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フォルドウ  作者: お寿司


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第二章 モハンデス

ファジュルのアザーンが壁越しに届いた。四時四十七分。夏のテヘランでは夜明けが早い。


悟は目を開けた。天井の染み。毎朝同じ染みを見る。排水管の継ぎ手から微量の漏水がある。入居時に管理人に伝えたが、インシャッラー、と言われてそのままだ。


ベッドから出た。シャワーを三分。水圧は1.2キロ。東京の半分以下だが、ネゲヴの現場宿舎に比べれば上等だった。


携帯を確認した。暗号化アプリ。新着なし。荷物の場所と日時は、まだ来ない。


腹の底が重い。これが「待つ」ということの重さだと、テヘランに来て三年で覚えた。


キッチンに立つ。昨夜買っておいたサンガクを半分に裂いた。石焼きの跡がついた全粒粉のパン。フェタチーズとクルミとハーブを挟む。二段式のポットで紅茶を淹れ、エステカンに注いだ。角砂糖を一つ、歯で噛む。砕ける感触。


朝食を食べ終えてSnappを開いた。七時十五分にピックアップ。白いサイパ・ティバが到着予定。


七時十二分に電話が鳴った。運転手が着いた。


マンションのエントランスを出ると、朝の空気が頬に触れた。テヘランの夏はもう始まっている。午前七時ですでに二十八度。湿度は一五パーセント。鼻腔の粘膜が乾く。東京の梅雨の真逆だ。


白いサイパ・ティバ。運転手は五十代の男で、バックミラーにコーランの小さな飾りをぶら下げていた。


「サラーム。ヴァナック広場まで」

「サラーム。日本人?」

「そうです」

「おしん! おしんの国だな!」


何百回目かのやりとりだった。悟は笑った。


ヴァリーアスル通りに入った。プラタナスの並木が朝日を濾す。北から南に走るにつれて、窓の外が変わる。カフェの看板が消え、モスクの尖塔が増え、歩道の女たちのスカーフが額まで下がっていく。


渋滞。バイクが車列の間を縫い、歩道に乗り上げ、逆走する。クラクションが途切れない。運転手がラジオをつけた。経済制裁の話。リアルの為替レート。舌打ちした。


「日本ではガソリンいくらだ?」


リッター百七十円ぐらいだ、と答えた。運転手は天を仰いだ。「こっちは五千トマン。安いだろう? でもな、着く先に仕事がないんだ」


四十分の距離を一時間二十分かけて、ヴァナック広場に着いた。「ハステ・ナバーシード」——お疲れ様。運転手が窓から手を振った。


 ◇


ヴァナック広場から徒歩五分。八階建てのオフィスビル。四階がペルシアン・アトラス・エンジニアリングのテヘラン支社。


四階のドアを開けると、チャーイの匂いがした。ブーシェフル原発の耐震コンサルティングを請け負う合弁オフィス。日本人は悟だけだ。


「サラーム、モハンデス(技術者)!」

受付のマリヤムが声をかけてきた。黒いルーサリーを後ろにずらして、髪の生え際を覗かせている。

「サラーム、マリヤム。ボスは?」

「ジャルセ(会議)。九時半に終わるって」


給湯室でチャーイを淹れながら、デスクの向こうを見た。モジタバのデスクのノートPCが変わっている。先月までHPだったのが、Lenovoになっている。


「HPから変えたのか」


モジタバが振り返らずに言った。「もう入ってこない」


デスクに着いた。ブーシェフル原発二号機の耐震評価レポート。締め切りが来週に迫っている。


画面にCADの断面図を開いた。原子炉建屋の基礎構造。杭基礎と直接基礎の複合型。ペルシャ湾岸の軟弱地盤に対する設計だが、水平震度の設定値に疑問がある。〇・二五Gで設計されているが、ブーシェフルから七十キロの断層帯を考慮すると〇・三G以上が妥当だ。


この五年間で二度、ブーシェフルは地震を経験している。二〇二三年のM5.1と二〇二四年のM4.7。構造への影響は軽微だったが、ロシア製の設計がイランの地震リスクを過小評価している可能性は否定できなかった。それが悟の仕事——ロシアの設計をイランの地盤条件で再検証する。


 ◇


午前十時。会議室のプロジェクターが青白い光を壁に投げていた。


AEOI(イラン原子力庁)とのオンライン技術定例。ブーシェフル二号機の配管設計レビュー。テヘラン側のオフィスには悟と、プロジェクトマネージャーのモハンマディが並んでいる。画面の向こうに、AEOIの技術チームが六人。顔の半分がカメラのフレームに欠けている者、マイクをミュートにしたまま話している者。テヘランの通信環境では珍しくない。


議題は二号機のRP——残留応力問題だった。主蒸気配管の溶接継手にUT検査で指示欠陥が出ている。悟が先週送った報告書の確認。


「モハンデス・トオヤマ、溶接部のUT検査データ、もう見た?」


画面の右下に新しい顔が現れた。丸い眼鏡。やや乱れた髪。背景にコンクリートの壁が見える。テヘランのオフィスとは違う環境だった。


「イスファハンからファルハド・アミニです。UCF(ウラン変換施設)の材料評価チームにいます。今日は横から失礼」

モハンマディが頷いた。「アミニ博士、どうぞ」


ファルハドの声は画面越しでも明瞭だった。マイクの状態がいい。通信環境を気にする男らしい。


「トオヤマさん、あの報告書のUT波形、第三ゾーンのエコー高さが気になってね。SN比が低い。反射源が溶接ルートに平行じゃないか?」

悟は手元のレポートをめくった。第三ゾーン。確かにエコーのパターンが他のゾーンと異なっている。指向角を変えて追加スキャンすべきだと悟も思っていた。

「同感だ。タンデム法で再検査を提案するつもりだった」

画面の中でファルハドの表情が変わった。眼鏡の奥の目が光る。

「タンデム法。そうだ、それだ。TOFD法も併用すれば欠陥の深さプロファイルが取れる。報告書にはTOFDのデータが入ってなかったから、気になっていたんだ」

「予算の制約で省いた。だが次回のブーシェフル出張で追加スキャンを取る予定がある」

「データが出たら共有してくれないか。材料評価のベースラインに使いたい」

「もちろん」


会議の本題に戻った。だがファルハドの発言は止まらなかった。配管材料のクリープ特性について質問し、モハンマディの設計変更提案に対して熱伝達係数の見積もりに疑問を呈し、結局二十分を使った。AEOIのチームリーダーが苦笑していた。


悟はメモを取りながら、画面の中の丸い眼鏡を見ていた。


技術の話になると声が半音上がる。質問が的確で、しかも嬉しそうだ。新しいデータを見つけた子供のように。核物理学者が配管の溶接欠陥に興味を持つ理由は、おそらく「回転体の応力分布」という共通の物理で繋がっているからだろう。遠心分離機のローターも、蒸気配管の溶接部も、応力が集中する場所で壊れる。


会議が終わった。参加者が一人ずつ退出していく。


ファルハドだけが残った。


「モハンデス・トオヤマ。一つ聞いていいか」

「何だ」

「タンデムUTのプローブ配置、四十五度にするか六十度にするか。君ならどっちを選ぶ?」

悟は三秒考えた。「板厚による。五十ミリ以上なら四十五度。それ以下なら六十度でビーム路程を短く取りたい」

ファルハドが画面の向こうで大きく頷いた。

「今度イスファハンに来る機会があったら、チャーイでも飲もう。この手の話ができる相手がこっちにはいなくてね」

「専門が違うだろう。核物理と配管設計じゃ」

「材料が壊れる話をしている点では同じだよ」


ファルハドは笑って回線を切った。


悟はプロジェクターの電源を落とした。


モハンマディがドアを開けながら言った。「アミニ博士は話が長い。だが頭はいい」

「ああ」


デスクに戻った。ファルハドの声がまだ耳に残っていた。悟はその声が嫌いではなかった。


 ◇


午後。東京本社からメールが来ていた。ブーシェフル出張の日程調整。六月九日から三日間。


カレンダーに入れた。出張のたびに、コンクリートの打設量を見る。鉄筋の配置。搬入される機材のメーカー名。目に入ったものを記憶し、夜にホテルで暗号化テキストに起こす。報告書を二本書く。同じ手で。


 ◇


夕方。退勤。ヴァナック広場からSnappを呼んだ。


マンションに戻ると、隣のベランダでファーティマ・ハーヌムが洗濯物を干していた。六十代の未亡人。毎夕、悟に声をかけてくる。


「モハンデス、今日も遅いね。食べたの?」

「これから食べます」

「ナスのホレシュトがあるよ。持っていきなさい」

「ハステ・ナバーシード。大丈夫ですよ」

「ターロフしないの! 持っていきなさい」


三回断った。四回目で受け取った。この国の作法を読めるようになるのに一年かかった。


温かいタッパーを持って部屋に入った。蓋を開けると、ドライライムの酸味が立ち上った。ゲイメ・バーデムジョーン。茄子のシチュー。この酸味に三年前は顔をしかめた。今は腹が鳴る。


冷蔵庫からドゥーグを出した。


テレビをつけた。IRIBのニュース。国営放送。核合意の再交渉について外務省報道官が声明を出している。「ウラン濃縮はイラン国民の権利であり——」。


チャンネルを変えた。トルコのドラマ。ペルシャ語吹き替え。


携帯が震えた。


暗号化アプリではなかった。会社の同僚からのWhatsApp。来週のブーシェフル出張の持ち物リスト。ヘルメット、安全靴、放射線量計。


ドゥーグを飲みながら窓の外を見た。アルボルズ山脈の稜線が夕陽でオレンジに染まっている。スモッグの日は消える山。今日は見えた。


 ◇


六月六日。金曜日。


テヘランの街が静まった。金曜のアザーンはいつもより長く、低い。窓を閉めていても染み込んでくる。


カーテンを閉めたまま、隙間から通りを見た。駐車場の車。昨日と同じ並び。見慣れない車はない。向かいの三階の老人がゴミ袋を出した。九時。いつも通りだ。


携帯を確認した。暗号化アプリに新着はなかった。


マー・アルシャイールを一本取り出して、ベランダに出た。


エリの接触を受けたのも金曜日だった。こちらでは見えない地中海。


缶を下ろした。通りが静かだった。


部屋に戻った。天井の染み。ガスケットの劣化だろう。放置すれば鉄筋の腐食に進む。


携帯が震えた。


暗号化アプリ。発信者「ブーシェフルオフィス」。


心臓が跳ねた。一拍。身体が先に反応した。


メッセージを開いた。


『月曜のスケジュール確認。午前10時、テヘラン中央郵便局前。赤い帽子の男がスーツケースを持っている。合言葉:「ブーシェフルの天気は?」「曇りです、モハンデス」』


悟は画面を見つめた。


デッドドロップではない。ライブドロップ。人と会う。物を受け取る。顔を覚えられる。


スクリーンショットは撮らなかった。撮るわけにはいかない。頭に入れた。月曜、十時、中央郵便局前、赤い帽子、スーツケース、合言葉。六つの要素を三回反芻した。


メッセージを削除した。画面が暗くなった。天井の染みが戻ってきた。


立ち上がった。冷蔵庫を開けた。ドゥーグの瓶を取り出した。蓋を開ける前に、玄関のチェーンを確認した。体が勝手に動いている。


ベランダに出た。スモッグの日だった。


六月六日。金曜日。あと三日。

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