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月の城

作者: シギ

 子供が夜を恐れるのは、恐怖を言葉にできないからだという。言葉はものを具像化する力を持っていて、具像化されたものは記憶にとどまりやすいからだ。


 昨日、英語の休講で時間がぽっかり空いてしまった。何となく潜った文学部の講義で先生はそんなことを言っていた。何の授業だかさっぱりわからなかったけど、大学の講義なんてそんなものカも知れない。先生の研究費を稼ぐために、適当にしゃべって、適当に単位を与えて、適当に卒業させる。文学部の授業は、その傾向が他よりも強いのだと思う。


 確かに、言葉にできないというのはかなりもどかしい。化学や生物の実習のときにも、かなり苦労する。色やにおいは表現しづらいものの筆頭で、コバルトグラスを通した時の炎色反応の桃色と藤色の境目だとか微妙な色の違いにいつも困ってしまう。試薬のにおいなんて特異臭と刺激臭と腐卵臭の3つしか表現できないのだから、もっとひどい。

 だけど、いま言葉に出来ないものはそんな具体的な、目の前にあればそれと分かる類のものではない。

 愛しい。もう一つ、わたしは何を感じたのだろうか。手掛かりをつかもうとできる限り言葉に置き換えてみる。ふさわしそうな形容詞を心に思い描いてみるが、どれもしっくりとはこなかった。乏しい語彙で、言葉にできる中にあるとも限らなかった。具像化できない想いは、秒刻みに記憶から薄れていった。






 独和辞典を引くのに飽きて、顔を上げた。東向きの窓からは、とっくに日差しは入ってこない。

 大学付属図書館の自習机を利用しているものの、利益が薄いことは間違いなかった。机に広げた、辞書もノートもテキストも自分のものである。取り立てて、図書館にいる必然性は全くなかった。

 いすの座りごこちがよい。とは言っても、自習室のいすと同じもので、便利さではカバンを持ち込める点で自習室のほうが勝っている。地上6階にあるこの部屋は、周囲に高層建築物が存在しないだけ、遠くまで見渡せる。気分転換に景色がたのしめるのは、図書館のメリットに数えてもいいものだろうか。

 風はほとんど吹いてはいないようだった。換気のために細く開けられた窓から、かすかに物音が入ってくる。形の壊れた音だった。車の走る音のようでもあり、葉の落ちる音のようでもあった。何の物音かよく聴こうとして耳を澄ましてみたが、ますます輪郭を無くしていった。出所のわからないそれらは、もはや空気の揺れ、更には粒子のぶつかる様子でしか認識のしようがなかった。

 窓の外の現実味のない景色。我が家の集まりと、稲のそよぐ田んぼ。そして、電線。どこにでもあるものの並んだ風景。ガラスに人影が映ったことは気付いたが、自分に用があるとは思いもしなかった。

 やあ、と声をかけられて、わたしは初めてふり向いた。

 同じクラスの人。大学のクラスは学籍番号順に分割されているだけで、顔を合わせる機会が他のクラスの人たちより多少おおいが、お互いがそれほど親しいわけではなかった。クラスメイトと言ってしまうには抵抗がある。わたしは彼の顔を知ってはいても、名前はいまだに知らない。その彼だってわたしの名前は知らないだろう。

 けれど、用件の予想なんて簡単についてしまう。今日のドイツ語のノートをコピーさせてくれない。またか、なんて内心舌打ちしているけれど、いいよって返事する自分が情けない。ついでにレポートの提出もあるんだよって、付け加えた。ドイツについて知っていること、題は自由。期限は来週までだと言うと、彼は小声で叫んだ。何とかなるんじゃない。他人事みたいに気軽にかつ無責任に、一応わたしは励ました。

 とりあえずコピー行ってくる。彼を見送ったあと、わたしは少しまじめにレポートのことを考えた。本当に何を書けばよいのだろう。題が自由なぶん、戸惑いが先立っていた。ナチスについいて、工業について、観光について。世界史なんか中学以来習ったこともないから、いまいちイメージが分からない。けれど、いくらでも書きようはある。

 資料を借りて帰らないといけないな。とか考えていたら、さっさとコピーを取ってきた彼がノートを返しに戻ってきた。珍しく、コピー機がすいていたみたいだった。ありきたりな感謝の言葉のあとに、後ろめたい気持ちでもあったのか話を振ってきた。わたしが話題を合わせたので世間話がなりたった。頭いいよね。ただ、ノートを取っているだけでしょ。すごく見やすいノートだし。ほめたって何もないよ。この次もお願いします。別にいいけど。

 無意味なやさしい会話が続く。頭の中では何も考えていないどころか、別のことを考えていた。それでも支障のでない、やさしい会話だった。別のこと、彼の手に持たれた、ノートのコピーのことを考える。ドイツ語のノートのコピーは、彼の友人たちによってコピーを取られるのだろうと。コピーのコピーは更に、コピーされていくのかもしれないと。複写を重ねるごとに線がズレ、文字が歪み最後にはオリジナルの雰囲気さえ壊れて、黒っぽくなって、読むことさえ大変になっていくのだろう。そんな物に意味が残っているのかさえ分からないけれど。

 いつも、この辺の席にいるよね。家に帰っても何もしないから。俺、図書館にいると寝てしまうから、結局どこにいても同じなんだよなぁ。前はわたしも図書館でおとなしく、辞書を引いているなんて考えられなかった。

 ふと思い出すと、わたしは以前図書館なるところで集中できないたちだった。勉強しようと考えるなど論外だった。大学に入るための受験勉強でさえ、図書館は避けていた。大切なことを忘れているような気がしていた。なのに、思い出せないことは、妙に快い感じがする。だからなのだ、わたしは思い出す努力をいつも途中で放棄してしまう。

 レポートの資料をかりて帰らなきゃ。わたしは混乱してきた脳をごまかすように言って立ち上がった。以前わたしが図書館を避けていようが、今は図書館にある資料が必要なのだ。嫌な気がしないなら、それでいい。

 一緒に見にいく、彼はそんなことを言った。わたしは、どんな返事だろうがかまわなかった。机の上に広げた私物をわたしは、重ねるだけ重ねた。誰も無断で持っていきたいとは思いはしないだろう。

 広くてどこを探せばいいかわかんないんだな、ここ。上のほうに「ドイツ」と表示された棚の前にたどりついたとき、彼がそう言った。請求番号通りに分類整理されている棚とは別の所に作られた、入門書のコーナーである。おそらくは、ドイツ文学やドイツ史を専攻している学部生のためのコーナーになるのだろう。エデンの「モモ」や、アウシュビッツだとか選帝候だとかなんて単語が印刷された、いかめしくて分厚い本が並んでいた。

 小難しそうな本なんて、読む気も起こらない。ガイドブックってどこにおいてあるのだった。わたしは横にいる彼に尋ねた。意図を測りかねた彼から、問いかけるような視線が降ってきた。ガイドブックには、歴史も生活も観光も分かりやすく書かれている。それを眺めて、面白そうなことを調べるなりまとめるなりしたほうが楽そうだと、わたしは付け加えた。あっちじゃなかったっけ。彼が言ったので、また二人で移動をする。

  いくつかの出版社のガイドブックが、色鮮やかな背を向けて並んでいる。そは、壁にめんした棚の壁際においてあった。蛍光灯の明かりも、すぐ向かいの棚にさえぎられる為か薄暗く感じられる。わたしは黄色い装丁のソフトカバーを手にとって、表紙を開いた。


 この世でもっとも美しくあれと作られた、断崖上の白亜の城館。


「シュロス・ノイ・シュヴァンシュタイン」


 口絵に使われた写真が目に入ってきて、無為に口走り、息をするのも忘れて、朝靄に煙るその姿を見入っていた。

 今の今まで忘れていた。

 何も割り込めない至福の思い。愛しい絶望感。

 あのころ、本は彼の王のお城にたどり着くための唯一の橋でしかなかった。少しも近づけない道のりが歯痒くて、焦りばかりがつらくて、図書館を避けていた。人間は忘却の生き物だと苦笑する。どうして、忘れてなどいられたのだろう。私は間違いなく恋焦がれていたのに。


 何か見つかったの。場違いな物言いを不思議に思ったらしく、彼は上から開いた頁を覗き込んできた。眺めたところで、彼の目にはただの建物にしか映っていないはずだ。1頁使われたカラーの写真を指で示し、わたしは答えた。

  「月光 (くるえる)王の夢のお城」

 要領を得ない言い方だとわかっていても、使ってしまう。わたしには、もっともつり合う表現のように思えるのだ。由来だとか、当時の社会情勢なんて、ほとんど知らないのだから、説明のしようもない。ただ好きだっただけだ。

 これ借りて帰ると迷惑かなぁ。わたしがつぶやくと、早い者勝ちってことだなと彼が請けあった。すっかり、手に取った他の出版社のものを借りて帰るつもりになっているらしい。わたしは気を取りなおして、他の頁も繰ってみる。レポートなんて関係なかった。わたしは月の王の幻のあとを、また追いはじめていた。



初出2000年10月。

加筆・修正しました。

当時とハンドルが変っています。ピンとこられた方は一報いただければ嬉しいです。

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