第三章 荷物
六月九日。月曜日。
五時に目が覚めた。アラームより先に。
シャワー。着替え。出張用のスーツケースに三日分の衣類。バックパックにノートPCと耐震評価の資料。
十時の用事は、誰にも報告していない。
Snappを呼んだ。
◇
テヘラン中央郵便局。エンゲラーブ広場の近く。南テヘランとの境界。建物が古く、革命防衛隊のポスターが目につく。
九時四十分。早い。二十分の余裕。
広場を一周した。売店でミネラルウォーターを買った。「日本人? トヨタ! いい車だ!」。笑顔を返した。
ベンチに座った。水を飲みながら広場を見る。
九時五十五分。赤い帽子。
広場の東側から男が歩いてきた。三十代後半。浅黒い肌。赤いベースボールキャップ。右手に黒いハードケース。機内持ち込みサイズ。
男はベンチの三メートル先で立ち止まった。携帯を見るふりをしている。
立ち上がった。近づく。手のひらに汗。
「ブーシェフルの天気は?」
声が自分のものではないように聞こえた。
男が顔を上げた。黒い目。表情がない。
「曇りです、モハンデス」
男がスーツケースを地面に置いた。悟のスーツケースの隣に。同じメーカー。同じサイズ。
男は悟の方を拾い上げた。悟は男の方を拾い上げた。
三秒。
男は振り返らずに歩き去った。赤い帽子が人混みに沈む。
ベンチに戻った。新しいスーツケースを膝の横に置いた。重さはほぼ同じ。中身を確認したい衝動を抑えた。
水を飲んだ。立ち上がった。Snappを呼んだ。メフラーバード国内線ターミナルまで。
◇
手荷物検査。列に並んだ。スーツケースをベルトコンベアに載せた。
前を向いた。検査員の顔を見なかった。顔を見れば意識が向き、体が硬くなる。
「アーガー」
足が止まった。背中の筋肉が収縮した。
検査員の制服の袖に腕章。呼吸が浅くなっていた。指先が冷えている。視野がX線検査台の一点に収束していく。検査員の手がスーツケースに触れている。画面を見ている。もう一度見ている。
「アーガー」
振り返った。
検査員は笑っていた。「日本人?」
「そうです」
「トヨタ・ランドクルーザー。最高の車だ。俺の夢だよ」
スーツケースを受け取った。手のひらの汗をスラックスの裾で拭いた。搭乗ゲートに向かった。
エアバスA320。イラン航空。座席の布地が擦り切れている。スーツケースを頭上の棚に入れた。窓側の席。ベルトを締めた。
三ヶ月前の暗号化メッセージを思い出した。テキストではなく音声。エリの声は圧縮された通信越しでも乾いていた。
『準備が最終段階に入っている。お前の仕事は二つ。防空配置図——これは終わった。もう一つは物資の中継だ。受け取り、渡す。中身は知るな。知れば表情に出る』
中身は知らない。だが見当はつく。ドローンの光学照準部品。制裁下のイランでは入手困難な精密機器。モサドの国内工作チームが最終組み立てに使う。
見当はつくが、知らないことになっている。
離陸。テヘランが小さくなる。上空から見ると、街はグレーの格子。人工衛星が見ているのと同じ光景。
ブーシェフルまで一時間四十分。頭上の棚でスーツケースが気流に揺れた。
◇
ブーシェフルの空気は壁だった。
タラップを降りた瞬間、湿気が顔に貼りついた。ペルシャ湾から吹く風が塩と海藻の匂いを運んでくる。気温四十一度。湿度六十八パーセント。三十秒で汗が噴き出した。
社用車の白いサイパ・プライド。塩害で塗装がくすんでいる。運転手のレザーが窓を開けた。
「モハンデス! お帰りなさい!」
「サラーム、レザー」
「荷物多いな、モハンデス」
「出張資料が増えた」
デルバル・ホテル。海沿いの三つ星。三階の角部屋。窓から港のダウ船が見える。
部屋のドアにチェーンをかけた。カーテンを閉めた。
スーツケースを開けた。発泡スチロールの緩衝材が中身を包んでいる。三つの箱。それぞれ静電気防止の銀色の袋。精密機器の梱包。
蓋を閉じた。クローゼットの奥に入れた。
携帯を確認した。暗号化アプリ。新着。
『明日。午前七時。ブーシェフル漁港南端。白いピックアップトラック。荷台にクーラーボックス。合図なし。後部座席にスーツケースを置け。車を離れろ。』
頭に入れた。削除した。
◇
夕方六時。カーテンの隙間からペルシャ湾が見えた。水面がオレンジに染まっている。
携帯が震えた。WhatsApp。ファルハド。テキストではなく電話。長い話をするときの癖だ。
「モハンデス、ブーシェフルはどう? 溶けてないか?」
「溶けかけてる。四十一度だ」
「テヘランは三十五度だよ。——聞いてくれ、叔父さんが来てるんだ」
「叔父さん?」
「サイードおじさん。もと化学プラントの技術者でね、もう七十だけどまだ頭は切れる。イスファハンの姉のところに来てるんだ」
ファルハドの声が柔らかくなった。家族の話をするときの声。技術の話をするときとは別の周波数。
「おじさんが『工場を見たい』って言い出してね。退職してもう十年なのに、まだ現場が好きなんだよ。UCFの見学をセッティングした。木曜にイスファハンに来ないか」
「俺はブーシェフルだ。水曜に戻る」
「テヘランから飛行機で一時間だろう。木曜の朝に来ればいい。空港まで迎えに行く」
背後で子供の声が聞こえた。甲高い。
「おじさんが『日本人の技術者に会いたい』って言ってるんだ。昔、日本製のポンプを分解して勉強したって自慢してたから」
「考えておく」
「またそれか。考えておく、は日本語の『行かない』だろう」
悟は笑った。
「ファーティマ・ハーヌムか」
「隣のおばさんが教えてくれたんだ。日本人の『考えておく』は信用するなって」
笑えた自分に驚いた。
「分かった。調整する」
「よし。おじさんも喜ぶよ」
電話が切れた。
エアコンの風が天井から降りている。設定二十四度。体感二十八度。室外機の効率が湿度で落ちている。
ベッドの端に座った。ファルハドの声がまだ耳の中にある。サイードおじさんが孫に会いに来ている。工場を見学したいと言っている。七十歳の退職技術者が、まだ現場に行きたがっている。
日本製のポンプを分解した男。
クローゼットの方は見なかった。
◇
翌朝。五時半。クローゼットからスーツケースを出した。約八キロ。
六時四十分にホテルを出た。漁港まで二十分。旧市街を抜ける。魚市場を通り過ぎた。氷を砕く音。魚の鱗が路面に光る。
漁港の南端。白いピックアップトラック。トヨタ・ハイラックス。荷台にクーラーボックス。運転席に人影はない。漁師が桟橋でロープを結んでいる。こちらを見ていない。
後部ドアに手をかけた。開いた。スーツケースを置いた。ドアを閉めた。
歩き去った。振り返らなかった。
二十メートル先で背後にエンジン音。ディーゼルの低い振動。タイヤが砂利を噛む。遠ざかる。
手のひらを見た。汗が光っている。
◇
八時半。レザーが迎えに来た。
ブーシェフル原子力発電所。市街地から南東十七キロ。海岸沿いの道。右にペルシャ湾、左に砂漠。
検問。二重のフェンス。IDカードを見せた。
原子炉建屋。白い円筒形の格納容器が砂漠と海の間に立っている。二号機のクレーンが三基、空に突き出している。
AEOIの担当者アハマディが出迎えた。
「ヴォルコフ博士は来ていない」
「ロシア人技術者は?」
肩をすくめた。「先月、帰国した。事情があってね」
補足はなかった。ロシア側の技術者が戻らない。小さな滞りが施設全体で積み重なっている。だから日本人の悟が来る。
午前のAEOI技術委員会。水平震度の引き上げ提案。結論は「検討する」。
午後、二号機の主配管を点検した。デジタルノギスを当てる。肉厚の規定値二十二ミリに対し、実測二十一・三ミリ。もう一箇所、二十一・一ミリ。規格下限は二十一・〇ミリ。
「前回の点検はいつだ」
案内のガセミが資料をめくった。「二年前です」
「本来なら交換時期だ」
「分かっています」声が平坦だった。「でも部品がない」
ノギスの数値をメモ帳に書き写した。この数字は耐震評価レポートに入る。もう一方の報告書にも。
搬入ヤードでトレーラーを見た。ロシア語のステンシル。制御系の型番。先月と違う。
夕方、ホテルに戻った。耐震評価レポートを書いた。閉じた。暗号化ファイルを開いた。搬入ヤードの部品番号を記憶から書き起こした。
切り替えに要する時間は、もうほとんどなかった。
◇
三日目。改善提案書の提出。握手。「来月また来ます、モハンデス」。
スーツケースはもうなかった。
◇
六月十一日。テヘランに戻った。
乾燥した空気が鼻腔を刺す。三年間で、こちらが「帰ってきた」空気になっていた。
マンションに入った。冷蔵庫のドゥーグを飲んだ。
中身はもう悟の手を離れた。数日後か数週間後に、何かが起きる。
何を。どこで。誰を。
知らない。知らないことになっている。
携帯が震えた。ファルハドからのWhatsApp。
「二号機の杭の件、進展あった?」
「杭の偏心はやはり施工誤差だった。報告書に書く」
三分後。
「やっぱりな。南東側に荷重が集中してたら、パンチングシア破壊が起きる。俺の目は正しかっただろう?」
正しかった。ファルハドの目は正しい。
「木曜、行くよ」
返信は十秒で来た。
「よし! 空港まで迎えに行く。サーメドも連れていく」
携帯をテーブルに置いた。
感想や評価をいただけると励みになります。
気に入っていただけたらよろしくお願いします。




