第四章 サイード
六月十二日。木曜日。
イスファハン空港は小さかった。到着ロビーにベルトコンベアが一本。テヘランのメフラーバードの三分の一の規模。空気が違う。標高が百メートル高く、砂漠の乾燥にザーヤンデ川の水気がわずかに混じっている。鼻腔が楽だった。
出口を出た。
ファルハドが手を振っていた。
初めて会う顔だった。画面越しでは分からなかったことが一つずつ見える。背は悟より五センチ低い。肩幅が広い。丸い眼鏡の奥の目がモニターで見たときより大きい。笑うと目が三日月になる。
「モハンデス! よく来たな!」
「サラーム、ファルハド」
「サーメドを連れてくるつもりだったんだが、ナスリーンに止められた。幼稚園を休ませるなって」
「賢い判断だ」
「ナスリーンはいつも正しい。俺の唯一の正しい選択は、彼女と結婚したことだ」
車はプジョー・パルス。白。十年落ちだろう。後部座席にチャイルドシートが二つ並んでいる。
「乗れ。UCFまで三十分だ」
◇
街を抜けた。イスファハンの建物はテヘランより低い。五階建てを超えない。空が広い。プラタナスの並木がメインストリートを覆っている。テヘランのそれより枝が太い。水が多い土地の木だ。
ファルハドは運転しながら話す。
「おじさんは朝からもう工場にいるんだ」
「早いな」
「七時にバスで行った。門の前で俺の名前を出して、ゲスト登録してもらったって。七十歳がだぞ」
街が途切れた。幹線道路の両側が砂色に変わる。灌漑された農地が点在している。ピスタチオの畑。背の低い木が等間隔に並ぶ。
「ブーシェフルはどうだった」
「暑い。湿度が違う。配管の肉厚がギリギリだった」
「二号機?」
「ああ。規格下限の〇・一ミリ上」
ファルハドが口笛を吹いた。「交換部品は?」
「ない」
「ここも同じだ。ポンプのシール材が入ってこない。国産品で代替してるが、耐久性が半分以下だ」
UCFの外周フェンスが見えてきた。コンクリートの壁とワイヤーフェンス。門の前に守衛所。ファルハドがIDカードを見せ、悟のパスポートとゲスト許可証を渡した。
守衛が書類を確認した。「日本人か」
「ええ」
「ようこそ」
敷地内に入った。建物は低い。三階建てが最大。コンクリート打ちっぱなしの研究棟が並んでいる。植栽はほとんどない。砂色の地面に砂色の建物。
「あそこが材料評価棟。俺の研究室がある」
二階建ての細長い建物。窓にブラインドが下りている。
◇
研究棟のロビーでサイードが待っていた。
握手をしたとき、掌が厚く、指の関節が太かった。工具を握り続けた手。七十歳の手だが力がある。
白髪を短く刈っている。日に灼けた顔。深い皺。目は小さいが、こちらを見るとき焦点がぴたりと合う。現場の人間の目だ。
「サイードです。ファルハドから聞いてるよ。日本のプラント技術者だって?」
「遠山です。耐震コンサルをやってます」
「耐震? ブーシェフルの?」
「ええ。二号機の基礎と配管を」
サイードの目が変わった。焦点の質が、だ。見ている対象が「客人」から「技術者」に切り替わっていた。
「配管の材質は何だ。オーステナイト系か」
「主蒸気系はP91です。クリープ強度の高い——」
「フェライト系じゃないか。P91は溶接後の熱処理が難しい。ロシア人はちゃんとやってるのか」
「そこが問題なんです。UT検査で指示欠陥が出ていて」
ファルハドが笑った。「始まった」
サイードは悟の腕を掴んだ。「来い。見せたいものがある」
三人で廊下を歩いた。サイードの歩幅が速い。七十歳に見えない。ファルハドが後ろから「おじさん、ゲストだから」と声をかけたが、聞いていなかった。
材料試験室。棚にサンプルが並んでいる。金属片、セラミック、溶接の断面。サイードがガラスケースの中から一つを取り出した。
「見ろ。これは三十年前の遠心分離機のケーシングだ。マレージング鋼。最初のカスケードに使った。俺が若い頃、切削条件を決めたんだ」
指先でケーシングの曲面を撫でた。機械加工の切削痕が残っている。
「日本のポンプを分解したのもあの頃だ。荏原製作所。インペラの翼形が美しくてな。あの曲面を見て——うちの旋盤では出せない精度だと思い知った」
悟は金属片を受け取った。手のひらに冷たい。マレージング鋼。ニッケル・コバルト・モリブデンの合金。硬い。だが手触りは滑らかだった。三十年前の切削が、まだ正確だった。
「今はもう使わない材質だがね」サイードが言った。「新しいカスケードは炭素繊維だ。俺の時代は金属だった。金属の方が好きだよ。手で触れるから」
◇
UCFの食堂。壁にホメイニーとハメネイの肖像。その下にAEOIのロゴ。
トレイにゴルメサブジーとライス。ファルハドがドゥーグを三本持ってきた。
「ブーシェフルと味が違うだろう。イスファハンのドゥーグはミントが強い」
飲んだ。確かに違う。ブーシェフルのは塩が強かった。
三人でテーブルを囲んだ。サイードは食べながらも話が止まらなかった。
「トオヤマ、日本の原発は今どうなってる。福島の後で」
「再稼働は進んでいます。でも新設は厳しい」
「もったいない。日本の原子力技術は世界でも上だ。政治が技術を殺す。どこの国も同じだ」
サイードはスプーンを置いた。
「俺が現役だった頃、この工場はもっと活気があった。若い技術者が百人以上いた。今は——」
ファルハドが目を伏せた。サイードは続けなかった。
「まあいい。孫たちが元気なら、それでいい。サーメドはな、ファルハドに似て理屈っぽい」
「褒めてるのかけなしてるのか分からないな」
「褒めてるんだ。理屈っぽい子供は大人になってから面白い」
サイードが悟を見た。
「トオヤマ、お前も理屈っぽいだろう」
「よく言われます」
「いい。技術者はそうでなくちゃいかん」
◇
午後。車で市内に戻った。
「せっかくだから街を見せてやる」ファルハドが言った。
サイードは後部座席でうとうとしていた。チャイルドシートの間に挟まれて、首が傾いている。
「おじさんはいつもこうだ。車に乗ると五分で寝る」ファルハドがバックミラーを見て笑った。
UCFから市街地まで十五キロ。砂色の平原が徐々に緑に変わった。街路樹が増える。バイクが増える。チャハールバーグ通りに入ると車が詰まった。
「エマーム広場まで歩こう。ここからすぐだ」
サイードが目を覚ました。「着いたのか」
「まだだよ、おじさん。少し歩く」
三人で通りを歩いた。プラタナスの並木。テヘランのヴァリーアスル通りに似ているが、道幅が狭い分、木が近い。木漏れ日が石畳に落ちている。
バザールの入口を抜けた。
エマーム広場。
足が止まった。
広場の端から端まで五百メートル。ファルハドが何か説明していたが、数字より先に光が来た。マスジェデ・エマームのドームが午後の陽を受けている。タイルの青。テヘランにはない色だ。釉薬が光を含んでいる。空とは質が違う。七百年分の窯の記憶が焼きついた色。
噴水が中央で水を上げていた。子供が水際で遊んでいる。馬車が広場の縁をゆっくり回っている。家族連れ。アイスクリームの屋台。
サイードがベンチに座った。「足が疲れた。お前たち、モスクでも見てこい」
ファルハドと二人でモスクに向かって歩いた。
「おじさん、楽しそうだったな」
「ああ。工場にいるときが一番生き生きしてた」
「明日もUCFに行くって言ってた」
「まだ見足りないんだよ。十年分の変化を全部確かめたいんだろう」
ファルハドが立ち止まった。モスクの入口。イーワーンのアーチの下。タイルの幾何学模様が頭上を覆っている。青と黄と白。
「いい国だろう」
自慢ではなかった。確認だった。
悟は頷いた。
頷けた。嘘ではなかった。
広場に戻った。サイードがベンチで子供たちを見ていた。目が細い。孫を見るときの目だろう。
「トオヤマ、また来いよ」サイードが立ち上がった。握手。掌が厚い。
「次はナスリーンの料理を食わせてやる。サーメドにも会わせたい。あいつは最近、日本に興味があるんだ」ファルハドが言った。
「調整する」
「また『調整する』か」
「今度は本当だ」
ファルハドが笑った。サイードも笑った。夕暮れの光がタイルをオレンジに変えていた。
◇
空港まで送ってもらった。
「明日は金曜だ。ゆっくり寝ろ」ファルハドが窓から手を振った。サイードが後部座席から手を上げた。プジョー・パルスが駐車場を出ていく。
テヘラン行き最終便。午後七時五十分発。
搭乗ゲートのベンチに座った。携帯を確認した。暗号化アプリ。新着なし。
マレージング鋼の冷たさが指先に残っていた。
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