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フォルドウ  作者: お寿司


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第二十一章 最後の種

午後の光が白い。気温三十五度。テヘランではない。


トルコ、ガズィアンテプ。私立病院。三週間が経っていた。


悟は病室のベッドに横になっていた。


右肺の機能は六割まで回復した。左肺は四割。フッ化水素による化学熱傷。完全な回復は見込めないと主治医は言った。悟はその数値を覚えた。六割と四割。平均五割。半分の肺で、この先を生きる。


右脇腹の跳弾破片は摘出された。傷は塞がりつつある。肺とは違う。治る傷だった。


窓から差し込む午後の光。六月のガズィアンテプ。暑い。乾いている。テヘランに似ている。


窓の外を見た。低い建物の屋根が連なっている。コンクリートの白。屋上に洗濯物が干してある。誰かの日常だった。遠くにミナレットのシルエット。その向こうに山の稜線が見えた。乾いた山。イランの山とは違う。違うが、似ている。


心電図のモニターが七十二を示していた。安静時心拍数。数えかけた。一分間に七十二回。一時間に四千三百二十回。一日に——


やめた。


数えなくてよかった。ここには締め切りも、脱出経路の距離計算も、巡回タイミングの逆算もない。初めて、数える理由がなかった。


しばらく天井の染みを見ていた。何にも似ていない形だった。


ドアが開いた。看護師が盆を持って入ってきた。トルコ語で何か言った。悟は半分だけ聞き取れた。チャーイ。細いグラスに琥珀色の液体。角砂糖が二つ、小皿に添えてある。


受け取った。右手がまだ震えるので左手で。グラスが温かかった。


一口飲んだ。甘くはない。角砂糖を入れていない。ファルハドの家のチャーイは角砂糖を三つ入れて——


グラスをサイドテーブルに置いた。テーブルの隅に黒い木製のチェスの駒。ナイト。角が丸い。


テレビが壁にかかっていた。小さな液晶。


三日前から、ニュースの内容が変わった。


昨日のBBCペルシャ語版が、情報機関の高官が「内部調査のため」解任されたと報じていた。名前は出なかった。画面の下を流れるティッカーに「フォルドウ施設のセキュリティ責任者」とだけあった。ラヒミ。悟はグラスに目を落とした。


暗号化アプリの最後のメッセージは、あの夜のままだった。


CNN、BBC、アルジャジーラ——すべてのチャンネルが同じ映像を流している。


若いイラン人女性。スカーフを外した短い黒髪。鋭い目。カメラの前に座り、英語で語っている。


レイラ。


ジュネーブ。国連人権理事会の臨時会合。


「イラン革命防衛隊の一部勢力が、核弾頭を搭載した船舶による攻撃を計画していました。標的は日本でした」


レイラの声は震えていなかった。あの夜、テヘランのアパートで「私はイランのためにやる」と言ったときと同じ声だった。証言台を握る指が、白かった。


証言は続いた。AEOI(イラン原子力庁)の物理学者としてデータを持ち出したこと。一人の日本人技術者が命を懸けたこと。


「彼の名前を申し上げることはできません。ただ——彼が最後に私に言った言葉を伝えます。『届けてくれ。日本に』」


レイラがカメラを見た。まっすぐに。


あの目だ。研究室でIRGC(革命防衛隊)の人員供出を聞いたとき、「私たちは科学者よ。軍人じゃない」と言ったときと同じ目。


三十三橋の夕暮れが浮かんだ。干上がったザーヤンデ川。隣を歩くレイラ。あのとき排水勾配を見ていた。本当に見ていた。だがレイラの目がこちらを向いた瞬間——忘れた。


ダニエルの声が遠くで聞こえた。——信じる人間のためにやるんだ。


信じる人間。


レイラだった。


エリの声は聞こえなかった。


保証人でも信者でもない。種を蒔いて、刈り取った。それだけだ。


悟はリモコンの音量を下げた。下げただけで消さなかった。レイラの唇が動いている。音は遠い。


角砂糖を一つ取った。チャーイに落とした。


一つだけ。


甘さが口の中に広がった。三つではない。


排水勾配。


あのとき出なかった答え。石の摩耗を考慮すると——


二・五度。


テヘランのバザールを歩いていた男はもういない。


モサドのエージェント「サトル」はもういない。


AEOIの耐震コンサルタント遠山悟がどこにいるか、誰も知らない。


病室にいるのは、肺の半分を失った男だ。国籍も所属もない。だが排水勾配の答えは出た。


テレビの中でレイラが話している。何を言っているかは分からない。分からなくてよかった。世界が聞いている。それだけで十分だった。


窓の外の光。午後三時。気温三十五度。テヘランのバザールと同じ光だった。


肺は五割。それでも、息はできた。


口の端が、わずかに上がった。


(了)

これにて完結です。


最後までお読みくださいましてありがとうございました!

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