ形式の主缶を、さらに高温高圧化することで十六万馬力を絞り出し、四基四軸の主機が三四.二ノットの高速で砂海上を走らせる。
出力十六万馬力はソル砂海軍の艦艇の中では最大で、運用の安全を意識した出力設定にした『アンギラス』型戦艦の主缶十二基で十五万馬力を凌駕している。これにより、設計時に要求された三四ノットという高速を達成しただけではなく、航続距離が不足気味だった『デットン』や『テレスドン』より三割増の十八ノットで九七〇〇海里という航続距離も達成している。
自身を守るための兵装は一二.七センチ連装高角砲八基と、二五ミリ三連装機銃一二基を備え、防御力についても『デットン』や『テレスドン』より強化されている。
弾火薬庫部分は八〇〇キロ爆弾の水平爆撃および二〇センチ砲弾の直撃に、機関部などの重要区画は二五〇キロ爆弾の爆撃と駆逐艦の砲撃に耐えるよう考慮されていた。ただし、格納庫や飛行甲板には装甲は施されておらず、計画段階からこの点については危惧されていた。
当初、『アパテー』型空母の艦橋は、『コッヴ』や『テレスドン』と同様に左舷側中央部に設置する予定だったが、両艦の搭乗員たちからは不評で運用実績が悪かったため、途中で右舷側前寄りに変更された。このため、既に建造途中だった一番艦『アパテー』と、そうではなかった二番艦『アルギュロス』とでは、艦橋基部の形状や内部構造に若干の違いが出ていた。そして、『テレスドン』以前の空母の艦橋は飛行甲板の外側に張り出す形で設置されていたが、『アパテー』型では飛行甲板に食い込むかたちで艦橋が設置されたため、飛行甲板の幅が狭く艦上機の運用に不便、と第一航空艦隊司令部から指摘されていた。
「でも、ずるいよ」
「うん、圧倒的にずるいよね」
ふたりのぼやきは、決して艦の能力によるものではない。
『アパテー』型空母と違い、一航戦、二航戦の空母の風呂は、士官用の風呂に仕切りを切っただけであり、覗こうと思えば覗けてしまうのだった。
右舷左舷それぞれにある風呂のどちらかを、男性女性専用にしてしまえばそれなりに問題は解決できるのだが、圧倒的に男性が多い状況では決められた時間内に入浴を済ますことができなくなってしまう。仕方なく風呂を仕切っているのだが、あまり落ち着いて入っていられるものではなかった。まさか、仕切りから女風呂を覗くような不埒な者はいないが、それでもわずか一枚の板を隔てた向こうに男がいるということは、女性たちにとって心安らげることではない。ましてやり料亭で芸者と寝ただの、身体の話などされては余計だった。
戦闘を主任務とする艦で、自宅のようにゆったりと風呂に入ることまで望みはしないが、せめて疲れを癒すくらいのことはしたかった。
一一月三日、この日も飛行訓練は行われず、エルミたちは日課課業に従事していた。
昼食休憩後、『デットン』から内火艇が降ろされ、オーキキ二航戦司令官と幕僚がホンリュウ艦長と連れ立って離艦した。ナンクウ中将による召集がかかったのだった。
午後一時三〇分、機動部隊に配属される各戦隊司令官、幕僚、艦長たちが、旗艦を務める空母『コッヴ』に集合した。
ナンクウ中将はこのとき初めて、ハトー奇襲攻撃の大要を発表した。参集した司令官や幕僚は既に承知していたので、驚く者はいなかったが、各艦の艦長はまさに驚天動地だった。
攻撃計画案を説明した後、ナンクウ司令長官は訓示を行った。
「いうまでもなく、開戦と同時に行われるこの奇襲攻撃は、我が皇国の命運をも左右するものであるから、この機密保持には万全を期してもらいたい。
各航空部隊は、この際一層、練度の向上に努力すべきこと。
それから、これは非常に重要な事であるが」
そこまで言って、ナンクウは言葉を途切り、ひと息入れた。
ナンクウは、右隣に座っているオーキキ二航戦司令官を意識していた。
「このような重大な作戦を遂行するのに必要な事は、何よりも同志的結合である、と本長官は考える。
多様な艦種、科目が集まっているのであるから、緊密な同志的結合なくしては、順調な運営は不可能である。
その点をよく認識してもらいたい」
ナンクウはそう言葉を結び、オーキキを見た。
その視線を意識的に受け流したオーキキは、どこかふて腐れたような表情をしていた。
オリザニアは前首相にも内閣にも、まともな交渉ができる能力があるとは思っていなかった。
そして、ジョウエイ内閣の成立を知って、来るべきものが来たという受け止めかたをした。オリザニア政府は日本を事実上指導しているのは軍部であると分析しており、そのトップが首相になることは、戦争遂行内閣であると捉えたのだった。しかし、ジョウエイ首相は積極的かつ実効的な手腕を発揮するとの評価をしていたため、この内閣ソル・オリザニア交渉を継続するのか、もし戦争を望んでいるのであれば南方へ進むのか、北方へ進むのかなど、慎重な討議が行われていた。
国務省極東部では、首相としてのジョウエイは戦争より和平を望むであろうと冷静な分析をしていたのに対し、大統領を始めとした軍事会議の委員らは戦争遂行内閣であると断言していた。
そうは言っても、これからどの程度開戦を引き延ばせるかという点のみに関心があったのであり、和解の模索をしていたわけではなかった。
ソルもオリザニア、サピエントも、戦争をやる気でいる中で、ソル外務省だけが異なる動きを示していた。
ソル外務省は開戦を回避すべく、かなり譲歩した条件を提示してでもソル・オリザニア交渉を妥結に持ち込みたい。皇王の意を汲んだジョウエイから至上命令だった。
一一月五日、御前会議でその方針が決定された。
ついに九月六日の『皇国国策遂行要領』は、白紙に戻されることなく細部の見直しに終始しただけだった。交渉は継続するが、もしオリザニアの譲歩を引き出せないのであれば開戦やむなしと結論付けた。
その武力発動の時期を十二月初旬と定め、それまでに騎兵砂海軍ともに作戦準備を完了すること。これが第一の文になっている。
つまり、交渉は続けるが、戦争という結論ありきと読めるものだった。
対オリザニア交渉強硬な甲案と多くの譲歩を含む乙案を用意し、まずは甲案から提示して出方を見ると決定された。
そして、ソル単独でオリザニアとサピエントを相手取るのは、かなり厳しいものがある。従って、ドラゴリー大岩盤側から両国を牽制するため、アレマニアとウィトルスとの提携強化は絶対に必要だった。
さらに、武力発動の直前に、ベロクロン大岩盤内で唯一といってもよい親ソル国であるシアム王国との間に、緊密な軍事的関係を樹立する必要がある。大岩盤沿岸部の足掛かりは、何よりも増して重要なものだった。
そして、対オリザニア交渉が一二月一日午前零時迄に成功したならば武力発動を中止するということも、同時に決定された。アッキカーズ皇王が何よりも望んだことを、ジョウエイはなんとしても決定事項としたかったのだった。
オリザニアに提示する甲案は、『ソル・メディエータ間に和平が成立すれば、メディエータに展開しているソル軍を二年以内に撤兵させる』、『メディエータ事変が解決すれば、ゴール植民地から撤兵』、『通商無差別待遇が全世界に適用されるなら、大東砂海全域とメディエータに対してもこれを認める』、『ソル・アレマニア・ウィトルス三国同盟への干渉は認めない』というものだった。
ここには、オリザニア国の要求に対して、理解を示しつつもソル政府の主張が明確に示されている。
交渉決裂に備えて用意された、多くの譲歩を含む乙案は、『ティスチ植民地での物資獲得が保障され、オリザニアが在オリザニアソル資産の凍結を解除し、魔鉱石の対ソル供給を約束すればゴール植民地から撤兵』、『更にメディエータ事変が解決した暁にはメディエータ共和国全土から撤兵』というものだった。
これは、戦争を回避するための暫定的な案であった。
経済封鎖が解かれ、物資が安定供給されるならば、ソルは南方に進出する必要性がなくなる。それが保障されるのであれば、ソルは南方からの全面撤退に応じるというものである。
上記事項が決するや否や、外務省は暗号で在オリザニア大使に甲乙両案を送り、甲案からデル国務長官に提示するように命じた。
一一月七日、在オリザニア大使はデル国務長官に面会を求め、訓令通りに甲案を手交した。
三日後の一〇日、デルは対処国務省に呼び、全般的な問題について文書で回答しつつ、メディエータ問題とこれまでのソル側の提案についての確認を行っただけだった。そして一五日には通商無差別原則と経済政策についてソル・オリザニア共同宣言を提案してきた。
これは単なる時間稼ぎであり、オリザニアが提示してきた内容は従来のものと同じものだった。
大使自身もまた、オリザニアはソルに譲歩する気などまったくなく、戦争を選ぶつもりだと察していた。
既にソル側の暗号はほとんど解読されており、デルは甲案はもちろん、その後に控えている乙案だけでなく、交渉のリミットを一二月一日午前零時と設定したことについても知っている。
多くの譲歩を含む案が用意されている以上、オリザニアにとって甲案などまったく興味はない。
ソルが初めてメディエータからの撤兵期限を明言したにも拘らず、撤兵の規模のことのみ大使に確認するだけで、オリザニアとして最も重要視していた撤兵の時期については一言も触れなかった。
大使がソル政府との暗号通信で許可を取り、翌日に九割の撤兵と伝えたにも関わらず、このことも既に掴んでいたデルは取り合わなかった。
ソル側がどのような譲歩を提示しようと、オリザニアは最初から相手にするつもりなど欠片も持ち合わせていなかった。
騎兵軍、砂海軍ともに戦争の準備は静から進められ、外務省だけが絶望的な戦いを挑んでいた。