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第15話 混迷

 「お帰りなさい。

 ご卒業、おめでとうございます。

 ふたりとも、見違えちゃったよ」

 嬉しさを辺りに振りまきながら、チェルはプラットホームで涙ぐんでいた。


「お帰り、レグル候補生。

 誰かと思ったぜ、エルミ。

 とにかく、おめでとう」

 眩しそうにふたりを見るガルが、満面の笑みで言う。


「ただいま戻りました。

 ただいま、チェル」

 これ以上はないほど見事な姿勢でレグルは敬礼し、プラットホームに溢れる村人に挨拶したあと、優しくチェルに向き直った。


「ただいま戻りました。

 ひっどぉい、ガル」

 背筋をきちんと伸ばして敬礼したあと、頬を膨らませたエルミに笑いが弾ける。


「いいじゃないか、誉めてるんだぜ、エルミ。

 三年前に泥酔して気絶したなんて、今の姿からは誰も想像できないって」

 ガルの混ぜっ返しに、プラットホームに爆笑が沸いた。




「ただいま、お父さん。

 恩賜の短剣、いただいて参りました」

 仏間で向き合った父子の間で、袱紗に包まれた短剣が受け渡される。


 丁寧に包みを開けた父は、鞘を払って室内灯の光に刀身をかざした。

 暫く身動ぎもせず刀身を見つめて鞘に戻し、おしいただいてから仏壇に供えた。


「よくぞ……」

 それだけ言ったあと父は絶句し、目頭を押さえる。


 自身が抱き、そして破れた夢を、今息子が見事に果たした。

 帝都を襲った大震災が奪い去った自身の夢が、今息子が結実させ目の前にある。万感の思いを込め、父はレグルに向き直った。


「よくやった、などと俺には言えん。

 ありがとう、レグル」

 父の目に光るものがある。


「いえ、すべてはここまで育ててくださった、お父さん、お母さんのおかげです。

 私は、恩賜の短剣を受けた者として、皇国に身を捧げる覚悟です。

 お役に立てる身に育てていただき、ありがとうございました」

 畳に手を突き、見事な所作でレグルは一礼した。

 かつてのやんちゃな面影は、すっかり影を潜めていた。


「そうだな、もうお前の身体は皇国の物だ。

 立派にお役に立ってくれ、レグル。

 何にしてもめでたいことだ。

 この村から同時にふたりも士官が生まれるなんて。

 士官の輩出すら初めてだというのに、エルミちゃんとお前のふたりも士官になるなんてなぁ」

 落ち着きを取り戻した父は、眩しい物を見るように息子を眺めた。

 やがて、母が酒の支度が整ったと声をかけ、家族だけのささやかな宴席が始められた。




「お前から直れ」

 エルミに向かって騎兵軍式の挙手敬礼をした次兄が、小さく言った。


「でも、兄さん」

 砂海軍式の挙手敬礼を続けるエルミが、困った顔で小さく答える。

 この日のために休暇を取った次兄は、駅ではなく家の前で待っていたのだった。


「候補生とはいえ、お前の方が上なんだ。

 お前が降ろさなきゃ、俺はいつまで経ってもこのままだぞ。

 お前が飛行士官学校を受けると聞いてから、妹に向かって敬礼する日を、俺はどれほど待っていたことか。

 ほら、降ろせ」

 確かに所属する軍の違いはあるが、下士官が士官より先に挙手を降ろすなどあり得ない。


「はい」

 満面の笑みを湛える次兄に促され、エルミは挙手を降ろし、両手を指先まできっちり伸ばすと直立不動の体勢を取った。


「それでいい」

 エルミが挙手を降ろすのを見届けると、士官学生の見本にしたいと思うほどのきれいな所作で次兄は挙手を降ろす。



「恩賜の短剣は残念だったな。

 それでも半分よりは上か。

 お前にしちゃ、上出来すぎだよ」

 家族で囲む食卓に長兄の声が響いた。


「酷いわね、お兄ちゃん。

 これでも落ち込んでるんだから。

 また、レグルと差を付けられちゃうわ」

 この日何度目か分からない膨れっ面を、エルミは作った。


 魔法や飛行術は常に上位五人に入っていたが、生来の勉強嫌いが響き、総合成績ではギリギリ恩賜組には入ることができなかった。

 それでも軍政より軍令、それも現場を望むエルミにしてみれば、下手に上位の成績を取って砂海軍大学校など受験する羽目になるくらいなら、恩賜の短剣など重圧にしかならないと開き直っていたのだった。


「ちゃんと卒業できたんだから、エルミにしたら上出来でしょ。

 お母さんは、いつあなたが逃げ帰ってくるか、そればかり心配してたんだから」

 母の言葉にエルミがまた膨れ上がり、小さな家の中は笑いで満たされていった。


「明日はチェルちゃんが腕を振るってくれるんだろ?」

 涙目になりそうなエルミを見て、次兄がさり気なく助け船を出す。


「うん、楽しみなんだ。

 今日はみんな気を利かせてくれてるけど、そんなに長く村にいられるわけじゃないからね。

 みんなでわいわいやるのも楽しみにしてたのよ」

 次兄に感謝しつつも、エルミは胸の奥に小さな痛みを感じていた。


 新年祭以来、帝都でチェルに会うことはなかった。

 料理修行が中断しているということは、幾度か交わした手紙で知っている。だが、チェルが心配かけまいとして詳しく書かなかったため、どう行った経緯なのかエルミもレグルも承知していない。まさかチェルが解雇されたとは思わないが、昨今の風潮が原因だろうとはふたりとも感じ取っていた。しかし、根ほり葉ほり聞くわけにもいかず、言いようのない不安を抱えたままだ。

 駅で再会した際のチェルの明るさが、ふたりの不安をいっそうかき立てていた。




「いらっしゃい、待ってたよ。

 こんなご時世だからたいした物はないけど、精一杯やるから楽しんでいってね」

 レグルとエルミがそれぞれの家族とともにチェルの宿のドアをくぐると、チェルが待ちかまえていた。


「候補生殿、今夜は宿を取ってありますので、どうぞご安心を」

 楽しそうにガルが後ろから顔を出した。

 それぞれか夢に向かって動き出したとき、前祝いと称して飲んだくれ、そのままチェルの宿に泊まったことを再現しようということだった。



 村の主立った者たちが集まったところで、レグルとエルミの卒業を祝う宴席が始められた。

 村始まって以来の快挙に、暗く沈みがちだった雰囲気は一掃され、誰もが心地よく酔っている。昨年の贅沢禁止令のせいで豪華絢爛とはいかないが、それでも普段とはひと味違う料理が並べられていた。もちろん、本来であれば取り締まる立場の駐在も、この日ばかりは野暮なことは言い出すことはない。

 レグルとエルミの姿は、これから大人の仲間入りする少年や少女に、これ以上ないほど眩しく輝いて見えていた。


 数人の少年少女がふたりを囲み、士官学校の入試問題や、飛行士官学校の授業について質問責めにする。

 まだ酒を飲むことを許されない子供たちに比べ、合間に杯を干しているふたりは、徐々に言葉が怪しくなっていく。やがて、時計が九時の鐘を鳴らし、子供たちが親に連れられ帰って行った。

 笑顔で子供たちを見送ったあと、ふたりからは大きな溜め息が漏れ、それを見た大人たちが大笑いした。




「しかし、よく帰ってこられたな。

 四月一日から勤務じゃなかったのか?」

 人気が引いたチェルの宿の一室に、四人の男女が車座になっていた。

 レグルとガル、チェルとエルミが向き合っている。レグルとチェルが隣り合うように自然に腰を下ろした結果、ガルに寄り添うようにエルミが座っていた。


「ああ、俺たちも驚いたんだ。

 本来なら、三月二七日に寮を引き払って、任地へ荷物を送って、二八日から三〇日が休暇、それで三一日が移動日のはずだったんだ。

 それがいきなり三日ずれこんで、その上休暇が一週間だぜ」

 難しそうな顔でレグルが答えた。


 三月三〇日に寮を引き払い、本来新任地で四月一日に行われるべき候補生任官式を、三一日に一日前倒しで済ませていた。

 そして四月一日から七日までの一週間が特別休暇になり、八日が移動日で九日から勤務が始まる。何から何まで異例尽くめだった。


「噂は本当だったもんね。

 本来なら私たちの少尉任官は来年の四月一日なんだけど、今年の一〇月一日に繰り上げなのよ。

 そのせいなのかな」

 エルミも思案顔で言う。

 チェルのことも聞きたいのだが、どう切り出していいか解らずに自分たちのことを話題にしていた。


「今休ませてやるから、あとは休むなってことだろ。

 もう慰霊祭の休みもないんじゃないか?」

 レグルが半ば諦め顔で言う。

 主力艦の保有比率を対オリザニア六割台に抑えられて以来、砂海軍の訓練は激烈を極めていた。艦艇保有量に制限はあっても、訓練の量に制限はないという理屈だ。

 基本的に週一日は休むことになってはいたが、訓練の状況や長期演習に際しては休みなど簡単に消し飛んでいた。

 それが公然と安息日にも訓練を入れると、上層部から通達が出されていた。


 毎週ではないにしろ、休みは確実に減ってしまう。

 オリザニアとの開戦が近付けば、それこそ休んでなどいられないだろう。この異例ともいえる長期休暇は、まだ正式に任官していない候補生たちに対する最後の温情なのかも知れなかった。



「なあ、これはあんまりしたくない想像なんだが。

 年内にオリザニアとやるのか、皇国は?

 お前たちなら、何か聞いてるんじゃないか?」

 不安そうな表情でガルが聞いた。


「何故、そう思う?」

 目つきを鋭くしたレグルが、質問に質問を返す。

 生徒の言動に規律違反を見つけ、それを咎めようとする教師の顔のようだ。


「いや、俺は軍とか政治のことはよく分からないけど。

 普通は一年かけて育てる士官を急造する。

 いきなり戦場に放り込むはずはないから、数ヶ月は実地教育をする。

 メディエータとの戦争の主役は騎兵軍。

 お前たちをメディエータに送り込むには、少し焦りすぎだ。

 内大岩盤は、砂海軍では制圧できないからな。

 つまり、メディエータ方面艦隊は士官教育にはもってこいだ。

 となれば、答えは……」

 そこまで言って、ガルは答えをレグルに預けた。


「チェル、修行は暫く休みなのか?」

 レグルは唐突にチェルに聞いた。


「え?

 あ、あの、うん……。

 親方から、当分自宅待機だって言われてね」

 急に話を振られ、どう答えていいか解らないチェルは、答えに窮した。

 今はガルがレグルに答えを求めているのだ。しかし、レグルの目はチェルに、答えを求めている。あまりの迫力に、チェルは正直に答えることにした。

 もっとも、不祥事で解雇されたわけではないので、特に隠す必要もないのだが。普段会えない状態で余計な心配をかけたくないばかりに、今まで詳しく話す機会がなかっただけだった。


「おい、レグル、なんだよ、急――?

 ……解ったよ、この話は無しなんだな?」

 突然はぐらかされ、文句を言おうとしたガルをエルミが目で止めていた。


 どんな形で話が漏れるか解らない。

 ガルに悪意がなくても、両親に話せばそこからまた話は広がりかねない。繰り上げての少尉任官は公式発表されるから、そこから様々な噂は広がるだろうが、軍関係者自ら余計なことを言うわけにはいかなかった。



「レグルは第八戦隊に配属になったんだっけ?

 私は第二航空戦隊。

 『デットン』艦攻隊よ。

 南工廠所属だから暫く帝都からは離れちゃうけど、しょうがないわね」

 固い雰囲気をほぐすように、エルミが得意げにいった。


 『デットン』は『コッヴ』や『ブリッツ・ブロッツ』の運用経験で確証を得られた手法を選んで無難に設計され、ソル空母のモデル形になっていた。

 基準排砂量一万五九〇〇トン、全長二二七.五メートルの艦体に二一六.九メートルの飛行甲板を載せ、全幅 二一.三メートルのスマートな艦型を有している。一五万二〇〇〇馬力の機関は、この巨体を最大速力三四.五ノットで砂海上を走らせることができる。公試運転では、搭載する魔鉱石や弾薬などの物資が半量の状態とはいえ、三四.九ノットを記録し、ソル空母最速の称号を得ていた。


 航空兵装は、新鋭戦闘機の零型艦戦、九型艦爆、七型艦攻をそれぞれ三個飛行小隊一八機ずつの五四機を常用とし、この他偵察小隊として七型艦攻三機、補用機として零型艦戦四機、九型艦爆と七型艦攻を六機ずつ、分解した状態で搭載している。

 航続距離が十八ノットで七六八〇浬と他の制式空母に比べて短いことを除けば、中型空母としては申し分ない性能であり、世界の砂海軍関係者からは理想的な空母との評価を得ている。


 準同型艦である僚艦『テレスドン』とともに第二航空戦隊を形成し、闘将オーキキ少将の将旗を交代で掲げている。

 『デットン』の九型艦爆隊は、『コッヴ』艦攻隊指揮官の雷撃の天才ジュージ少佐とともに砂海軍の至宝と並び称される、急降下爆撃の神様コウモ少佐が率い、全空母艦爆隊中最高の爆撃命中率を誇っていた。



「そうなんだよ。

 第八戦隊『ドラコ』の砲術科だ。

 エルミともども第二艦隊なんだよな。

 ま、同じ第二艦隊とは言っても『ドラコ』母港の母港は西工廠だから普段は離ればなれだし、演習で砂海に出てるときには会えないのが残念だけど。

 できれば戦艦がよかったんだが、まずは腕を磨いてからだな。

 当分の間、みんなバラバラになっちまうんだな」

 レグルは不完全とはいえ希望が叶った喜びと、友と離れなければならない寂しさをない交ぜにした顔で言った。


 同型艦である僚艦『ケロニア』とともに第八戦隊を形成する重巡洋艦『ドラコ』は、二〇.三センチ主砲連装四基八門をすべて前甲板に集中配置し、後甲板は飛行甲板とした特異な艦型を有している。

 どちらかといえば攻撃力重視重武装のソル重巡にあって、水上偵察機を六機搭載する偵察能力に特化した艦であった。

 基準排砂量一万一二〇〇トン、全長二〇一.六メートル、全幅十九.四メートルの刀剣を思わせる鋭い艦体に搭載された十五万二〇〇〇馬力の機関は、砂海上を最大速三五.五ノットで疾走する能力を有している。航続距離は一八ノットで九二四〇浬と申し分なく、艦隊の目としての役割を果たすに充分だ。

 一二.七センチ連装高角砲四基八門、二五センチ連装機銃六基一二挺、一三センチ連装機銃二基四挺の強力な対空火器と、六一センチ三連装魚雷発射管四基一二門という強力な砂雷兵装を兼ね備え、空母や戦艦といった主力艦の護衛からソル砂海軍のお家芸ともいえる夜間の砂雷戦まで幅広くこなせる万能重巡洋艦と評されている。


「そうか、みんなバラバラか。

 寂しいけど、しょうがないか。

 じゃあ、俺は大学院に進んで、お前らの役に立つ鉄鋼の研究をしようかな」

 寂しげな表情を浮かべてガルが言う。

 ふたりの希望が叶ったことは素直に祝いたいが、遠く離れてしまうことはやはり寂しかった。


 自分が学問のために帝都へ出たあと、チェルは暫くこの村に残る。

 専門技術学校に学友はいるが、やはり幼馴染みとして長い間ともに過ごしてきた三人と離れることはつらかった。


「新年祭にはいくら何でも帰してくれるでしょ。

 全員がいっぺんに帰省するのは無理としてもね。

 ガルの休みは長いんだから、その辺は都合つけてよ。

 あと、たまには遊びに来て欲しい、な」

 エルミが殊更寂しそうな顔を作りながら言った。


「寂しいが、仕方ないな。

 ガル、俺の方は構わないから、たまにはエルミの方に行ってやれよ」

 レグルが悪戯っぽい顔で言う。


「そうだな、男に会いに行っても色気がない。

 迷わず、エルミの方に行くよ。

 そっちにはチェルが行くんだろうし」

 笑いながら、さばさばとした顔でガルは答えた。


「まだゆっくりしていけるんでしょ?

 久し振りなんだから、今夜は飲んじゃおうよ。

 今夜は宿の奢りだよ。

 何か作ってくるね。

 レグル、手伝って」

 エルミ、今夜こそ、と視線に意志を込めてエルミを見てから、チェルは立ち上がった。


「いいだろう。

 食事当番で鍛えた腕を見せてやる」

 同様にエルミを見てからレグルも立つ。


「もう尻に敷かれてるのか?

 今からそれじゃあ、先が思いやられるぜ、レグル」

 何となく身の危険を感じたガルが、レグルを引き留めようとして茶々を入れた。


「今から、だと?

 莫迦にするなよ、ガル。

 とっくに、だ」

 ガルの意図を知ってか知らず、レグルはこの時代のソル男児にあるまじき一言を言い放ち、チェルについて部屋から出ていった。


 ソル皇国の風潮としては、全般に男尊女卑の傾向が強い。

 だが、家に入ってしまえば実権を握っているのは、多くの場合女性だった。もちろん、実権を握っている方が虐げるということはなく、互いに尊重しながら慈しみ合っている。ただ、社会に出て働く立場に男性が多く、女性がそれについてとやかく言わないため、そのように見えているだけだった。

 社会的に高い立場の者が、家に戻れば良き夫良き父として、家事を分担することは珍しくなかった。


「本当に、先が思いやられるぜ。

 なあ、エルミ?」

 笑いを噛み殺しながら、ガルはエルミに同意を求める。


「わ、わ、わ、わ、私は、し、し、尻に敷いちゃったり、し、し、し、にゃいかりゃっ!」

 思いっきり噛みながらエルミが真っ赤になっていた。

 そして、手元にあった強い酒のビンを一気にあおる。


「何、真っ赤になって……

 おい、よせ、エルミ!

 そんなことしちゃダメだって!

 レグル! チェル! 戻ってきてくれぇ!

 エルミを止めてくれぇ!」

 ガルが慌ててエルミから酒ビンを奪おうとするが、恥ずかしさのあまりエルミは酒をあおり続けた。この朴念仁!


 部屋を汚したり、女を押さえつけたりするわけにはいかないという常識が、酔い潰れたらまた大変な目に遭わされるという恐怖と、幼馴染みを二日酔いで苦しませたくないという良識を上回り、ついガルの力を緩めさせた。


 切迫したガルの叫びに慌てたふたりは戻ってきたが、エルミの暴走と妄想は留まることを知らなかった。

 僅かに残る理性がガルへの告白を引き留めていたが、照れ隠しもあってレグルとチェルをからかい続ける。もうひとつ、酔ってしまえば多少ガルにしなだれかかっても、いつもの戯れだと思ってもらえるという悪だくみもあった。


 楽しそうにふたりに絡み、ガルに寄りかかり、酒をあおるエルミを、三人はなす術もなく見守るしかなかった。

 やがて、糸が切れた操り人形のように眠り込んだエルミを、三人がかりで隣の部屋の布団に放り込む。幸せそうな笑みを浮かべたエルミの寝顔に、三人は思わず顔を見合わせて、爆笑してしまった。




 四月六日の早朝、村の駅には人混みがごった返していた。

 その人いきれに、まだ寒い早春の空気はすっかり影を潜めている。休暇自体はあと一日残しているが、新任地までレグルは二日、エルミは三日の行程だったため、一日早い出立となったのだった。

 チェルの宿でエルミが酔い潰れた翌日から二日間は、それぞれが家族と水入らずの時を過ごしていた。その次の日に挨拶周りをと墓参りを済ませ、昨日一日は四人でオアシスの湖に船を出していた。

 さすがに出立前夜に酒盛りをするわけにはいかず、最後の夜はそれぞれがまた家族とのひと時を過ごしたのだった。



「達者でな。

 ふたりとも、武運を祈る。

 休みには遊びに行ってやるけど、この前みたいなことは勘弁しろよ、エルミ」

 ガルの言葉にエルミが真っ赤になり、何か言い返そうとしたときに、村長が万歳の音頭をとった。

 その喧噪の中で、チェルはレグルと静かに別れを惜しんでいる。その目には、うっすらと涙が滲んでいた。


 まだチェルの修行再会の目処は立たず、当分は村に留まることになる。

 いっそこの機会に祝言をという声もあったのだが、自身にけじめを付けてからというチェルの意向で見送られていた。あとひと月待ってみて、親方から再開の知らせか新たな修行先の斡旋がなければ、そのときはレグルの任地へ行くつもりだ。

 しかし、少尉の間は兵舎暮らしという規則もあり、祝言を挙げても一緒に暮らせるわけではない。ましてや艦隊勤務ともなれば、艦から離れることはできない。

 母の体調が芳しくないことも相まって、中尉に昇進するまで村に留まるか、チェルは迷っていた。




「何でガルを押し倒さなかったんだよ、意気地無し」

 早朝の風を切って砂海上を走る浮遊車の中で、この車両にふたりしかいないことを確認したレグルがエルミに言った。


「だって……

 恥ずかしかったんだもん。

 それに、いくらなんでも私からなんて無理でしょ。

 普通、気付いてくれるもんじゃないの?

 私じゃなくて、ガルが意気地無しなんだってば」

 自らの醜態を思い出し、顔を真っ赤にしたエルミが答える。


「いつ死ぬか解らないんだぜ?

 もう、会えないかも知れないんだ。

 戦争に行かなくても、俺たちは娑婆の人たちに比べて殉職する可能性だって高いだろ?

 後悔だけはしないでくれよ」

 窓から村の方角を眺めながら、レグルは言った。


「じゃあさ、何でレグルはチェルと祝言を挙げてこなかったのさ?

 ふたりとも後悔しないの?」

 自分をけしかけておいて、チェルには指一本触れていなかったレグルの言動は、エルミからしてみれば矛盾している。


「俺は……

 チェルをきれいなままにしておきたいんだ。

 いつ死ぬか解らないだろ?

 俺が死んだら、すぐ忘れられるように、さ」

 血を吐くような表情になって、レグルは言葉を紡ぐ。


 もちろん、レグルに死ぬ気などかけらもない。

 しかし、軍人という仕事の性質上、一般人より死は身近な存在だ。エルミの次兄のように、軍人であっても温かい家庭を築いている者も多いが、それは平時であってのことだとレグルは思っていた。オリザニアとの関係が悪化している現在、いつ死が自らに訪れるか解らない。

 戦争を回避できるか、運悪く開戦してしまったら生きて終戦を迎えるまで、祝言はお預けだと自身に言い聞かせていたのだった。


「なによ、自分だけ格好つけちゃって。

 私のことはけしかけておいて、そんなこと言っちゃってさ。

 そんなんじゃ、私だってガルに何も言えないじゃない」

 レグルを睨むようにエルミが言った。


「いや、これは俺がそう考えてるだけであって、エルミが真似することはないぜ。

 こう言っちゃなんだが、想いを残したままじゃ死にきれないだろ?

 だから、思い切っておいた方がいいと思うぞ」

 弁解がましいと思いつつ、レグルは答えた。


「同じよ、言っちゃったら。

 でも、振られちゃった方が、いっそいいかもね。

 心おきなく、皇国のために働けそう」

 口元は笑って見せたが、エルミの両目には光るものが浮き上がっていた。


「すまん、エルミ。

 余計なこと言っちまって。

 だけどな、振られるって決まったわけじゃないだろ?

 何にしても、オリザニアとの戦争は避けて欲しいよな。

 死ぬのが怖いとかじゃなく、戦争なんかない方が良いに決まってる」

 心底申し訳なさそうな表情でレグルは言った。


「だって、レグルだって知ってるでしょ?

 ガルはチェルが好きだって。

 もしチェルのこと諦めてたって、学校には女の子だっているし、帝都にいれば……

 私のことなんか、眼中にないんだよ」

 最後の言葉が引き金になったか、エルミの目からは涙が止めどなく溢れてきた。


「エルミ……」

 レグルは掛ける言葉が思い付かず、ただ見守ることしかできなかった。

 今この状態で、何を言ってもそれはエルミを傷つけることにしかならないと、レグルには思えてならなかった。帝都行きの浮遊車に乗り換えたあともエルミは涙を止めることができず、ふたりの間は気まずい沈黙が支配していた。

 やがて泣き疲れたのかエルミは眠ってしまい、レグルは独り暗い目で窓に流れる砂海を見つめていた。




 帝都の駅にある食堂で、泣き腫らした目をしたエルミと固い表情のレグルを前に、エルミの次兄夫婦が複雑な面持ちで箸を動かしていた。

 一足先に帝都に戻っていたエルミの次兄は、浮遊車の乗り継ぎ時間を利用して、ふたりを食事に誘っていたのだった。一八時過ぎに帝都駅に到着したあと、西工廠や南工廠方面に向かう夜行浮遊列車が発車する二三時まで、何もできないふたりは喜んでこの招待を受けていた。そして、図らずもエルミを泣かしてしまうことになっていたレグルにとって、第三者が介在してくれる時間と空間は何よりもありがたい。

 それがエルミの全面的な味方であれば、自分がいくら責められることになろうと、エルミのためには何よりだと思っていた。


 食事が済んでも、まだ時間はたっぷりとある。

 ちょうど夕食時でもあり、いつまでも食堂の席を占拠しているのもマナー違反だ。結局、義姉の計らいにより、男と女に分かれ酒場に行くことにする。集合時間の確認後、雑踏に消えるエルミとその義姉を見送ったレグルは、男女の話になるのであれば、兄より義姉の方が話しやすかろうと思っていた。

 男同士の話は、まさか軍人同士が一般人の耳目の中で戦争の話をするわけにもいかず、他愛のない世間話に終始した。



「レグルちゃん、エルミちゃんのこと、よろしくね。

 つい飲み過ぎちゃって。

 私も調子に乗りすぎちゃったわ」

 エルミの義姉が済まなそうに言う。


「楽しかったわよ~、レグル。

 心配かけちゃってぇ、ごめんなさいねぇ。

 お兄ちゃん、今日はありがとぉ~」

 すっかりできあがったエルミが陽気に喋っている。


「しょうがないな、ふたりとも。 

 レグル君、済まないが妹をよろしく頼む」

 次兄は渋い表情を作るが、妹の顔がすっきりしていることにほっとしている。

 公式の場ではないため、村におけるガキ大将とその取り巻きに戻ったかのような物言いだ。


「お義姉さん、ありがとうございます。

 私では力不足でしたので。

 エルミが少しでも気が晴れたなら、それが何よりです。

 お兄さん、母港こそ違いますが、同じ第二艦隊の構成員として、ともに助け合いながら未曾有の国難に立ち向かう所存です」

 一般人と変わらぬ所作で、レグルは一礼する。

 レグルも公式の場ではないと自覚しているため、幼長の序を弁えた物言いになっている。


 やがて、発車のベルが鳴り響き、ふたりを乗せた浮遊列車は次兄夫婦に見送られ帝都を離れた。

 既に時間は深夜といって良く、乗客たちは荷物を整理するなり寝台に潜り込み始める。完全に酔いが回ってきたエルミは、着替えもそこそこに深い眠りに落ちていた。

 浮遊車の底から伝わる砂海の砂の細かい起伏に揺られながら、レグルは何度目かの寝返りを打っていた。

 エルミには『チェルをきれいなままにしておきたい』とは言ったが、本心は嘘だ。健康な男であり、正常に性欲は持っている。チェルを抱くことなく死ねるか。それが本心であり、今すぐ村に取って返し、チェルを抱きたい。だが、それを口にしてしまえば、軍人として生きていく矜持が崩れてしまいそうなのだった。

 いつしか移動の疲れとほどよい酔いが、レグルを眠りの世界へと誘っていた。


 

 四月七日の午後、西工廠への乗換駅でレグルとエルミは分かれた。

 レグルはこの日の陽が沈む頃に西工廠近くの駅に到着し、予め取ってあった宿に入り、そこに届いていた荷物を受け取った。

 エルミは深夜になって南工廠近くの駅に到着した。長時間の移動にふらふらになりながら、その日は近くに取った宿に入り、荷物を受け取る。そして、ふたりとも四月八日一日を休養に充て、翌九日に指定どおり西工廠と南工廠に出頭した。

 そして、そこでふたりを待っていたものは、第二艦隊だけでなく、連合艦隊全体を巻き込んだ大幅な艦隊編制の変更だった。


 四月十日に第一航空艦隊を新設するため、第一艦隊と第二艦隊に所属する航空戦隊が転出した。

 エルミが乗艦する『デットン』は、僚艦『テレスドン』とともに第二航空戦隊のまま、第一航空艦隊に転出することになった。

 これにより、第一航空艦隊は『コッヴ』、『ブリッツ・ブロッツ』、『デットン』、『テレスドン』の制式空母四隻を集中運用する世界初の機動部隊となった。もちろん、ゴトム大将の意向が強く働いていることは軍上層部では公然の秘密であり、ハトー攻撃が念頭に置かれていることは明らかだ。そのため、近く竣工する第五航空戦隊の新鋭制式空母『アパテー』と『アルギュロス』も、攻撃力不足を補うため編入される予定だった。

 六隻の制式空母が揃えば、航空兵力は合計で常用三九六機、補用九九機という巨大なものになる。


 第二艦隊と第一航空艦隊は基本的に別組織になり、作戦上の要請がない限り行動を共にすることはない。

 外地遠征や演習航海で寄港した際に、エルミとレグルは会うことができなくなってしまったのだった。

 この発表を、エルミは航空機の時代が到来したという興奮と、幼馴染みと寄港地で会えないという寂しさと共に聞いた。レグルは第一航空艦隊の編制表を目にして、護衛艦艇の少なさが気かがりになっていた。編制表だけを見れば、各航空戦隊に付属する少数の旧式駆逐艦を除けば空母だけの編制であり、どう見ても対潜哨戒、対空哨戒の能力が不足している。おそらく、実戦に際してはもう一度大掛かりな編成替えがあるはずで、そのときに第八戦隊が第一航空艦隊に編入されることを、レグルは望んでいた。


 もうひとつ、司令部に対する不安を期せずしてレグルもエルミも抱いていた。

 新設された第一航空艦隊の司令部は、参謀長に航空関連の中枢を歩んできたカリュウ少将、航空甲参謀にジッツー少佐という航空関連のエキスパートがいるとはいえ、司令長官は砂雷畑出身で第一航空戦隊司令官に就任するまで一度も航空関連の指揮官を経験したことのないナンクウ中将が親輔されていた。作戦の立案や実施に当っての不安はそれほどないが、最終的な決断を下す人物が航空機の素人では決定的な場面で判断を誤るのではないかという危惧が捨てきれない。この時期、第二航空戦隊司令官だったオーキキ少将や、かつての第一航空戦隊司令官で現第三戦隊司令官のハルミ中将、ハトー攻撃の立案を任されているロウ少将といった航空通の提督の方が適任ではないかと、レグルもエルミも考えていた。


 ナンクウ中将自身も同様の危惧を抱いており、当初は固辞したと伝えられている。だが、彼が親輔された理由は優れた艦隊運用の腕を見込まれてのことと、年功序列が半々といったところだった。最終的には、軍事参議官たちの『すべてを参謀たちに任せて責任だけ取ってくれれば良い』という、実にいい加減な口説き文句にようやく首を縦に振ったという逸話が伝えられていた。同時に、ナンクウ自身が私的な場で『俺に全部嫌なことだけ押し付ける気か』とぼやいていたという話も、まことしやかに伝えられていた。

 上層部は紙上の決済で事が終わっていたが、現場は艦隊司令部と各戦隊司令部との顔合わせや、訓練や補給の計画立案、実施と、大混乱に陥っていた。




 連合艦隊が混乱の極に叩き込まれていた頃、三国同盟締結の立役者である外相は、アレマニアとウィトルス歴訪の帰途、ロス共和国の首都に立ち寄っていた。

 そして、四月十三日には誰もが予期せず、また期待もしていなかったソル・ロス中立条約の電撃的な調印にこぎつけてしまった。いずれは必要な条約であり、今回のロスへの立ち寄りはその地均し程度と考えていた外務省は、驚愕と歓喜に包まれた。騎兵軍省も、長年の敵国を気にすることなく、フェクタム帝国の運営と対メディエータ戦争の遂行に邁進できる状況を歓迎した。

 外相がドラゴリー大岩盤横断鉄道で帰国の途につく際には、異例なことにロス共和国首相自らが駅頭で見送り、抱擁しあうという場面が写真に取られ、大々的に報道されている。



 一方、外相の外遊中、ソル・オリザニア交渉に、突如として進展があった。

 四月十八日に、駐オリザニア大使とオリザニア国務長官デルの会談で提案された『ソル・オリザニア諒解案』が、ソルに伝達されている。

 この案には、『ソル軍のベロクロン大岩盤からの段階的な撤兵』と、『三国同盟の事実上の形骸化』のふたつと引き換えに、いくつかの妥協案が示されていた。オリザニアが提示した案は、ソルにとって喉から手が出るほど欲しかったものだった。

 特に『オリザニアによるフェクタム帝国の事実上の承認』、『ソルの南方における平和的資源確保にオリザニアが協力すること』というふたつの文章がソル側に伝わったとき、ソル政府に歓喜が爆発した。

 だが、この諒解案そのものはソル・オリザニア交渉を開始のするため叩き台に過ぎなかった。しかし、これをオリザニア側の提案と早合点したソルでは、最強硬派の騎兵軍すらも驚喜して賛成の状況になってしまったのだった。



 四月二十二日に、意気揚々と帰国した外相はこの案を聞かされ、まさに仰天した。

 自らが心血を注いで成立させた三国同盟を、有名無実化させることなど到底認められるはずもない。そして外交交渉が自分の不在の間に頭越しで進められていたことでプライドを大きく傷つけられていた。外相激怒し、この案に猛然とかみつき、反対した。

 もちろん、プライドを傷つけられたくらいですべてをぶち壊しにするほど、外相は子供ではない。


 大東砂海共栄圏の理想に燃える外相にとって、西部大東砂海の平和は何よりも重要視するところだった。

 オリザニアと戦端を開かずに済むなら、それに越したことはない。それくらいのことは、外相を務める身であるならば、当然理解していて当たり前だ。だが、外相はオリザニアの西方膨張の欲求が果てしないことも、また熟知していた。もし、『ソルの南方における平和的資源確保にオリザニアが協力』などしてしまったら、脆弱なソルの国力など、オリザニアの巨大な資本力に飲み込まれてしまう。結果として、南方資源地帯はオリザニアの手に落ち、ソルは這いつくばってそのおこぼれに与るしかなくなってしまうだろう。それでは西部大東砂海共栄圏など、夢のまた夢だ。

 外相にとって、それは許されることではなかったのだった。



 しかし、やっとの思いで『ソル・オリザニア諒解案』を潰せたかと思った六月二十二日、突如アレマニアがロスに宣戦布告した。

 あまりにも一方的で、突然の不可侵条約の破棄だった。僅か五ヶ月前に締結したばかりのアレマニア・ロス不可侵条約は、アレマニアの対ロス開戦準備のための隠れ蓑でしかなかった。


 この開戦によって、外相のベロクロン・ドラゴリー枢軸構想自体が、その基盤から完全に吹っ飛んでしまった。

 この開戦については、アレマニア訪問時に同国外相からアレマニア・ロス関係は今後どうなるか分からず、両国の衝突などありえないなどとソル政府には伝えないようにと、釘を差されていた。さらに、アレマニア総統も両国の国境に百五十個師団を展開したことを明かすなど、アレマニア側が開戦についてそれとなく匂わせる発言をしていたのだった。だが、それにも関わらず、外相はこれらのアレマニア中枢部の発言を帰朝後の閣議で報告しなかったばかりか、両国の開戦について否定する発言を繰り返していた。これにより、アレマニアに対する不信感が政府内には広がり、それまで親アレマニア一色だった騎兵軍の中にも懐疑的な態度を公然と取る者も見られ始めた。

 もともと反アレマニアの立場を取っていた砂海軍は、より一層アレマニアに対する警戒心を強め、結果として外相の立場は悪くなる一方だった。


 六月三十日にはアレマニアからは、ソルも歩調を合わせてロス戦争に参戦するように要請が来た。

 もちろん外相は、締結したばかりのソル・ロス中立条約を破棄して対ロス宣戦することを閣内で主張した。しかし、自ら締結させた条約を反故にしようなど、正気の沙汰とはとても思えない。外相に対する不信感が、内閣にも浸透してしまっていた。

 その上、外相は対オリザニア交渉では強硬な『ソル案』提案している。だが、南部資源地帯の一部にある、アレマニアが征服したドラゴリー大岩盤列強だった国の植民地への進駐には、閣内で一人だけ強行に反対した。二律背反する外相の主張に、オリザニアも交渉相手として認めないという態度を取り始めていた。

 このような外交施策で閣内に混乱を招いたことで、時の首相は外相に外相辞任を迫るが、自らの政策を押し通したい外相は当然拒否する。


 仕方なく首相は七月十六日に内閣総辞職し、別の人物を外相に据えた上で第三次となる同首相による内閣を発足させようとした。

 当然、外相は次期内閣でも続投する気でいたが、そもそも外相を外すための内閣総辞職だ。さらには皇王が徹底して外相を嫌ってしまっていたことで、外相の次期内閣に入る可能性があるはずもなかった。仮に外相の名が記された内閣名簿を上奏したとしても、裁可が降りる可能性など零でしかない。

 無類の忠誠心を持つ外相にとって、皇王が漏らした『外相は釣り針のように曲がった心の持ち主だから』という言葉は、外相の闘争心を根底から吹き消してしまったのだった。




 外相を外したことで、対オリザニア交渉が進展すると政府内には期待が膨らんだ。

 何かにつけアレマニア贔屓で、オリザニアに対しては一歩も引かない態度の外相は、オリザニア政府から既に交渉相手としては認められていなかった。確かに国際舞台で譲歩は次から次へと退くことに繋がるが、妥協は決して悪いことではない。そのさじ加減のできない外相では、百戦錬磨のオリザニア相手の交渉が上手くいくはずもなかった。

 だが、後を継いだ次期外相は、前の内閣では商工大臣の職にあったため交渉には全く不慣れであり、対オリザニア交渉は全くといって良いほど進展しなかった。


 このとき騎兵軍は、激烈な派閥争いを勝ち抜いた対メディエータ強硬派が主導権を握っていた。

 対オリザニア交渉の眼目でもあるメディエータからの撤退はもちろん、メディエータ派遣軍の縮小すらポストの減少や発言力維持のため、到底認められるものではなかった。このため、陰に日向に対オリザニア交渉で妥協の姿勢を見せる者に対する圧力が強められていく。閣議は紛糾し、騎兵軍大臣が辞任を盾にオリザニアに対する方針に口出しする。引き続き三度目の任に着いた首相は、徐々にその気力体力を削られていった。

 まったく明日が見えない状況に、ソル皇国は混迷の度を深めるばかりだった。


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