第10話 明日へ
エルミが受けようとしている飛行士官学校は、設立されるまでの経緯に多少の紆余曲折がある。
今から九年前の二六二九年、将来空戦の中核を担う飛行士を育てるために、海軍飛行予科練習生、略して予科練の制度が設立されていた。これは一六歳から二〇歳までの志願兵であり、三年間の教育期間で搭乗兵を育てることを目的としたものだった。だが、士官学校とは別組織であるため士官に進級することはごく稀であり、もし昇進できたとしてもそれは特務士官でしかなく、指揮権が与えられることはない。空戦の指揮は、たとえ戦技に劣っていようと士官が執る。
そこに歪みが出ていた。
徹底的に空戦技術を叩き込まれた兵や下士官を、たかだか飛ぶのがやっとという士官が指揮統率できるはずもない。
謙虚な性格の士官中には空戦技術を兵や下士官から学び、良好な関係を気付く者もいた。だが、階級の権威に縋って部下を従わせている士官の方が、遥かに多いのが現状だった。オリザニア共和国との戦いで、より危険度の高い敵を見極める目を持たない士官の指揮を無視して、最も危険な敵を排除した兵や下士官が、空戦後にリンチに合う例すらあった。命を助けられたという目に見えない現実より、指揮に従わなかった事実の方が、多くの士官にとっては重要なことだった。
両者の間には埋め難い溝が刻まれ、士官の階級を持つ搭乗員は後ろにも目が必要とまで言われるようになっていった。
もちろん、三次元の機動を必要とする空戦は、敵機が後ろに回り込むことが稀ではない。
後ろにも目が必要なことは言われるまでもないことだが、士官搭乗員の場合は意味することが違っている。敵機を撃墜した直後の気の緩みを衝かれ、別の敵機に落とされることは少なくないが、普段から恨みを買っている部下の機にも気をつけなければ生きては戻れないことを意味していた。砂海軍省もこの状況は認識しており、貴重な搭乗員を無為に失うことは認め難いことだった。
だが、公然と兵や下士官を罰していては、陰湿な虐めが発覚してしまう。
窮余の一策が、二年前の飛行士官学校の設立だった。
表向きは空戦指揮官の養成だけではなく、幅広い戦略眼を養うことで将来の参謀や航空艦隊指揮官を育てることを目的に謳っている。だが、実際には空戦の訓練は予科練と合同で行うため、まったくの素人に統率されるという予科練出身兵のガスの抜きのためだった。当初、予科練同様一六歳から二〇歳までを受験資格にする予定だったが、予科練出身の反発を抑え、同時に優秀な下士官を引き上げるために年齢制限を三〇歳までとしていた。
既に空戦技術を身に付けた者は甲種、付けていない者を乙種に区分し、教育課程も一部に異なる部分がある。当然空戦技術を身に付けた者にいまさらその教育を施す必要はなく、乙種の者に対する教官を勤めさせることで、教官の育成も同時に行うことにしていた。
エルミが受験するのは、当然のことながら乙種飛行士官だ。
飛行士官学校における教育は、数学や理化学、国語、この時代世界の公用語となっていたサピエント語といくつかの外国語の一般課目と、多岐に亘る兵学、基礎体力向上のための体育と、魔法、空戦技術だった。
午前中はみっちり座学が行われ、午後からは体育と魔法、空戦の訓練となっている。壮健な男子ですら音を上げる猛訓練は、砂海軍士官学校、騎兵軍士官学校と並んで名物と称されていたが、もちろん戦場で命を落さないために必要なことだ。それ故に受験は男子のみとされていたが、女性の持つ魔力に目を付けた砂海軍省は、飛行士官に限って女性に門戸を開いたのだった。前年に砂海軍省から『敵攻撃機の阻止撃攘』と『敵観測機の掃討』を目的として計画要求書が提示された三七試艦上戦闘機も、『速力及び上昇力優秀にして敵高速機の撃攘に適』する事が第一であり、それを意識して魔力への反応性を大前提に開発が進められている。
エルミが首尾よく合格を勝ち取れば、砂海軍の女性士官第一期生となり、その新型戦闘機を駆ることになるはずだった。
飛行士官学校も、受験科目は士官学校同様だ。
学術試験は五日間連続で行われ、初日に数学、二日目にサピエント語のソル語への翻訳と皇国の歴史、三日目が物理、四日目は化学と国語、最終日にサピエント語の作文及び文法と地理の順に行われる。士官学校の場合はそれぞれの学術試験の採点結果は当日に発表され、所定の合格点数に達した者のみが次の学術試験を受験できるふるい落とし選考であった。その後、面接試験を経て最終合格者が決定される。
だが、飛行士官学校の場合は学術試験の結果が発表されることはなく、六日目に魔法の試験が行われ、その結果を以って面接へ進む者が決定された。
頭でっかちが優先され、優秀な魔法使いがふるい落とされることを防ぐためだった。
エルミは自身の魔法に絶対的な自信を持ってはいる。
だが、全国から集まってくる受験者も、当然そういった魔法に自信を持つ者ばかりだ。どこまで通用するか、やってみなければ分からないが、門前払いにはならないだろうとエルミは思っている。一週間の間に、どこまで一般課目の点数を上げられるか、それが勝負になるだろうとも考えていた。そのために、次兄とその妻が手薬煉引いて待っている。今からそのことを考えると学校の授業が苦手だったエルミは心が萎えそうだが、一生を左右する七日間に不平不満など言ってはいられない。
村を出たときに折れそうになった心を奮い立たせ、エルミは帝都への道を辿っていた。
エルミの伯父の家に世話になっているレグルは、規則正しい生活を心がけていた。
他人様の家に厄介になっているという意識があることは当然だが、いずれ嫌でも過ごさなければならない士官学校生としての生活に慣れておこうと思ってのことだった。もっとも、体力増強のために走り込みをしようにも、日中の帝都でそんなことをすれば人迷惑なだけであり、日没後人通りが減ってからにはなっていた。
「今日、エルミが来るんだが、レグル君はどうするかね?」
エルミの伯父が机に向かっているレグルに声を掛けた。
「あれ、エルミが来るのは次の安息日じゃなかったんですか?」
村にいたときとは別人のような口調でレグルが答える。
「ああ、その予定だったんだがね。
なんでも、帝都の人並みに慣れておきたいってことで、急に来ることになったんだよ」
魔鉱石を利用した魔道通話装置は、この時代まだ各家庭に普及するほど発達していない。
通常、遠距離間の連絡は、どの国でも同じだが手紙が主流だ。
急ぎの場合には郵便局に出向き、そこにある魔道通話装置を利用した短いメッセージを先方の郵便局に送り、それを戸別配達員が各家庭に取り急ぎ送り届けていた。今回のエルミの帝都行きは、この魔道通報によって伯父と次兄に知らされていた。
「せっかくですから、迎えに行きましょうか。
帝都駅で良いんですよね?
それともお兄さんの家の近くの駅ですか?」
少しだけ考えてレグルは答える。
独りで帝都に滞在しているのであれば、エルミが飲みに行くのを止める自信がない。
レグル自身も久し振りに友達に会えるとなれば、ついつい飲み過ぎてしまいそうだった。
やはりいくら緊張しているとはいえ、まだまだ子供な部分も当然ある。目の前の息抜き以上の誘惑に勝てるとは、レグル自身考えられなかった。エルミの伯父や次兄がついていれば、適切なところで切り上げるよう場を運んでくれるはずだ。他人様に家に厄介になっているという緊張感をレグルは常に持ってはいるが、それでもどこか大人に対して甘えている部分があった。
もちろん、それを責めるような大人はひとりもいなく、レグルもまた責められる程の甘えを見せることはなかった。
「帝都駅だ。
夕方、一八時頃だな。
その後、皆で何か上手いものでも食べに行こうじゃないか」
人は緊張が続きすぎては壊れてしまう。
伯父はそのことを考えてエルミの歓迎会を行うことにし、そこにレグルを連れて行くことを決めていた。
「こんばんは、伯父さん、伯母さん、お義姉さん、お兄ちゃん。
レグル、いいの、ここに来てて?」
半分蒼ざめた顔で帝都駅に降り立ったエルミは、雑踏の中に見知った顔を見つけて安堵の溜息をついた。
生まれて初めて、ひとりで乗り込んだ花の都。
父や母に連れられて来たことがあるとはいえ、故郷の村では考えられない人ごみをひとりで歩くのは初めてだった。
基本的に浮遊車だけでの移動だが、乗り換えは何度かあった。その度に人々の巨大な群れに飲み込まれ、行き先を見失いかけていたのだった。父や母と一緒のときには、どちらかが雑踏から守ってくれていたことに、エルミは今更ながら気付かされていた。
伯父と次兄夫婦と落ち合うことができ、エルミはようやく人心地ついていた。
「いいのはないだろう、いいのは。
今夜はお前の歓迎会なんだってさ。
いつかの夜みたいなことがないように、俺が見張りに来てやったんじゃないか」
口を尖らせレグルは言った。
受験のためとはいえ、親元故郷を離れている。
そこへ恋人ではないにしろ、幼馴染みがやってきた。志を共にする戦友でもある。幸い受験先が違うため、いずれ机を並べる機会があるのだが、ライバルではなかった。僅か七日ではあるが、久し振りに会えた幼馴染みを前に心が安らぎ、はしゃいでしまうのは仕方のないことだ。
「ちょっと、まさか、あのことをみんなに言ったんじゃないでしょうね!?
やめてよ、恥ずかしい」
レグルが言ったことを正確に理解し、ガルの背中で演じた大失態を皆にばらされているのではと、エルミは慌てた。
「そうよ、エルミちゃん
そのためにレグル君に来てもらったんだからね」
次兄の妻、エルミにとっては義姉がからかうように言う。
「レグルっ!
い、つ、の、ま、にぃっ!」
顔を真っ赤にしてエルミがレグルに詰め寄った。
「俺は、なんにも言ってないっ!
潔白だっ!」
エルミの必死の形相に噴き出しそうになりながら、レグルは雑踏の中に逃げ込んだ。
もちろん、周囲の人々の迷惑にならない程度の速度でだが、人の群れに慣れていないエルミは簡単にレグルを見失った。
「お兄ちゃん、どこまであいつはばらしちゃったのよ?」
怒りの矛先を次兄に向け、顔の赤みが引かないままエルミは小さく聞いた。
「レグルは何も言ってないぞ。
親父とお袋から、全部聞いた」
笑いを噛み殺しながら次兄は答えた。
「ひっどぉいっ!
お父さんもお母さんもっ!
娘の名誉をっ!」
エルミが思わず叫んでしまうが、周囲の人々は振り向きもせず通り過ぎていく。
「な、言っただろ、俺は潔白だって」
いつの間にか傍に戻ってきたレグルが囃し立てる。
「まあまあ、人様の間で騒ぐもんじゃありませんよ、二人とも。
ところで、今日はどこへ行きましょうか。
エルミちゃんの歓迎会ですからね。
あと、レグルさんの息抜きも兼ねてですから、二人の行きたいところにしましょうか」
頃合いを見計らって、エルミの伯母が場を取り繕った。
「どこって言われても、お店なんか知らないし」
困り顔でエルミが返す。
「何食べたいかな、エルミちゃんは?
ソル料理でも、メディエータ料理でも。
あとはドラゴリー風でもいいわよ。
レグル君は?」
義姉が助け舟を出した。
「メディエータがいい」
「メディエータでお願いします」
エルミとレグルが同時に即答した。
言うまでもなく、チェルが帝都に出てきた際に、食べ歩くべき店を見つけておこうという心遣いだ。
エルミは、チェルからメディエータ料理の修業をすることを、直接聞かされていた。チェルがその決心をした時点でレグルは既に帝都に出ていたが、チェルは思いの丈を熱く綴った手紙をレグルに書いていたのだった。
「じゃあ、伯父さん、僕に任せていただけますか、どこへ行くか」
そう言って、次兄は先頭に発って乗り換えのホームへと歩き始めた。
「エルミは無事に着いたって。
どこかで迷子になったんじゃないかって、心配してたんだけど」
エルミが帝都に出てから二日後、チェルは忙しく食器を下げながらガルに言った。
「いくらなんでも大丈夫だろ。
乗り換えだけなんだし、帝都駅までは。
どこか駅から出て、違うところまで歩いていくわけじゃないし。
駅の中には案内板くらいあるんだから」
どことなく不安げに、年上の割には頼りない幼馴染みを思ってガルは答えた。
「そうよねぇ、いくらエルミでも、ね。
矢印と行き先くらいは読めるでしょうしね」
聞きようによっては酷い侮辱と取られそうな言い方で、チェルは無理矢理納得していた。
やはりガル同様、ふたつも年上でありながら、自分より子供っぽく見えてしまう幼馴染みを心配している。
「エルミ姉ちゃんって、そんな頼りないんだ?」
皿を抱えたアレイがガルに聞いた。
「ああ、頼りなくてな、心配だよ、エルミ姉ちゃんは。
アレイみたいにしっかりしていれば、お前の姉ちゃんもこんなに心配してないよ」
お手伝い偉いな、と言いながらガルはアレイの頭を撫でる。
「もう、ガル兄ちゃん、俺はもうそんな子供じゃないって」
口を尖らせてアレイは答え、皿を厨房へと運んでいった。
高等学校の入試は明日。
あまりにも緊張感が張り詰めすぎていたガルに、両親は少し息抜きしてこいと家を追い出していたのだった。ガルはこの日夕食をチェルの宿で摂り、他愛のないお喋りで緊張を紛らわせていた。もちろん、一日中弛緩しっぱなしなわけではなく、日中はしっかりと勉強し、この後もまだ机に向かうつもりでいる。
「じゃあ、あとちょっと俺も頑張るから。
チェルもこれから勉強だろ?
そろそろ帰るよ。
また明日、試験が終わったら寄らせてもらうから」
そう言って食事代を置いてガルは席を立った。
「ありがとう、ガル。
頑張ってね。
あたしもこれから勉強するからね」
テーブルの上のコインを取り、チェルはガルの背に声を掛けた。
チェルの勉強は、もちろんメディエータ料理についてのことだが、それ以前に様々な料理の約束事を復習していた。
父に付いて見よう見まねで覚えた包丁使いや調味料の使い方は、実践的では合ったが我流でもあり、早いうちに矯正できることはしておくべきと考えていたのだった。
当然父はメディエータ料理の修行は積んでおり、普段から使う包丁はメディエータ独特の巨大な角型の物だ。
しかし、これまでチェルに関しては宿の料理ができれば充分と考えていたため、無理に力の必要なメディエータの包丁を使わせることなく、普段遣いの日用品を使用させていた。だが、本格的に修行するなら、その包丁を使わずに済ませられるはずはない。今は母の包丁を使って練習しているが、近いうちにガルの父にチェル専用の包丁を鍛えてもらうつもりでいた。
明日の仕込が終わった後、チェルは慣れない包丁の重さに四苦八苦しながら、屑野菜や切り落とした肉の破片で包丁遣いの練習に励んでいた。
「チェル、根を詰めるのも程々にね。
寝不足で、明日怪我なんかしたらつまらないわよ。
それに、その包丁だと、指を飛ばしかねないからね。
休むのも大事なことなのよ」
厠に行った母が、寝室に戻る途中で厨房に顔を出す。
「うん、分かってるわ、お母さん。
今日は顔色も良さそうね。
もうちょっと練習したら寝るから、安心して」
チェルはそう言って母を安心させようとするが、手は止まらなかった。
「誰に似たんだか、チェルは頑固なんだから。
母さんみたいに体壊してからじゃ遅いのよ。
ちょっと、貸してみなさい」
母は嬉しげな顔で小さく笑い、チェルから包丁を受け取る。
鮮やかな手さばきで大根や人参をかつら剥きにし、他の野菜を微塵に切っていく。 しばらく厨房を離れているとはいえ、身体に染み込んだ熟練の技は、チェルとは大違いだった。
「お母さん、やっぱりすごいね。
あたしとは大違い。
できるようになるのかなぁ、あたし」
憧れの対象をみる目つきでチェルは言い、その後は不安げな表情になる。
「年期が違うのよ、年期が。
昨日今日始めたあなたが母さんより上手だったら、母さん立ち直れないわ。
今まで違う包丁に慣れちゃってたんだもの。
しばらくは、勘を掴むまでは大変よ。
闇雲にやるんじゃなく、かつら剥きとみじん切りの練習を、徹底的にやりなさい。
それこそ、寝る間も惜しんでね」
チェルに包丁を渡し、料理人の顔になった母が言った。
「お母さん、さっきと言ってることが違う」
久し振りに見た精気に溢れた母の顔に、チェルが笑った。
「あら、血が騒いじゃったわ。
また寝込んじゃいそう」
母は釣られて自虐的に笑い、また顔を厳しくする。
「チェル、どこへ行ってもね、教えて下さる方の言うことを、まずは鵜呑みにしなさい。
考えるのは、言われたことをどうすればできるかだけでいいの。
改良なんて、おこがましいことはしちゃダメ。
まずは、言われたことを完璧に覚えなさい」
鬼気迫る顔で母はチェルに言い渡す。
「はい」
理由を説明して欲しかったが、それを聞き返せば今言われたことに反すると、目前の師匠でもある母にチェルは答えた。
「そう。
それでいいのよ、チェル。
寝なさいって言っても聞きはしないんだろうから、もう少し頑張りなさい」
そう言って母は寝室へ戻っていった。
チェルは、母の手つきを思い返しながら、大根をひたすら剥き続けた。
あと少しやったら寝よう、そう思いながらもいつしか無心に包丁を動かしている。
厨房の明かりは、日付が変わるまで消えることはなかった。
「じゃ、行ってきます」
日の出とともに行われる宮城遥拝を済ませたまま、ガルは家族に向かって言った。
既に肩には鞄がかけられ、その中には筆記用具と受験票が大切に仕舞われている。始発の浮遊車に乗り、砂漠をひとつ越えたオアシスにある高等学校へ、入学試験を受けに行く朝だった。ガルの村からは他に受験するものはいないが、他所の村や規模の大きな町からはそれなりの人数が応募してきている。定員自体がそれほど多くないため、倍率は自然と高くなり、少しのミスでも命取りになる。それだけではなく、入学後授業についていけそうもない者を落すための試験でもある。定員割れになろうと所定の点数が取れなければ、すべて不合格になるのだった。
自然と表情は引き締まり、ガルの顔は中世には当たり前にあった決闘に臨む騎士のようでもあり、三三年前に未曾有の国難を救った艦隊決戦に向かう司令長官のようでもあった。
浮遊車はいくつものオアシスを回り、始発であるにも拘わらず多くの人々が乗り込んでくる。
明らかに同じ目的で乗ってきたと思しき少年や少女も散見された。顔見知り同士なのか、試験前の緊張を解すように話す者たちもいる。だが、ほとんどの少年や少女たちは、互いに視線を合わそうともしない。 ガルは話す相手自体がいないこともあり、黙って浮遊車の席に身体を沈めていた。
やがて、いつの間にか満員になっていた浮遊車は、定刻通りに高等学校のあるオアシスに到着した。
ガルの村からここまでは一時間。学校までは駅から歩いて三〇分程度と聞いている。日の出が遅い冬であっても、宮城遙拝を済ませてから家を出れば、始業時間には余裕で間に合う。この通学時間であれば、学校の後に家業を手伝うことは、充分可能だ。
浮遊車から吐き出される人の波に飲み込まれそうになりながら、ガルはそんなことを考えていた。
三度目となる高等学校への道を、ガルはひとりで歩いている。
願書を取りに来たときと提出に来たときに歩いていたため、迷う心配はない。その分周囲を歩くライバルたちを、観察する余裕があった。
当然のことだが、貴族階級や騎士階級の子女がほとんどを占めている。身なりが洗練され、育ちの良さを思わせる者たちばかりだ。ガルのような庶民階級の者はごく少数であり、その少数の者たちも豪農や豪商の子女であり、身なりの良さでは他に引けは取っていない。
ガルの村には貴族や騎士は居住しておらず、今同じ道を歩いている少年や少女たちは別世界の人間のように感じられた。
あまり村から出た経験のないガルは、半ば気圧されたようになっていた。
どの顔も自分より聡明そうに見え、誰もが自信たっぷりに見えていた。この中に入ってついて行けるのか、ガルには全く自信がない。それ以前に合格できるかどうか、朝まで抱いていた自信まで揺らいでいた。
「どうしたんだい、随分と心細そうな顔をして。
そんなことじゃ、試験の問題なんか解けないぞ。
ほら、しっかり歩いて」
前を歩いていた少年が、急に振り返ってガルに声をかけた。
互いに言葉を交わすことなく、相手を意識せずにたまたま並んで歩いていたが、思考の砂漠に沈んだガルは少しずつ遅れていた。
振り向いた少年は一定のペースで歩いており、ガルを追い抜くという意識がなかったため、急に視界から消えたガルが気になったのだった。
突然声をかけられ、呆気に取られて立ち止まってしまったガルに、少年は屈託のない笑顔を向けている。
少年は整った顔立ちに、均整の取れた身体を品の良い仕立ての服に包んでいた。住む世界が違う少年に、どう言葉を返していいかガルは咄嗟に判断できなかった。
「ごめん、驚かせちゃった?
でも、さっきより明るい顔になったよ。
今度会うときは一緒に通学だと良いな」
少年は立ち尽くすガルのところまで戻り、肩をひとつ軽く叩くと振り向いて、足早に去っていく。
さっきまで暗い想念に囚われていたガルは、すっかり毒気を抜かれたような顔になっていた。
心がすっかり軽くなったことに気付いたガルは、遠ざかっていく少年の背に心の中で手を合わせていた。
「ただいま」
鎚を振るう父に一言挨拶し、ガルは疲れ果てた足取りで家に入った。
既に日は沈み、いつもであればとっくに仕事を片付けている父が、この日はまだ仕事場にいた。
「お帰り。
その顔だと、聞くまでもないな」
鎚を置いた父がガルに言う。
「うん。
発表されるまで分かんないけど。
やれるだけのことはやってきた。
自信はあるよ」
母が淹れてくれた茶を飲みながらガルは答える。
「まあ、悔いがなけりゃいい」
それだけ言って父は仕事場に戻っていった。
「母さん、ちょっとチェルの宿に行ってくる。
飯はとっといてくれ」
ガルは、疲れている割りに軽い足取りで、チェルの宿へと歩いていった。
一月三一日の夕方、駅の改札でガルは一通の封書を手に、チェルと並んで浮遊車の到着を待っていた。
レグルとエルミが士官学校と飛行士官学校の合格発表を見て、間もなく帰ってくる時刻だ。この日の朝に発表があるため、まだふたりの合否は村に知らされていない。だが、ガルとチェルはふたりの合格を信じ、疑うことはなかった。
やがて浮遊車が到着し、人々が改札に向かって吐き出されてくる。
ガルもチェルも伸び上がって、人の波の中からレグルとエルミを見つけようとしている。
改札へ向かう人の流れの一番最後から、ガルとチェルに向かって手を振る影がふたつ見えた。力強く振られる二本の腕は、それだけでもう結果を知らせているかのようだ。負けじとガルも、腕に力を込めて振り返す。
改札を抜けたレグルとエルミが、晴れやかな表情でガルとチェルに対峙した。
どちらからともなく合格通知を見せ合い、四人の笑顔は真冬だというのに花が咲いたかのようだった。
間違いなく、このとき四人は明日への希望を抱いていた。
「危なかったのよ、一般科目壊滅だったんだもん」
ほっとしたような、だが誇らしげな顔でエルミが言った。
もちろん、本当に壊滅であったなら、どんなに魔法の成績がよかろうと落第だ。
確かにエルミの一般科目は褒められた成績ではないが、魔法の試験では断トツだった。
特に火の魔法は、この年の受験者の中では一位二位を争う成績だ。氷の魔法の成績が芳しくはなかったが、磨けば光る逸材という評価を得ることができ、一般科目は入学後に徹底的に扱けば良いと判断されたのだった。
「良かったじゃん、飛行士官が魔法優先で」
ざわめく酒場の片隅で、エルミのグラスに酒を注ぎながらガルが言う。
「チェルの慧眼だぜ、エルミ。
もし、士官学校の方だったら、初日におさらばだったな」
酒ビンを手に、エルミがグラスを空けるのを待ちながら、レグルも言う。
「感謝してよね、エルミ。
今夜は空き部屋があるからね」
満面の笑みを湛え、だが手には酒ビンを構えてチェルが続く。
「もちろん感謝してるわよ、チェル。
って、何よ、空き部屋があるって?」
続けざまにグラスを干し、チェルの言葉に不安を覚えたエルミが聞いた。
注がれる酒の勢いに、いつかの惨劇というか大失態を思い出していた。
「だから、今夜は安心してね、ガル」
笑いをかみ殺しながらチェルが言った。
「おう、だから飲めよ、エルミ。
親父さんにはさ、後で言っておくから。
ガル、エルミが死なないように、今夜は寝ずの番してやれよ」
レグルは笑いを堪え切れていない。
「結局、俺かよ。
まあ、いいや、エルミ、死んでも恨むな」
目を笑わせたまま怒った表情を無理矢理作り、半分空いたエルミのグラスに酒を注ぎながらガルが答える。
「冗談じゃないわ、ガル。
私は空母航空隊に入って世界中を見て回るんだから。
こんなところで死ぬわけにはいかないの」
注がれた酒を躊躇うことなく飲み干したエルミが口を尖らせる。
「あれ、エルミは空母勤務希望だっけ?
てっきりソルから出ずに済む基地航空隊だとばかり思ってたよ。
そうか、じゃあ、同じ艦隊になったら楽しそうだな。
俺は砲術だから空母には行かないと思うけど。
メディエータとの戦争が終われば、砂海軍は親善航海でいろいろと行くだろうしな。
っていうか、酔い潰れるまで飲まなきゃ良いだけだろ、エルミ」
レグルが意外そうな顔で聞き直し、次いで呆れたような口調になる。
「みんな、泊まっていっちゃえば、今夜は」
チェルが三人に言う。
「いいのか?
確かに空き部屋はあるんだろうけど、まさか俺たち全員で一部屋ってわけには行かないだろうよ」
多少、期待に胸を膨らませてガルが問い返す。
もちろん、レグルがいる以上、邪な気持ちを抱けるはずもなく、夜を徹して話せるという期待でしかなかったが。
「ありがたいことはありがたいんだが。
あまりにも不躾じゃないか。
親父さんとお袋さんに話してないんだろ、まだ」
実際のところ、何を今更の感もあるレグルが聞いた。
「大丈夫。
お父さんがそうしろって言ってたし。
後でみんなのうちには知らせてくれるって。
ちゃんと二部屋あるわよ」
厨房の父と目で合図を交わし、ガルの淡い期待を打ちのめす。
いくら幼馴染みとはいえ、許婚でもない男女が同じ部屋で夜を過ごすなど、皇国の常識では考えられないことだった。
「じゃあ、飲み直し、ね」
景気よくグラスを開けたエルミが、酒が注がれるのを待ちきれずに手酌で飲み始めた。
「よし、じゃあ、改めて乾杯だ」
ガルが酒ビンをエルミから取り上げ、レグルとチェルのグラスに注ぎ、最後に自分のグラスを満たす。
「何に、乾杯?」
酒が満たされたグラスを目の高さに揚げ、チェルが三人に微笑む。
「そうだな、俺たちの希望に満ちた明日に。
俺たちの手で切り開いていく明日へ。
皇国の悠久の繁栄と、俺たちの明日へ。
そして、皇王陛下、万歳、ってところでどうだ?」
レグルがグラスを掲げる。
「皇国の悠久の繁栄と」
「俺たちの」
「あたしたちの明日へ」
「皇王陛下」
ガルの声にレグルとエルミの声が続き、チェルがそこに続けて一旦言葉を切る。
四人がそれぞれを見詰めあい、軽く頷いてか一斉に唱和した。
「万歳!
乾杯っ!」
その瞬間、酒場にいた者全てが唱和し、そして荒々しく乾杯の嵐が巻き起こった。
盗み聞きなどするまでもなく、四人がどういった理由で飲んでいるか、知らぬ者などこの村にはいない。ささやかながら四人の少年と少女の未来に祝福を、と酒場全体がひとつになっていた。
――良い機会よ、エルミ。ガルを落としちゃいなさい。
喧騒の中、チェルがエルミに目で語りかける。
いくら男女が同じ部屋で夜を過ごすことが常識外れとはいえ、見つからなければそれまでともいえた。
だが、既に酔いが回り、心なしか目が据わっているエルミにチェルの気遣いは届かなかった。
やがて、予想通りエルミがガルに背負われ、チェルの宿へと引き上げたところで祝宴は終わりを告げた。用意されていた部屋に担ぎ込まれ、気持ちよさそうに眠り込んだエルミの隣で布団に入ったチェルは、穏やかに流れている平和なひと時に感謝していた。
「次にこうして底抜けに飲めるのは、いつになるんだろうな」
並べて敷かれた布団に入って、ガルはレグルに話しかけた。
「そうだなぁ、俺もエルミも当分営舎暮らしだからな。
士官学校にいる間は夏の慰霊祭、新年祭に休みはあるけど、村に戻ってこられても一日くらいだし。
中尉任官まではずっと営舎暮らしだ。
ガルが大学校か専門技術学校に入って、帝都に出てくれば休みの前の夜に外出許可が取れたらだな。
その後は、俺とチェルが新居を構えたら、いつでもいいぜ。
もっとも、帝都にいるかどうかは分からんが」
ほぼ真闇の中で、ガルの気配に向かってレグルは答える。
「そうか。
そうだな。
エルミとレグルが同じ日に休めるとも限らないんだよな。
それに少尉任官の後は、どこに配属になるかも分からないし。
俺、できるだけ帝都に遊びに行くよ。
魔道通報で連絡取ればいいだろ。
チェルもお前と一緒に、帝都に行くんだろうし」
僅かに口の中に苦いものを感じながら、ガルは溜息混じりに答えた。
「まあ、そうは言っても、俺たちが帝都に行くまで、まだ結構時間はある。
毎回チェルの宿に世話になるわけには行かないけど、何度か飲むことはできるだろうよ」
士官学校の正式な入校は、四月一日だ。
制服は官給品。授業は当然制服姿で受けなければならない。
季節ごとの私服数枚と、常時必要な下着の類に洗面道具。少々の書物に勉強に必要な物。持って行けるのはその程度ものものだ。プライベートスペースなど個人のベッドと小さなロッカーしかない士官学校に持ち込める私物は、ほとんどないと考えてよい。たいていのものは、酒保と呼ばれる購買部で買い揃えることができる。つまり、引越しの準備など、する必要はなかった。エルミについても同様だった。
四月一日までは、これからするであろう勉強の予習と体力増強、そして魔法の鍛錬だけと言ってよい。
ガルの高等学校入学も四月一日付けだが、こちらの入学式は四月七日だ。
当然ガルは引っ越す必要もなく、せいぜいできる範囲での予習くらいしか入学の準備はない。もちろん家業の手伝いはあるが、休みは安息日ごとにある。
今のところ、チェルだけが帝都へ行く日が確定していない。
先方から連絡があり次第なのだが、適当な下宿先が見つからないらしい。チェルが行く先は多数の弟子を抱えているのだが、男女を一つ屋根の下に寝かせるわけにもいかず、いくつかの下宿先と契約している。ところが下宿先もいくつかの店と契約していたため、女子寮になっている下宿先に空き部屋がないのだった。年度末を控え修行先を替える者もいるはずなので、四月一日には帝都に入ることはできるはずだが、明確な期日がまだ決まらない状態だった。
だが、空き次第入寮しなければ、どこかの店の者に横入りれてしまう可能性もあるため、連絡があれば明日にでもという状況でもあった。
「多分、チェルが先に行くことになるんだろうな。
そのときには、また底抜けに飲もうぜ」
そう言ってレグルは目を閉じる。
「そうだな。
まだ、時間はある、よな」
ガルはそう答えて目を閉じた。
程なく、横からはレグルの寝息が聞こえてきた。
真闇の中で、ガルは慌しくもゆったりとしている平和なひと時を、この上なく大切なものに感じていた。