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異世界恋愛「ざまぁ」短編集 ~不遇令嬢と、彼女を見抜く最強の理解者~

追放された「無能聖女」と蔑まれますが、私との「聖女契約」を破棄した帝国が滅びかけています。~「戻ってこい」と今更言われても、私を溺愛する護衛騎士(正体は古代竜)と辺境でスローライフを始めます~

大聖堂の広場は、人で埋め尽くされていた。


澄み渡るような青空だというのに、空気は異様な熱気に満ちている。


「「リリアナ様!」」


「「我らが聖女様だ!」」


「「今度こそ、本物の奇跡だ!」」


民衆の熱狂的な歓声が、石畳を震わせる。


その視線の先。 高く設えられた壇上の中央には、誇らしげに胸を張る皇太子アルフォンス殿下の姿があった。


その腕に寄り添うのは、小柄な少女リリアナ。


『異世界からの聖女』 そう呼ばれる彼女は、庇護欲をそそるようにアルフォンス殿下を見上げ、民衆の歓声に可憐な笑みで応えている。


先ほども、彼女は『奇跡』を見せた。


「ご覧ください! これが真実の聖女の力です!」


皇太子が用意した車椅子の老婆に、リリアナが手をかざす。


「光よ! 癒しを与えたまえ!」


眩い光が溢れ、老婆はおぼつかない足取りながらも、ゆっくりと立ち上がった。


「「おおおぉぉ……!」」


地鳴りのような感嘆の声。


((……あの方、昨日は王宮の庭を元気に散歩されていましたね))


私は内心でため息をつく。 あれは初歩的な魔力操作による身体強化と、高揚感による一時的なものだ。 回復薬の効果を無理やり引き上げているに過ぎない。


((本質的な治癒ではない。ましてや国土の安定など……))


だが、目に見える『派手な奇跡』は、民衆を熱狂させるには十分だった。


アルフォンス殿下は、満足げに頷き、そのリリアナを強く抱きしめる。


「これぞ真実の愛! 真実の聖女だ!」


((真実))


その言葉の軽さに、吐き気がした。


そして、壇上の隅。 民衆の視界の端。


私、エルヴィラ・フォン・ハイゼンベルクは、ただ静かに立っていた。


公爵令嬢であり、アルフォンス殿下の『本来の』婚約者。 そして、『本来の』聖女。


背後には、いつも通り護衛騎士のカイが影のように控えている。 彼は何も言わない。 ただ、そこにいる。


「「偽者の聖女め!」」


「「エルヴィラ様こそが悪役令嬢だ!」」


「「リリアナ様をいじめるな!」」

熱狂した民衆の一部が、私に気づき、罵声を浴びせ始めた。 もはや聞き慣れた言葉だ。


私が『氷の令嬢』『義務ばかり口にする冷たい女』と呼ばれていることは知っている。


((それで構わない))


私の義務は、民衆に笑顔を振りまくことではない。


私の力は、地味だ。


『国土全体の魔力バランスを安定させ、結界を維持する』


それは、帝国という巨大な船の、喫水線の下に空いた無数の穴を、たった一人で塞ぎ続けるようなもの。


誰にも見えない。 誰にも感謝されない。


王宮の最奥にある『安定の間』。 そこに一人籠もり、広大な帝国全土に魔力を巡らせ、結界を維持し続ける。 それが私の日常であり、聖女としての『契約』だった。


((疲れた))


それが、偽らざる本心だった。 王太子妃教育と並行して行われる、魂を削るような地味な義務。


「エルヴィラ様。少しお顔色が」


カイが何度かそう進言してくれた。


「義務です、カイ」


私はいつもそう答えるだけ。 彼がそのたびに、痛みを堪えるように目を伏せることにも、気づかないふりをした。


すべては、帝国との『契約』のため。 ハイゼンベルク公爵家が、聖女を輩出する家系として帝国に力を提供する見返りに、王家がその地位と国益を保証するという、建国以来の契約だ。


その契約が、今日、終わる。


この茶番が仕組まれた時から、わかっていた。 リリアナが召喚され、皇太子が彼女に心酔し始めた時から。 そして、私を「偽聖女」として断罪する、この公開処刑の場が設けられた時から。


すべては、皇太子の『感情』と、民衆の『熱狂』によって進められている。


「静粛に!」


アルフォンス殿下の声が、魔力で増幅されて広場に響き渡った。 あれほど熱狂していた民衆が、水を打ったように静まる。


彼は、私を――エルヴィラを、真っ直ぐに指さした。


その目は、積年の軽蔑と、そして今、面倒事から解放されるという喜びに満ちていた。


「エルヴィラ・フォン・ハイゼンベルク!」


高らかに、私の名が呼ばれる。


「お前は聖女の座を偽り、心優しきリリアナを陰で虐げてきた!」


((虐げた? 一度しか会ったこともありませんが))


「その冷酷さ! 嫉妬深さ! まさに悪役令嬢そのものだ!」


「私は、お前のような女ではなく、このリリアナこそが私の、いや、帝国の真の聖女であり、妃にふさわしいと判断した!」


((……判断、ですか))


皇太子は、リリアナを民衆に見せつけるように抱き寄せ、高らかに宣言する。


「私は真実の愛に目覚めた!」


「よって今この時をもって、エルヴィラ! お前との婚約を破棄し、聖女の地位から追放する!」


瞬間。


「「「うおおおおお!」」」


割れんばかりの歓声。 拍手。 口笛。


『追放だ!』 『当然だ!』 『悪役令嬢を追い出せ!』


民衆は、感情的な物語ドラマに酔いしれていた。 リリアナは、皇太子の腕の中で、怯えたように、しかしその口元は確かに笑みを刻んでいた。


((……終わった))


私は、浴びせられる罵声と熱狂の嵐の中で、静かに目を閉じた。


感情はない。 怒りも、悲しみも。


ただ、長年、私の両肩に重くのしかかっていた『義務』という名の枷が、音を立てて外れた。 そんな静かな安堵だけがあった。


私はゆっくりと目を開き、皇太子殿下を真っ直ぐに見据える。


((アルフォンス殿下))


((あなたは、今、ご自身で帝国の命綱を切ったのです))


((私があなたと結んでいたのは、単なる婚約ではありません))


((この帝国そのものと、ハイゼンベルク公爵家が結んだ、建国以来の『聖女契約』))


((それを、あなたは『感情』と『真実の愛』という曖昧なものさしで、一方的に破棄した))


私は、懐から一通の古びた羊皮紙を取り出した。 それは、この茶番が始まる前から、カイに用意させていたものだ。


私の行動に、アルフォンス殿下が怪訝な顔をする。


「なんだ、エルヴィラ。往生際が悪いぞ」


「今更、泣きついても無駄だ!」


私は、その言葉を無視し、ただ静かに一礼した。


「皇太子殿下」


「並びに、帝国の皆様」


「ただいまの皇太子殿下からの『聖女の地位からの追放』宣言」


「および、『婚約破棄』宣言」


「確かに、拝聴いたしました」


私の冷静な声は、熱狂の中ではかき消されそうだった。 だが、それでいい。 この後の結果が、すべてを証明する。


アルフォンス殿下は、私が取り出した羊皮紙を侮蔑の目で見下ろした。


「なんだ、エルヴィラ」


「そんな古ぼけた紙切れを見せて、今更何を企んでいる!」


「殿下。これは『婚約誓約書』ではありません」


私は淡々と事実を告げる。


「これは、帝国建国時に、王家と我がハイゼンベルク公爵家が交わした――」


「『聖女契約』の原本です」


「せいじょけいやく……?」


アルフォンス殿下が、馬鹿にしたように鼻を鳴らす。


「そんなもの、リリアナが来た今、無意味だ!」


「ええ。ですから、無意味にしていただきましょう」


私は、懐から万年筆を取り出した。


「契約内容は単純です」


「我が家は『国土安定化』の力を持つ聖女を帝国に提供する」


「その見返りとして、王家は聖女(私)の地位と、皇太子妃としての立場を保証する」


私は、アルフォンス殿下と、その腕の中のリリアナを真っ直ぐに見据えた。


「殿下は先ほど、こう宣言されました」


「私を『聖女ではない』と断じ、追放し、婚約を破棄する、と」


「これは、帝国側からの一方的な契約不履行に他なりません」


リリアナが「何を言ってるの? 難しくてわかんなーい」と首を傾げている。 民衆も、何が起きているのか分からず、ざわめいている。


((理解できないのでしょうね))


((感情的な『奇跡』と『愛』以外、何も見えないあなた方には))


「よって、帝国が私を『聖女ではない』と断じ、契約を破棄された以上」


「私が帝国に力を提供する義務も、本日をもって消滅いたします」


私は、壇上で膝をつき、硬い石畳の上に羊皮紙を広げた。 そして、契約書の末尾。 ハイゼンベルク公爵家の署名欄の隣に――インクを走らせる。


『契約終了』


そう、署名した、瞬間だった。


ゴゴゴゴゴゴ……!


地響き。


大聖堂の広場が、根底から揺さぶられるような、重い振動。


「「「きゃあああああ!」」」


民衆がパニックに陥る。


「な、なんだ!? 地震か!?」


アルフォンス殿下がふらつく足で壇上にしがみつく。


だが、本当の恐怖は、空から来た。


「空が……」


誰かが呟いた。


見上げると、あれほど澄み渡っていた青空が、急速に濁った紫色に淀んでいく。


空気が重い。 息が詰まる。


((ああ……))


((魔素マナが、荒れ狂っている))


今まで、私が必死に抑え込み、安定させていた国土全体の魔力バランス。 そのタガが、今、外れたのだ。


「「「グオオオオオオオオオオ!!!」」」


遠く。 帝都を囲む山々から、無数の魔物の咆哮が響き渡った。

今まで結界によって押し留められていた、高濃度の魔素に引き寄せられた魔物たちだ。


「ひっ……!」


「ま、魔物が……!」


「ば、馬鹿な! 帝都には『守護結界』があるはずだ!」


壇上にいた宰相が叫ぶ。


その言葉に答えるように、帝都の上空を覆っていた『それ』が、ガラスのように砕け散った。


パリン、と。


あまりにも、あっけない音だった。


((帝都の守護結界も))


((私の『国土安定化』の魔力を基盤ソースにしていたのですから))


((基盤が消えれば、維持できるはずもありません))


「な……なにが……」


アルフォンス殿下は、目の前の現実が理解できず、呆然と立ち尽くす。 その腕の中で、リリアナが震えていた。


「だ、大丈夫ですわ、アルフォンス様!」


「私が! 私がなんとかします!」


彼女は前に出て、両手を天に掲げる。


「光よ! 聖なる力よ! この地を守りたまえ!」


ぽん、と。


彼女の手のひらに、豆電球ほどの、頼りない光が灯った。


それだけ。


濁った空も、荒れ狂う魔素も、遠くの咆哮も、何も変わらない。


「え……?」


「う、嘘……なんで……?」


彼女の「奇跡(偽)」は、安定を失った魔素の嵐の前では、あまりに無力だった。


「リリアナ! 何をぼーっとしている!」


「早く結界を張り直せ! お前が真の聖女なのだろう!」


アルフォンス殿下が叫ぶ。


「む、無理です! こんなの……こんなの聞いてません!」


リリアナが泣き叫ぶ。


((彼女の力は、所詮、初歩的な魔力操作))


((帝国全土の魔力バランスを維持するなど、天地がひっくり返っても不可能))


ここでようやく、壇上にいた帝国首脳陣――宰相や、騎士団長、魔導師団長が、血の気の引いた顔で私を見た。


「ま……さか……」


宰相が、震える声で呟く。


「エルヴィラ様の……あの、地味な……『安定化』の儀式こそが……」


「帝国全土の結界の、基盤だったと、いうのか……?」


「「「……っ!」」」


全員が息を呑む。


彼らは、ここで初めて、自分たちが何を失ったのかを理解した。


派手な『治癒の奇跡』ではなく。


誰も見向きもしなかった、地味で、退屈で、目に見えない『義務』こそが。


この帝国の、命綱であったことを。


「あ……あ……」


アルフォンス殿下の顔から、急速に血の気が引いていく。 彼は、崩れ落ちそうな足で、私に手を伸ばそうとした。


「え、エルヴィラ……! ま、待て! 今の言葉は取り消す!」


「そうだ! 追放も婚約破棄も、すべて冗談だ!」


「だから……! 早く! 早く元に戻せ!」


見苦しい叫び。


私は、その狂乱を、ただ静かに見つめていた。 ゆっくりと立ち上がり、署名した羊皮紙を懐に戻す。


((……ああ))


長年、私の魂を縛り付けていた重い枷が、完全に外れた。


((やっと、自由になれた))


肌を撫でる、荒れ狂う魔素の風が、むしろ心地よかった。


私の背後。 ずっと影のように控えていた護衛騎士カイが、一歩、私の隣に進み出た。

彼の表情は、相変わらず無表情。 だが、その瞳の奥に、確かな歓喜の色が灯っているのを、私は見逃さなかった。


「え、エルヴィラ……!ま、待て! 今の言葉は取り消す!」


「そうだ! 追放も婚約破棄も、すべて冗談だ!」


「だから……! 早く! 早く元に戻せ!」


アルフォンス殿下の見苦しい叫びが、パニックに満ちた広場に響く。


彼は、事態の深刻さをようやく理解し、血走った目で私に手を伸ばそうとした。


((冗談、ですって……?))


((この帝国全土の崩壊を前にして、まだそんなことが言えるとは))


私がその身勝手さにあきれていると、その伸ばされた手は、黒い手袋に阻まれた。


私の護衛騎士、カイだ。 彼はいつの間にか、私と皇太子の間に立っていた。


「――お下がりください、殿下」


低く、温度のない声。


「なっ……! き、貴様! たかが護衛騎士の分際で!」


「私を誰だと思っている!」


アルフォンス殿下が、顔を真っ赤にして怒鳴る。


「『契約不履行』を行った方、です」


カイの声には、何の敬意も残っていなかった。


「……!」


「一方的に契約を破棄し、エルヴィラ様の義務を免除されたのは、あなたご自身」


「今、この帝国あなたに、エルヴィラ様を引き留める権利は、一切存在しない」


「き、貴様ぁぁぁ! この無礼者め!」


「衛兵! 衛兵! 何をぼーっとしている!」


「その男を取り押さえろ! 私への反逆罪で処刑だ!」


皇太子がヒステリックに叫ぶ。


だが、衛兵たちは動けない。 濁った空と、荒れ狂う魔素の気配、遠くから迫る魔物の咆哮に、誰もが立ち尽くしている。


「……処刑、ですか」


カイは、小さくため息をついたように見えた。


「それが、あなたの望みならば」


「カイ?」


私は、彼の横顔に違和感を覚えて声をかけた。 いつも冷静沈着な彼が、今、ほんのわずかに、口の端を吊り上げている。


((笑って……?))


「エルヴィラ様」


彼は、私だけに向き直った。 その瞳の奥に、今まで見たこともないような、深い歓喜と――そして、熱に浮かされたような『執着』の色が揺らめいていた。


「長かったですね」


「え……?」


「いいえ。ようやく、この時が参りました」


「カイ、あなた、何を……」


ゴウッ!!


カイの体から、凄まじい魔力が、黒い風となって吹き荒れた。


「「「うわあああぁぁぁ!」」」


「ひっ……!」


壇上にいたアルフォンス殿下もリリアナも、その場で尻餅をつく。


カイの体が、人ならざるものへと変貌していく。


黒い革鎧が、硬質な『鱗』となり。 背中が裂け、巨大な『翼』が天を突く。 その体躯は瞬く間に膨れ上がり、大聖堂の壇上を粉々にするほどに巨大化していく。


((嘘……))


((そんな……))


人の姿を保っていたのは、もはや顔の輪郭だけ。 その瞳は、黄金に輝く、爬虫類のそれだった。


「りゅ……」


「りゅう……」


「『古代竜エンシェントドラゴン』だ!!」


騎士団長が、絶望の声を張り上げた。


カイ。 私の無口な護衛騎士の正体。


それは、神話の時代にのみ存在するとされた、最強の種族。


「「「グオオオオオオオオオオオオッ!!!」」」


カイ――いや、黒き竜が、天に向かって咆哮する。 その一吼えだけで、帝都に流れ込んでいた魔素の嵐が、一瞬、恐怖で凍りついた。


((あ……ああ……))


((そうだった))


私の脳裏に、遠い日の記憶が蘇る。


幼い頃、森で迷った日。 魔力の暴走で苦しむ、一頭の美しい竜に出会ったこと。


((怖かった。でも、可哀想で……))


((だから、私の力(安定化)で、そっと包み込んだ……))


あの時の、竜。


「……カイ」


私がその名を呼ぶと、巨大な竜のこうべが、そっと私に寄り添うように下げられた。


「お待たせいたしました、我が主」


その声は、重く、荘厳な響きを帯びて、私の脳に直接届く。


「……主?」


「そうだ。あの日、貴女がこの私を『安定』させた時から」


「このカイの命も、魂も、全ては貴女だけのもの」


黄金の瞳が、私だけを映している。


「貴女こそが、我が『つがい』」


「……番……!」


「この忌まわしい『契約』が、貴女を帝国に縛り付けている間、私はただ耐えてきました」


「貴女が魂を削り、疲弊していくのを、ただ見ていることしかできなかった」


((カイ……あなた、ずっと……))


「だが、それも今日で終わりだ」


黒き竜は、私以外の人間――アルフォンスたちを、まるで虫けらでも見るように見下ろした。


「この愚かな人間どもが、自ら契約を破棄してくれた」


「貴女は、もう自由だ」


「な……」


「何を……言っているんだ……」


アルフォンス殿下は、腰が抜けて立てないまま、震える声で呟いた。


「エルヴィラが……古代竜の……番?」


「そん……な……」


彼が、全てを失ったことを、悟った顔。


「エルヴィラ」


彼は、みっともなく這いずりながら、私に手を伸ばそうとする。


「待ってくれ! 私が悪かった! 私が愚かだった!」


「だから行かないでくれ! お前がいなければ、帝国は……!」


「「帝国は、滅びる!!」」


その手を、カイの巨大な翼の先端が、容赦無く薙ぎ払った。


「触れるな、下等種」


「貴様ごときが、我が主に許しを乞うなど、万年早い」


「ひぃぃぃ……!」


アルフォンス殿下は、恐怖のあまり失禁していた。


「さあ、行きましょう。エルヴィラ様」


カイの黄金の瞳が、再び私を優しく見つめる。


「貴女を縛るものは、もう何もない」


「私の領地(聖域)で、ただ幸福に生きてくださればいい」


カイは、その巨大な前足の爪を器用に使い、私をそっと掬い上げる。 その動作は、まるで壊れ物を扱うかのように、優しかった。


((あたたかい……))


今まで『氷の令嬢』として、誰にも触れさせず、誰の温もりも知らなかった。


カイの、竜の鱗は、信じられないほど温かかった。


((私、ずっと一人だと思ってた))


((でも、この人は、ずっとそばにいてくれたんだ))


((私を、『義務』から解放するためだけに))


「……ありがとう、カイ」


私は、初めて心の底からの安堵と共に、その鱗に身を預けた。


「……ありがとう、カイ」


私は、初めて心の底からの安堵と共に、その鱗に身を預けた。


カイの巨大な竜の背は、どんな玉座よりも安心できる場所だった。


「さあ、参りましょう。我が聖域へ」


カイの声が、優しく脳内に響く。


「「「グオオオオオオオオオオッ!!!」」」

再びの咆哮。 それは、帝都を威圧するためではなく、空に道を開けるためのものだった。


バサッ!!


巨大な黒い翼が、荒れ狂う魔素の風を掴む。


「「「あ……!」」」


「「「行くなあああああ!」」」


「「「聖女様ぁぁぁぁぁ!」」」


今更。 もう遅い。


広場に残された民衆が、今度は私に向かって、必死に手を伸ばしている。


『偽聖女』 『悪役令嬢』


そう、罵っていた口で。


「エルヴィラァァァァァ!」


壇上で這いつくばったまま、アルフォンス殿下が絶叫している。


「戻ってこい! 命令だ! お前は私のものだろうが!」


((もう、あなたのものではありません))


((『契約』は、終わったのですから))


私は、もう振り返らなかった。


カイの翼が力強くしなり、私たちは、濁った紫色の空へと急上昇する。


眼下に見える帝都。 それは、私が人生を捧げて守ってきた場所。


その城壁に、黒い津波のように、無数の魔物の群れが迫っているのが見えた。


騎士団が必死に応戦しているようだが、守護結界を失った城壁は、あまりにも無力だ。


あちこちで火の手が上がる。 人々の悲鳴が、風に乗ってここまで聞こえてくる。


((これが、あなた方が選んだ『真実』の代償))


私は、静かに目を閉じた。


「エルヴィラ様。もう、ご覧になる必要はありません」


カイの優しい声が、風の音と共に私を包み込む。


「これからは、美しいものだけを見てお過ごしください」


私たちは、崩壊の始まった帝国を覆う、重い雲を突き抜けた。


どこまでも青い空が、私たちを待っていた。


もう、私の魂を縛るものは、何もない。



***



エルヴィラが帝国を去ってから、数ヶ月。


かの帝国は、崩壊の一途を辿った。


結界の基盤ソースを失った国土は、荒れ狂う魔素によって汚染され尽くした。 大地は痩せ細り、作物は枯れ果て、魔物だけが繁殖する死の大地へと変貌したのだ。


帝都は、最初の魔物の大侵攻で半壊。 国民の多くは、近隣諸国へ難民として逃げ惑った。

そして、あの大聖堂の広場で、愚かな選択をした者たちは。


「離せ! 私は皇太子だぞ!」


「私が悪かった! だから助けてくれ!」


アルフォンスは、もはや皇太子の威厳など微塵もなく、飢えた民衆に引きずられていた。


「「「お前のせいだ!」」」


「「「お前が、本物の聖女様を追放したからだ!」」」


「「「リリアナとかいう偽物を連れてきたからだ!」」」


「ち、違う! 私は騙されたんだ!」


アルフォンスは、隣で同じように捕らえられているリリアナを指さした。


「全部こいつが悪いんだ! こいつが『真実の聖女』だと言ったから!」


「ひどい! アルフォンス様の嘘つき!」


リリアナも、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして叫び返す。


「私は悪くない! こんなはずじゃなかった! 私はチヤホヤされるためだけに来たのに!」


そのみっともない言い争いは、もはや誰の耳にも届かない。


「「「うるさい!」」」


「「「どっちも同罪だ!」」」


「「「国を滅ぼした代償を、その身で支払え!」」」


熱狂が、憎悪へと変わった民衆ほど、恐ろしいものはない。


二人がその後、どのような末路を辿ったのか。 それを知る者は、もういない。


人々はただ、骨身に染みて理解した。


目に見える『派手な奇跡』や、耳障りの良い『真実の愛』という言葉。 そんな『感情』に熱狂した代償が、いかに高くつくかということを。


そして、本当に国を支えていたのは、誰も見向きもしなかった、地味で、孤独な『義務』であったという、あまりにも遅すぎた真実を。


ここは、大陸のどこか。 地図にも載っていない、辺境の聖域。


そこは、人の手が入ったことのない、雄大な自然が広がる場所。


一年中、穏やかな陽光が降り注ぎ、色とりどりの花々が咲き乱れている。 カイの強大な魔力によって、この一帯だけは、常に魔素が安定しているのだ。


私は、簡素だが上質なコットンのドレスをまとい、その花畑の世話をしていた。


「まあ、綺麗……」


私の手のひらから、淡い、地味な光が放たれる。 『国土安定化』の力。


かつては、帝国全土のために、魂を削りながら酷使していた力。 今、私は、この小さな花畑のためだけに、この力を使っている。


私の魔力を受けて、名も知らぬ野の花が、嬉しそうに輝きを増した。


((なんて、幸せなの))


国のためでも、義務のためでも、契約のためでもない。 ただ、自分が「美しい」と思うもののために、自分の力を使う。


こんな幸福が許されるなんて、思ってもみなかった。


「エルヴィラ様」


背後から、優しい声がかかる。 振り返ると、人の姿に戻ったカイが、ハーブティの入ったカップを持って立っていた。


「少し、お休みください」


「ありがとう、カイ」


彼が、私の護衛騎士だった頃の、無表情な影はもうない。 その黄金の瞳は、穏やかで、深い愛情の色だけをたたえて、私を見つめている。


「ここの生活は、退屈ではありませんか?」


彼が、少し心配そうに尋ねる。


「いいえ。とても」


私は、心からの笑みを浮かべた。


「とても、幸せです」


「王宮の最奥で、たった一人、義務を果たしていた頃とは比べものにならないくらい」

私の言葉に、カイは、心の底から安堵したように微笑んだ。


彼は、私の手を取り、そっとその甲に口づけを落とす。


「貴女が幸福であること。それこそが、私の長年の願いでした」


「……カイ」


「もう、何も我慢なさらないでください」


「欲しいものがあれば、何でも仰せに」


「貴女は、この聖域の、そして、この私の、唯一人のあるじなのですから」


((溺愛、されている))


その事実が、くすぐったくも、胸を満たしていく。


「では、カイ」


「はい。何なりと」


「これからも、ずっと、私のそばにいてくださいますか?」


一瞬、カイは驚いたように目を見開いた。 そして、次の瞬間、今まで見たこともないような、歓喜の笑みを浮かべた。


「……!」


「喜んで」


彼は、私を優しく抱きしめた。 彼の温もりが、私を包み込む。


「永遠に。貴女のそばに」


聖女の義務けいやくは終わり、私の本当の人生が、今、始まる。


この世界でただ一人、私を愛してくれる、最強の竜と共に。


お読みいただいてありがとうございます!


思ったより面白いじゃん!(*'▽')(*'▽')


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