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フォルドウ  作者: お寿司


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第一章 バザール

本日から投稿開始します。

この作品は現在の情勢より前に書き上げたものです。

ニュースで名前を見る国の中に、日常があり、友人がいて、食卓がある。

そういう物語を書きたくて書きました。


毎日三話ペースで3/10に完結予定です。

午後三時。気温三十七度。テヘラン、グランドバザールの雑踏に遠山悟は立っていた。


頭上のレンガのアーチ天井が日光を遮り、通路は薄暗い。だが空気は灼けている。乾燥した熱気がスパイスの匂いを運ぶ。サフランの土臭い甘さ。クミン。どこかの店が干し薔薇を焚いている。匂いの地層が通路ごとに変わる。


悟はジャケットの内ポケットに触れた。


マイクロSDカード。爪の先ほどの面積に、三ヶ月分の成果が詰まっている。テヘラン北部から南部まで——ラヴィザン、パルチン、カーイェ防空基地を含む十七箇所のレーダー配置データ。機種、有効探知距離、死角。ブーシェフル出張の合間に確認した。一箇所ずつ。三ヶ月かけて。


これが最後のパーツだった。これを渡せば防空網の全体像が完成する。イスラエルが何に使うかは分かっている。


分かっていて、渡す。


歩調を変えず進んだ。バザールの通路は幅三メートル。両側にぎっしり並ぶ店舗——のはずだが、銅細工の並びに鉄製シャッターが三つ続いていた。真ん中の店は去年まで金糸の刺繍を売っていた。その隣のレース屋も消えた。シャッターにスプレーで電話番号が書いてある。テナント募集。番号の一部がかすれて読めない。誰も上書きしない。


カーペット店の前で立ち止まる老人、荷車を押す商人、チャドルの女性たち。悟はスパイス屋の店先でクミンの袋を手に取り、匂いを嗅ぐふりをした。二秒。周辺視野で通路の両方向を確認する。


右斜め前——灰色のウインドブレーカーの男。顎に三日分の無精髭。さっきの交差路にもいた。


視線は向けなかった。歩きながら周辺視野だけで男を捉える。男はカーペット店のショーウインドウの前で足を止めている。自然な仕草。だが三十代半ばの男が金曜の午後にバザールで一人カーペットを眺めているなら、買い物袋か連れの女がいるはずだ。


どちらもない。


エリに叩き込まれた手順が体を動かし始めた。バザールはうってつけだった。入口が十一、通路は迷路。一本道で尾行されることがない。


銅細工の通路を右に折れた。二十メートル先の分岐をさらに左。タオル屋の前を通過する。足元の石畳が微妙に傾いている。排水勾配。こういう細部を体が覚えていた。テヘランに来て三年。このバザールは自分の庭になっている。


分岐の手前に両替商の窓口があった。ガラスの内側に手書きのレート表。ドル、ユーロ、UAE ディルハム。数字がマジックで何度も書き直されている。昨日の数字が二本線で消され、今日の数字がその上に載っている。一ドル=六十二万トマン。先月は五十八万だった。先月の前は五十三万だった。消された数字の層が、紙の上で地層になっている。


「兄弟、替えるか?」

両替商が声をかけてきた。手元でトマン札を扇のように広げている。

「今日のレートは良心的だよ。明日はもっと上がる。毎日そう言ってるがね」


悟は手を振って通り過ぎた。


左に折れた先の出口から外に出る。陽光が目を刺した。


通りに出ると空気が変わる。車の排気ガスと埃。現場の匂いだ。嫌いではない。プジョー405のタクシーが列を成し、その間をバイクが縫う。テヘランでは信号は参考値に過ぎない。


タクシーを拾った。「ヴァリーアスル通り、メトロ駅前まで」。ペルシャ語で告げる。運転手が頷いた。


二ブロック走ったところで降りた。


アーケード商店街に入る。金曜は半数の店が休業で、人通りが薄い。振り返る。アーケードの入口に灰色のウインドブレーカーはいない。


角のキオスクでミネラルウォーターを買い、蓋を開けながら三十秒。通りを行く車。歩行者。さっきの顔はない。エリなら「許容可能なリスク」と呼ぶ水準。


別のタクシーを拾い、グランドバザールの北口に戻った。


今度は迷わない。銅細工の通路を抜け、絨毯の通路に入り、その先の小さな路地。アフシャリ・スパイス店。店頭に積まれたサフランの箱とドライライムの山。店主のアフシャリ翁は常連客と茶を飲んでいる。悟に一瞥をくれ、また客との話に戻った。


奥に入った。棚に並ぶガラス瓶——ターメリック、カルダモン、シナモン。三段目の棚板の裏側。指先がマグネットを探る。


ポケットからSDカードを出し、マグネットに貼り付ける。


三秒。


手を引いた。棚の手前のターメリックの瓶を手に取り、レジに持っていく。


モハンデス(技術者)、いつもありがとう」

店主が言った。モハンデス。ペルシャ語で技術者。三年分の買い物でついた呼び名だ。

「ヘイリー・マムヌーン」


ありがとう。通りに出た。午後の日差しが肌を焼く。バザールの薄暗がりに慣れた目には、テヘランの空がどこまでも白く、逃げ場のない広さに見えた。ジャケットの内ポケットはもう空だった。


三年前——最初のデッドドロップの後、ホテルに戻って吐いた。手が震えて、蛇口を閉められなかった。


今は夕食のことを考えている。ジョルダーン地区のケバブ屋のクビデが食べたい。


大きな手が、暗闇の中から伸びてきたのは——六年前のことだ。


 ◇


ネゲヴ砂漠。二〇一九年三月。


崩落は前触れなく来た。


海水淡水化プラントの取水トンネル。地下十五メートル。岩盤をくり抜いた直径四メートルのトンネルの中で、悟は支保工の点検をしていた。


最初に聞こえたのは、金属のきしむ音だった。H鋼の支保工が軋む。次に天井のコンクリートに亀裂が走る。音より先に、細かい砂が顔に降ってきた。


「逃げろ!」


ヘブライ語。声の方向に走ろうとしたとき、天井が落ちた。


記憶はそこで途切れる。


目を覚ましたのは、砂と瓦礫の中だった。左半身が岩に挟まれて動けない。右腕だけが自由だった。ヘルメットのライトは砕けていて、完全な闇。呼吸するたびに砂埃が肺に入る。


砂の粒が粗かった。ネゲヴの砂は細かくない。砕けた砂岩の角が首筋に食い込んでいる。汗が滲むと、その角が刃物になった。動くたびに肌を引っ掻く。動かなければ砂が体温で温まり、皮膚に貼りつく。どちらにしても肌が痛い。


岩は冷たかった。地下十五メートル。地上は三十度を超えているはずだが、岩盤の温度は十八度前後で一定だ。左半身を押さえつけている岩の冷たさが、時間と共に体温を奪っていく。右腕だけが温かい。自由な右腕だけに血が巡っている。その温度差が、自分の体が二つに分かれていく感覚を生んだ。


声を出した。返事はなかった。


時間の感覚がなくなった。最初の一時間は数えていた。呼吸の回数を。一分間に十六回。百六十回で十分。九百六十回で一時間。千を過ぎたあたりで、数字が頭の中で崩れた。数えているのか、同じ数字を繰り返しているのか、分からなくなった。暗闇の中で目を開けても閉じても何も変わらない。まぶたの裏の暗さと、岩盤の暗さの区別がつかない。


実家の父に連絡が届くまでの手順を考えていた。会社の海外駐在者保険の死亡保障額。埼玉の一軒家のローン残高。父は保険でローンを返せるだろうか。


瓦礫の向こうから削岩機の振動が伝わってきたとき、声を出す力は残っていなかった。振動が岩を通して左の肋骨に伝わる。痛みで意識が浮上した。それが救助の振動だと理解するのに、数十秒かかった。


七時間後、光が来た。ヘッドランプの白い光が瓦礫の隙間を割り、手が伸びてきた。大きな手だった。


「掴め」


ヘブライ語。低い声。


その手を掴んだ瞬間、意識が落ちた。


 ◇


ネゲヴの病院で目を覚ました。肋骨三本骨折、左肩脱臼、全身打撲。命に別状はないが、現場復帰まで二ヶ月と医師は言った。工期に間に合うか計算した。


翌日、病室に男が来た。


大柄。五十代前半。日に灼けた顔に深い皺。白髪混じりの短い髪。労働者の手——厚い掌、節くれだった指。悟を瓦礫から引き出した手だった。


ダニエル・レヴィン。プラント建設の現場主任。


「うちに来い」


前置きはなかった。会社の宿舎に一人で戻るより、回復するまでレヴィン家にいろ。ダニエルはそう言って、返事を待たずに病室を出た。


断る理由がなかった。断る力もなかった。


ネゲヴの小さな町、ミツペ・ラモン。砂漠の縁にあるレヴィン家。妻のリヴカが部屋を用意してくれていた。息子たちが「サトル」と呼ぶようになるまで三日かからなかった。


二ヶ月が三ヶ月になり、半年になった。肋骨は治ったが、悟はレヴィン家を離れなかった。


ダニエルと朝五時に現場に出て、リヴカのシャクシューカを食べ、庭で子供たちのサッカーの相手をした。金曜の夜はシャバットの食卓を囲んだ。祈りの間、悟は目を閉じていた。ユダヤ教徒ではなかったが。


悟の父は埼玉の建設作業員だった。母は高校二年の冬に死んだ。レヴィン家の食卓は、知らない匂いがした。リヴカの煮込み料理と、金曜の蝋燭と、誰かが自分の帰りを待っている家の匂い。


ある夜、ダニエルと二人でラモンクレーターの縁に座っていた。砂漠の夜空。星が低い。空気が乾いていて、光が瞬かなかった。クレーターの底から吹き上がる風が、砂の匂いを運んでくる。


「なぜ助けてくれたんですか」


三ヶ月黙っていた問いを、ようやく口にした。


ダニエルはマッチを擦って煙草に火を点けた。炎が一瞬、深い皺を照らす。


「国のためにやるんじゃない」


煙を吐いた。星明かりに白い線が引かれて、消えた。


「信じる人間のためにやるんだ」


ダニエルはそれ以上何も言わなかった。悟も聞かなかった。


あの言葉がなければ——悟は何度そう考えたか分からない。


三年後、ダニエルの紹介で男が来た。ベエルシェバのカフェ。


エリ。痩せた男だった。五十代。銀縁の眼鏡。シャツの袖を几帳面に二回折っている。乾いた細い指でカップを持っていた。


面談は三十分で終わった。最後にエリはカップをソーサーに置いた。


「כל ישראל ערבים זה בזה——我々は互いの保証人だ。ダニエルがお前を保証した。お前はもう輪の中にいる」


断れなかった。


 ◇


テヘラン。二〇二五年五月三十日。


ベランダのドゥーグはぬるくなっていた。


アザーンが止み、テヘランの夜が始まる。渋滞のクラクション。どこかの家庭のテレビ。隣のベランダで女が洗濯物を取り込んでいる。


ジョルダーン地区のマンション七階。会社が用意した二LDK。ベランダからアルボルズ山脈の稜線が見える。山は灰褐色に乾いていた。


駐車場に白いサイパ・プライドが一台。見覚えがない。三分後、女が子供を連れて乗り込んだ。住人だ。


照明が一瞬、落ちた。ベランダの手すりが暗闇に沈む。二秒。三秒。復旧した。向かいの棟でも同じタイミングで灯りが消え、戻った。階下から声が上がった。誰も驚いていない。慣れた声だ。今週三回目。


シャワーを浴びて戻ると、テーブルの上の携帯が震えていた。


暗号化アプリ。発信者は「ブーシェフルオフィス」。エリの偽装名だった。


メッセージは短い。


『荷物の受取りがある。場所と日時は追って。』


これまではデータをSDカードに焼いて、バザールの棚板に貼る。それだけだった。


荷物を受け取るのは違う。線を越える。バレたときの罪状が変わる。イランの法律では死刑。エヴィン刑務所、二〇九号棟。


返信を打った。


『了解。場所を待つ。』


親指が送信ボタンの上で一瞬止まった。


送信した。


玄関のチェーンを確認した。


携帯をテーブルに伏せた。冷蔵庫からドゥーグを出す。三年前は飲めなかった。瓶から直に飲んだ。


明日は七時半にSnappを呼んでオフィスに出る。耐震評価レポートの締め切りが近い。


そしてどこかの時点で、ドローン部品を受け取る。


リビングの照明を消した。寝室に入る。ベッドに横たわり、天井を見つめた。


砂漠の星空が浮かぶ。マッチの炎。煙草の匂い。


——信じる人間のためにやるんだ。


ダニエル、あんたは俺を信じたのか。俺はあんたのために何をしているのか。


父の声が割り込んだ。——借りを作るな。


寝返りを打つ。壁のカレンダーが街灯に白い。五月三十日。あと二週間。

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