タイトル未定2026/07/29 09:18
第1章 近所付き合い
となりの部屋の住人が掃除機をかけ始めた。そろそろ九時だ。
大杉はスマホのアプリをオンにして、ラジオのニュースを聴く。公共放送は県内のニュースを流していない。四国のニュースは松山放送局だけだ。
掃除機の音が停まった。九時一〇分過ぎだ。時計代わりになる。
大杉は起きて顔を洗った。洗濯物がたまっていた。洗濯機を回して、ベランダに干しに行くと、となりの部屋のおばさんと一緒になった。
一か月前にはずいぶん胡散臭そうな目で見られた。
何かのおりに大杉が話すのを聞き
「東京から帰ったん」
と態度がガラッと変わった。以来、笑顔を向けてくるようになった。
「買い物はどこに行っとるん」
大杉はタバコ工場跡に設けられたショッピングセンターに行っている。
「駅前のドラグストアの方が安いよ。ポイントは付かんけど、ぜんぜん得。乗り換えるお客さん、増えとると思うよ」
◇
当地は葉タバコの名産地として、全国にその名を知られた。
大杉の家でもタバコを栽培していた。両親が夜も明けないうちから畑に出て葉を摘んでいた。家の中に張った縄に吊るして乾燥させ、家族ぐるみで伸 のばした。等級により値段に差が出るため、慎重な作業が求められた。
乾燥したタバコは専売公社が臨時に設けた出張所に運ばれた。手塩にかけたタバコを天秤棒に乗せ、父親は山道を下って行った。数少ない現金収入の日だった。
周辺から集められたタバコの葉は専売公社の工場で刻みタバコに加工された。多くの従業員がいて、当地を代表する産業になっていた。しかし、専売公社の民営化を受けて工場は一九九九年(平成一一)に閉鎖され、二〇〇七年(平成一九)跡地にショッピングセンターがオープンした。
田舎まちにも時代の激流は及び、二〇二四年(令和六)全国展開するドラグストアが進出した。最も影響を受けたのは昔からの商店だった。商店街はますますシャッター通り化し、賑わうはずの休日でさえ、定休日にしている店が多い。
◇
「刺身買うんなら、ちょっと遠いけんど、あそこの店がええよ」
おばさんは坂道の途中にあるスーパーを教えてくれた。そこにはボウリング場があったことを、大杉も知っている。
親切なおばさんだった。
大杉の部屋をノックする者がいた。
出てみると、となりのおばさんが立っていた。
「友達にいっぱい貰うたから、おすそ分け」
レジ袋にダイコンが二本入っていた。
それからも時々、差し入れがあった。秘境の生まれということだった。
第2章 遡上
一一時に大衆食堂が開いた。
勤め人風の男たちも通っていて、時間帯にはそれなりに混んでいる。大杉は奥の突き当りの席に腰を降ろし、時間をかけて食事をする。時間に縛られる生活は卒業した。それに、一日二食、まともな食事はお昼だけであり、じっくり味わいたいのだ。
店主の妻らしいおばあさんが手持ち無沙汰になったか、大杉にお茶をいれてくれた。
「お客さん、移住者?」
大杉はUターンしたことを伝えた。
「どこで生まれたん?」
生まれ育った村の名を答えると、おばあさんは前の椅子に座った。
「ほな、そこの散髪屋の宏さんと同じ村や」
おばあさんは名字を思い出せず、調理場にいるおじいさんに訊きに行った。
午後は図書館に行くか、アパートで小説の朗読を聴いて過ごすことが多い。
スマホは宝石箱のようなものだ。いろいろな宝物が詰まっている。有名作家でも初めて聴き、新たな発見をする作品もあれば、改めて唸ってしまうような傑作もある。真実に迫り、その時代を呼吸、かつ容れ物である文体のしっかりした作家は、永遠に読まれ続けるだろう。
夕方、路地裏にある居酒屋「稚鮎」の暖簾をくぐる。
客が大杉ひとりの日もある。そんな夜はなかなか勘定を言い出せない。若い頃からの癖だ。終電に乗り遅れ、引き返してまた飲んだこともあった。もはや、その心配はない。這ってでも帰れる距離だ。
店名の由来を尋ねた。
「鮎って、産まれた川に戻ってくるでしょ。なんて言ったかなあ」
「 遡上だろ」
「それそれ。私がそれなの。そういえば、大杉さんだって遡上したんだもんね」
◇
ママは愛媛県との県境に近い小さな村に生まれた。吉野川を挟んで、大杉の生まれた村とはちょうど反対側に位置する。ママの村はとっくに消滅している。大杉の村も消滅を待つばかりだ。
ママは中学卒業後、大阪の紡績工場に就職した。女工である。定時制高校にも通った。そこで男子生徒と知り合い、デートを重ねるうちに肉体関係を持ってしまった。相手は妊娠したことを知ると姿をくらました。
母親に諭されて堕胎した。ママは心身ともにボロボロになり、連絡船で紀伊水道を渡って帰省した。二年前、同級生らと期待と不安を胸に、乗った船だった。
洋裁学校の月謝とアパートの部屋代をかせぐために、スナックのバイトを始めた。いつしか本業になった。やがて一等地にクラブを出すも、バブルが崩壊して廃業、現在地に戻って居酒屋を開くこととなった。
◇
「遡上とはよく言ったものだなあ。人間にもそういう習性があるんだ」
大杉は感心している。
「鮎は故郷の川に戻って子供を産むけど、人間の場合、一斉に川を下っても、戻ってくるのはほんの一部。それも中高年だよ。老い先短い老鮎じゃない」
「そうねえ。田舎が廃れるのは当然ね。『稚鮎』なんて、鮎が聞いて呆れるよね」
ママは大杉に酒を注ぎながら、苦笑した。
ママが『稚鮎』を開店したのは一九九二年(平成四)のこと。三〇代後半、華やかな世界からの転身だった。
母親はふもとの国道沿いにあった縫製工場へパートに出ていた。すでに還暦を過ぎていた。駅の近くにアパートを借り、母親を呼び寄せた。母親は水商売に反対した。わずかばかりの貯金があるので、それを元手に食堂でも始めては、というのが希望だった。しかし、ママの性には合わなかった。
初め反対していた母親も、スナックを手伝うようになっていた。つまみなどを作り、九時過ぎまで洗い物などをして時間を過ごす。母親が水商売に対して持っていた印象は、ずいぶん変わったみたいだった。娘の身持ちが固いことも、母親を大いに安心させていた。たまに帰りが遅くなっても、母親は小言を言わなくなった。
母親は七四歳で病没した。晩年を穏やかに過ごせたことが、ママには救いだった。ついぞ、父親の話はしなかった。母親が泊まる宿で、一晩中、私生児を持つとどれだけ女は苦労するか聞かされ、堕胎を勧められた。あれは母親の体験談だったのでは、と今でも思っている。
第3章 親の背
大杉の髪が伸びてきた。ふだんなら美容院へ行くところを、食堂のおばあさんの話にあった理髪店に寄った。
宏さんは五〇歳くらいだった。奥さんも白衣を着て、かいがいしく立ち働いていた。
「前髪は眉くらいの長さに、うしろは刈り上げないでね。ピシッとした整髪と顔そりはけっこうです」
大杉は希望を伝えた。いかにも床屋に行ってきました、という感じは好きでない。
「食堂で、あなたとボクは同じ村の出身だと聞いたのですが」
話を向けてみた。
「いちばん奥の家がそうだったのですか。私が物心ついた頃には都会に出て行った後でしたが。私の家は神社の手前にありました」
大杉の見当がついた。一級年上の先輩の子どもだった。先輩は郵便局員だったはずだ。
「お父さんはどうしてますか。誘われて、よく魚獲りに行きました。なつかしいなあ」
大杉からすると、名人クラスの腕前だった。いつまでも川に潜っていた。水面に浮きあがると、ヤスの先には必ずといっていいほど大物を仕留めていた。
「お袋が亡くなって、親父を一人にはしておけず、八年前に呼び寄せました。定年退職してから釣りなんかして気ままに暮らしていたものですから、私らとの生活は合わなかったようで、ボケが進みましてね。今、施設に入ってます」
あの先輩が老いるとは、大杉にはおよそ想像ができないことだった。
「今、何軒残ってますか」
「さあ、確か三軒だったと思いますが。大杉さんは最近、行かれてないのですか」
「ボクもお袋が亡くなってからは行ってません。クルマの運転をしないものですから、足が遠のきます。家はもう崩れてしまってるでしょうね」
「この前、行った時には大杉さん家のまわりは杉林になってましたね。うちだって、そのうち杉の木に囲まれるでしょう」
宏さんは肩を落とした。
宏さんは中学卒業後、大阪の理髪店に就職した。夜間の理容学校に通って免許を取り、お礼奉公を終えて、故郷に帰った。奥さんは故郷で最初に勤めた店の同僚だった。結婚し、資金を貯めて独立開業した。バブル崩壊に加え、急速に過疎化が進んでいる時期だった。爪に火を点すような生活をして耐えた。
子供は四年前、都会の専門学校を卒業してサラリーマンになった。高校三年の時、理美容の専門学校に進むか、IT(Information Technology)系の専門学校にするか相談を受けた。夫婦はいちおう希望を伝える程度とし、息子の選択に任せたのだった。
理美容の専門学校なら、まだ田舎に帰る可能性があった。夫婦は息子が遠いところに行こうとしていることを、否応なく感じた。
「散髪屋も一代限りです。まあ、この間、歯医者さんの奥さんだって、子供が継ぐのを嫌がるって言ってました。借金を抱えて親が苦労するのを見てますからね」
宏さんの奥さんが会話に加わっていた。
「奥に見えたお家だったのですか。そんなに長い間、帰ってないのだったら、お父さん、来月の定休日に一緒に行ってあげたら」
思っても見なかったことだった。親切が身に沁みた。
第4章 山河の今
南下する街道を右折して鉄橋を渡った。
「昔は木の吊り橋だったらしいですね」
宏さんは助手席の大杉に語りかけた。
「昭和四五年(一九七〇)の台風で流されたと聞きます。翌年、この鉄橋が架けられたということです。ボクの大学時代の出来事なのに、まったく記憶にない。鉄橋ができて、車道も整備され、初めて村にクルマが乗り入れられました。庭先にまでクルマが横付けされるようにはなりましたが、そのクルマに乗って住人は都会に出て行った。整備した道路が、村を去る人々の花道にはなったわけです」
大杉が話していると、宏さんが急ブレーキを踏んだ。
「サルの群れです。道を渡るの待ちましょう」
前方に五、六匹の親子連れがいた。
「去年はイノシシがこれくらいもある大きな石を転がしてまして。道の脇に寄せるのに一苦労でしたよ」
宏さんは両手を広げて輪を作って見せた。
「それにしても、暗いですね」
大杉は窓の外を見渡した。
道を杉林が覆う。落葉する広葉樹と違って、常緑樹の杉は落葉しない。このため、枝打ちなどの手入れを怠ると、地表に日光が届かなくなる。森林は荒れ放題となり、土石流など自然災害の温床と化す。
「負の連鎖ですよ。何もかもがマイナスに出た」
宏さんは吐き捨てるように言った。
クルマが村に入った。
宏さんは家の周囲を見回る。庭には枯れ草が揺れている。納屋に入ったとたん、鼻を押さえて出てきた。
「ハクビシンが棲みついてます。臭い、臭い」
野生の王国だった。
「となりでは留守中にサルが上がり込み、冷蔵庫を開けていたらしいですよ」
宏さんは五〇メートルほど先にある家に目をやった。
となりは大杉のことを覚えてくれていた。
老夫婦だけの二人くらしだった。運動会の日は弁当をつくって応援に行ったこと、秋祭りに映画が上映され、電圧が下がって映写機が停まったことなども話に出た。
貧しいけれども、村がひとつにまとまっていた時代だった。
宏さんの計らいにより、クルマが行けるところまで行って見ようということになった。
大杉の実家はいちばん奥にあり、比較的早く廃屋となったために道路が整備されてないのは分かっていた。道路は手前にあった隣家の下方で途絶えていた。
引き返すことになった。
「確か、このあたりに谷があったはずですが」
大杉がずっと気になっていたことだった。
◇
昔は耳を澄ますと渓流の音が聞こえた。
冬の谷は氷に閉ざされていた。それでもかすかに谷の水音がした。静寂を切り裂くのはヒヨドリの鳴き声。停まったような時間にあって、ネコヤナギは花穂を膨らませ、春を迎える準備をしていた。
レンゲや菜の花が咲き乱れ、ミツバチが羽音を立てていた。小学校の帰り、谷に降りると、小さな魚が急いで岩陰に姿を隠した。童謡のとおり、春の小川はサラサラと流れていた。
◇
「谷はこの下ですよ」
宏さんは親指を下に向けた。
「砂防ダムがふたつ建設され、谷に土砂が堆積しました。昭和六〇年代初めのことです。工事車両が出入りしていたことはかすかに覚えています。でも、砂防ダムがこの村に必要だったかどうか。家々は谷から遠く離れている。地形からして、村に大きな水害などなかったはずですよ」
宏さんの言うとおりだった。余計なことをしたものだ。大杉は失われたものがあまりにも大きいことに、愕然とした。
「今日はお世話になったね。ありがとう。疲れたでしょう」
大杉は宏さんをねぎらった。
「かえって落ち込ませてしまったようで、心苦しいです」
宏さんは大杉の表情がすぐれないことに気付いていた。
「お礼に一献差し上げたいのですが。『稚鮎』くらいしか行きつけの店がないですけど、今夜どうですか」
約束の時間に行くと、宏さんは店の外に待っていた。
「ママとは阿紀汽船で縁があってね」
大杉は初めて店を訪れた日のことを話した。
「私も一度だけ乗ったことがあります。小松島港ではなく、徳島港に着きました。昔は小松島・和歌山間だったらしいですね」
と、宏さん。大杉は世代の違いを実感する。
「ママ、この人は同郷でね。子供の頃、お父さんとよく遊んだんだよ」
宏さんの仕事のことも話した。ママは宏さんの店のことは、聞いて知っていたようだった。
宏さんのお父さんの思い出話をして盛り上がった。
「下級生に悪ガキがいてね。なんとかして痛い目に遭わせてやりたかった。村の神社に大きな木があり、蜂が巣を作っていた。悪ガキが通りかかったので、ボクらは巣を見上げて『なんとか取れないかなあ』と言うと、悪ガキは『オラが取ってくるよ』。木の小枝を手に、スルスルと登って行って、巣をバシンバシン。蜂が悪ガキに襲い掛かり、悪ガキは木につかまって『どこかで渋柿とってきて、柿の汁を塗って』と大泣きしたことがあったよ」
宏さんは噴き出した。
「ひどいことするのね」
ママは眉をひそめた。
「でも、渋柿の汁、デコボコになった頭につけてやったよ」
民間療法だろう。悪ガキだけに応急処置の知識は持っていた。大杉も少しは反省していた。宏さんの父親も、結末に心を痛めていたに違いなかった。
第5章 婿養子
髭剃りの替え刃がなくなった。歯ブラシの毛先も、だらしなく開いてきた。化粧品店に入ろうとして女性に声をかけられた。中学の同級生の妹だった。
「どこに住んどるの。市営住宅に入らんかったから、心配しとったんよ。いいところあったん」
住まいを探していたおり、市の移住促進課の職員に案内され、市営住宅を見に行ったことがあった。その時にたまたま会ったのが彼女だった。
大杉は駅の近くのアパートに決めたことを話した。
買い物客が二人をジロジロ見て行く。彼女の話が長くなりそうだった。大杉は喫茶店に誘った。ピザを焼いてくれる。コーヒーは格別の味がした。大杉は店の雰囲気も気に入っていた。
「この間、生まれた村に行ってきたよ。変わり果ててたね」
「どこもそうよ。うちなんか女姉妹やったし、ウチが先に嫁に行き、おねえちゃんがあんなになったもんやから、跡を継ぐ者がおらん。家系が途絶えたんよ」
江戸時代には村の世話役も務めた名家だった。さまざまな事情があって、系図にピリオドが打たれる。
◇
彼女の姉とは二〇歳の同窓会で再会して手紙のやり取りをするようになった。親から婿養子を取れとしつこく言われていることは、彼女がいつか書いていた。妹が結婚し、長女の自分に重圧がかかっているともあった。
そんなことはお構いなく、大杉は愛を告白した。自分のことしか頭になかった。返事はこない。彼女のことはあきらめ、大学を中退したことを両親に告げるため四国に帰省した。使ったのは阿紀汽船だった。
再び京都に戻ると、彼女の手紙が机の上にあった。大杉が連絡船に乗った日の後に届いていた。彼女が三週間ほど悩んだ末に書いたものだった。大杉からの連絡を待つ彼女が不憫でならず、大杉はその足で再び阿紀汽船に乗った。
三週間という空白の時間が何を意味するのかは、今でも分からない。婿養子の件で迷っていたのか、あるいは、すでに彼女は自分が病に侵されていることに気付いていたのではないか。
夢に見た二人の生活は実現することなく、彼女は病院を退職して療養生活に入り、翌年、帰らぬ人となった。大杉にとっても最後の恋人だった。
◇
「台風がきているのに紀伊水道を連絡船に乗ってお姉さんに会いに帰ってね。あの時は怖かったよ」
大杉は昨日の出来事のように覚えている。
「それ、おねえちゃんから聞いたことある。その話するたびに涙ぐんでた。おねえちゃん、最期の頃は涙もろくなってたんよ」
大杉にはそれ以上の会話は耐えられなかった。
お互いに携帯の番号を教え合い、喫茶店を後にした。
第6章 目撃者
居酒屋『稚鮎』のママはその夜もお茶を引いていた。
大杉は景気づけにママと乾杯した。
「大杉さん。あなた、彼女とデートしてたんだって」
大杉は面食らった。
「隠したって、私は情報網もってるの。二人ともしょんぼりしてたらしいじゃない。喧嘩でもしたの」
よくよく聞くと、喫茶店から出てくるところを『稚鮎』の客に目撃されたらしい。
大杉は彼女とのあらましを明かした。
「まったく、どこで誰が見て、何を言いふらされてるか分からないわね」
ママの言葉に、大杉はニヤリとした。
「そうよ。どこに目撃者がいるか分からない。ママだって、阿紀汽船に乗ってる時、ボクに目撃されていたんだよ」
ママは目を見開いた。
「最初に来店した時に言ってた拾い物って、もしかして…」
ママはよく覚えていた。
「正解!」
「二度しか利用してないし、行きかな帰りかな。帰りの便だったら、どうしょう」
ママは両手で頬を押さえた。
「行きだよ。セーラー服着ていたけど、あれは間違いなく若きママだよ。心細そうだった。もうちょっとで話しかけそうになったよ」
大杉の与太話だった。
大杉が急に真面目になった。
「それはそうと、今度、小松島港に行ってこようと思ってるんだ」
「なんで、昔の彼女のこと思い出したから」
大杉は頷いた。
「いいなあ。そんなに思い続けられるなんて。妹さんも誘ってみたら。姉さんの思い出の地だもの」
意表を突かれた。
「また、誰かに見られたら、とんでもない噂たてられるよ」
大杉の苦し紛れの弁だった。
「じゃ、私も一緒に行っていいかなあ。大杉さんに目撃された日の、純真な自分に立ち戻りたいから」
同級生の妹に連絡すると、乗ってきた。思いも寄らない道行になりそうだった。
出発を翌日に控えた夜、同級生の妹から電話が入った。
「明日は行けん」
という。
◇
彼女は夫と大恋愛の末に結婚した。高校の先輩だった。ギターがうまく、文化祭で名曲の数々を演奏して大喝采を浴びた。
夫はプロへの夢を忘れられず、和歌山の温泉地に行って流しをやりながら、デビューの機会をうかがいたいと言い出した。
最初はいくらかの仕送りがあった。そのうちに仕送りは途絶え、連絡もつかなくなった。
温泉地に行って見ると、夫のアパートには生活している形跡があった。洗濯物が干され、中に女物の下着も混ざっていた。
踏み込むと、部屋に二人がいた。四国に帰ってと懇願した。女は冷笑した。
「この人の才能、あんな田舎に埋もれさせるん。デビューには内助の功も大事なんよ。あんたなんか足引っ張るだけや」
夫の本心を訊こうとしても、夫は沈黙を通していた。
思いっきりドアを閉め、駅に走った。来合わせた阿紀汽船に乗った。
連絡船が和歌山港を離れると、デッキに出て海をぼんやり眺めていた。背中を押されるような感覚を覚え、手すりに手をかけて靴を脱いだとたん、激しい震えが襲ってきた。立っていられず、恐怖から逃れるために這って船室まで行った。
義父母には夫は修行中だと言っておいた。そのうちに気付いたか、夫のことには触れなくなった。夫がデビューしたという話はついに聞かなかった。
◇
「つらい思いをしてきたんだね」
大杉にはそれしか言えなかった。
「分かった。明日『稚鮎』のママと行ってくるよ。また、電話するから」
切ろうとすると
「ま、待って!」
切羽詰まった声が聞こえた。
「やっぱり行く。大杉さんに話して、なんかすっきりしてきた」
第7章 再びの小松島港
吉野川に沿って徳島線が敷かれている。
水運に恵まれ、古来、吉野川を利用した水上交通が発達してきた。そのせいか、鉄道の敷設が遅れ、電化の波からも取り残された。四国で唯一、電車の走っていない県が徳島県だ。
いわゆる「汽車」に乗って徳島駅に出る。そこから南下して小松島へ。
どの駅も昇降客は数えるほどだった。
大杉たちの地元駅には昔、ホームに二軒の立ち食いソバがあった。通勤・通学時間帯には汽車のデッキに乗客が立っていた。
「そう。混んで混んで。学校に着くとクタクタやった」
同級生の妹は顔をしかめた。
「普通しか停まらない駅にも売店があったなあ。ある駅のホームに売り子がいてね。『〇〇〇饅頭』の〇〇〇を長く引っ張り、マンジュと短く切るの」
「あ、いたいた」
二人は少女のように、はしゃいだ。
鉄道をよすがに、たくさんの人々が生計を立てていた。
かたや海上交通については、徳島港が吉野川の河口に位置して遠浅だったことから、大型船は着岸できなかった。小松島港は大きな河川がなく、天然の良港だったため、四国と関西を結ぶ海上交通の要衝として栄えてきた。今日では徳島港の整備が進み、多くの連絡船やフェリーが徳島港に着岸するようになっても、小松島港は新たな物流拠点として期待が高まっている。
JRの南小松島駅からタクシーに乗る。
「昔は小松島港駅があったけどなあ」
大杉が言うと、運転手が興味を示した。
「お客さん、いつの時代の話ですか。そういう臨時の昇降駅があったとは聞いてますけど」
大杉の学生時代、牟岐線中田駅から汽車が出ていたことを話すと、運転手はしきりに中田の駅名を繰り返していた。
大杉は小松島港駅にちくわ売りがいたことを思い出した。
「『ちっか、どうですか』っていう売り声なんです。もう名物おばさんでしたよ」
同行者も運転手も大笑いした。
港に着くと、三人は急に黙った。
春の海風が心地よい。
三人はそれぞれの記憶を巻き戻した。
三人は紀伊水道に向かい、もはや入港することのない連絡船を待った。
☆
この作品はフィクションです
登場人物等は実際のものとは関係がありません




