第8話 本多家の茶庭で写経
翌朝八時、本多家の茶庭はまだ静寂に包まれていた。
灰白色の枯山水の砂地に、細く伸びる木々の影が伸びている。
藤次郎は折り畳み傘を杖代わりに置き、縁側の長机に並べられた筆、墨、和紙を前に、なぜか授業参観前の小学生みたいに落ち着かない心持ちでいた。
白猫・たまは石畳を「カサカサ…」と優雅に歩き、机の下で丸くなっている。
……が、片耳はこちらの会話にぴくぴく反応していた。油断も隙もない生徒である。
『あたし』は淡い微笑みを浮かべながら、机の向こう側に立っていた。
白地に紅梅文様の着物は朝光に白く輝き、帯の端からひとだまが一つ、二つと、まるで墨汁のしずくが空中で光に変わったように舞い降りてくる。
「写経体験の講師は絢子に任せて、あなたは……」
「はい、掃除でもしますか?」
「違うわよ。あなたには、“地元秘話寄稿”のリハーサルをしてもらうの」
「……字が下手でも?」
「字の下手さで怪異の説得力が落ちるわけじゃない。むしろ下手な字のほうが、怪談の筆跡っぽくてリアル」
「そういうフォローは素直に嬉しいけど、結局下手って言ってません?」
『あたし』はくすっと笑って、筆を取った。
一行目の手本として「浅野川に舞うひとだまの由来」とさらさらと書く。
その筆致は、川面をなぞる流水のように滑らかで、墨の濃淡がまるで生き物の呼吸みたいだ。
絢子は参加者数名に筆を配りながら、「ゆっくり肩の力を抜いて、墨の濃淡を楽しみまっし」と軽やかに説明している。
藤次郎は横で筆を持ちながら、小声で呟いた。
「やっぱり、あたしの書きぶりを見せてもらうだけで、だいぶ参考になる」
「そりゃどうも。じゃあ今度は、あんたの書きぶりで私が笑わせてもらう番ね」
「笑われるために書くのは、なんか複雑だなあ」
『あたし』はひとだまをふわりと浮かせ、その光で文字の薄い部分をほんのり照らした。
参加者が「おお…」と息を呑み、スマホを構えて光る文字を撮影する。
たまが縁側の上で「ニャ…」と、どこか得意げに鳴いた。まるで自分が光らせたと言わんばかりだ。
「この夜の茶屋街の逸話、次はあなたの声で語るのよ」
『あたし』が耳元でささやく。その瞳は、からかいと真剣さが半分ずつ混ざった色をしていた。
藤次郎は小さく息を吸い、筆を和紙に置く。
「梅の宴とひとだま……その昔……」
隣で正玄が、合気道の間合いを思わせる所作で一瞥し、「字にも気が宿っとるわ」と評した。
「ほらね、怪異ってのはこういう静かな場面からでも立ち上がるのよ」
『あたし』がそう言った瞬間、たまが机の上を歩き、まだ乾いていない文字の横に肉球のスタンプを押した。
参加者の一人が笑いながら「先生、その光の演出はどうやって…?」と尋ねると、絢子が「それは秘密の裏メニューでまっし」とウインクした。
「猫の肉球印もセットで付いてきます」と藤次郎が付け加えると、場が一斉に笑いに包まれた。
写経を終えた和紙を前に、『あたし』と藤次郎、参加者たちが静かに見つめ合う。
川風が「サワ…サワ…」と木々を揺らし、茶庭に穏やかな余韻をもたらした。
──こうして“地元秘話寄稿”の第一歩は、美しくも怪しく体験され、ツアー参加者は夜の茶屋街を想像しながら帰路につくのだった。
次回予告
友情の写経体験の余韻を胸に、藤次郎は絹代おばあちゃんの梅伝承を町内会に提案。
しかし、そこに再開発派と保存派の火花が散る――。
第9話「町内会と裏伝承① ― 再開発案と対立」
――話し合いの場が、一番危険だったりする。