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余話その一 徒歩ゼロ分の迷子

 夜の散歩には定食と裏メニューがある。表の散歩は健康と気晴らし、裏の散歩は言い訳と物探し。『あたし』は今夜、後者を注文した。胃よりも心のほうが消化不良を起こしていたからだ。


 きっかけは玄関の鍵穴に差し込まれた知らない鍵――の、影。鍵そのものは無い。あるのは「誰かがここにいた」という空白だけ。『あたし』は空白が嫌いだ。だって、誰のものにもなるから。だから『あたし』はスニーカーを履き、夜の散歩の裏メニューを頼んだ。「犯人に会うまで帰れません」、そういう自己都合の、理不尽なコース。


 裏メニューには規約がある。第一条、怖がりは迅速であること。第二条、独り言は会話であること。第三条、見失ったものは『あたし』のほうから見つけに行くこと。従って『あたし』は交差点で信号の色に挨拶し、電柱の番地に身の上話をし、ガードレールのへこみに相談を持ちかけた。返事はどれも無口だったけど、沈黙はだいたい肯定だ。


 曲がり角の先で、声が『あたし』を待っていた。人の声ではない。「足音だよ」と足音が言った。右から二歩、左から三歩、数え間違えるたびに世界がズレる。『あたし』はわざとリズムを乱した。気配は律儀に同じだけ狂う。よし、同犯。


「それ、何を探してるの?」と、背後から。

「『あたし』の鍵」と、『あたし』。

「鍵なんて最初から持ってないくせに」

 振り向くと、誰もいない。代わりに路面の白線が切れていた。切断面は新しい。道路もまた、夜な夜な髪を切るらしい。『あたし』は白線の端にしゃがみ込み、爪でこすった。粉になって、月に浮いた。粉はやがて言葉の形をとる。〈戻れ〉。戻れと言うのはだいたい前進しろという意味だ。人の忠告なんて、持ち上げてからひっくり返すくらいで丁度いい。


 橋の手前、古い公衆電話。受話器は置かれている。なのに呼んでいた。『あたし』以外の誰かの名前を。

 コインを入れた。相手は『あたし』だった。

「もしもし、今の『あたし』? それとも少し先の『あたし』?」

「少し前の『あたし』。鍵がない」

「鍵は最初から無いよ。あるのは、帰る気」

「帰る気があるなら何故出てきたの?」

「出たから帰れる。論理、完璧」

 カチャリと通話は切れた。『あたし』は受話器を戻し、ポケットを探った。見つけたのは鍵じゃなく、今日の『あたし』の機嫌。折れていた。折り目が二箇所。V字とL字。敗北と、曲がり角。


 橋を渡ると川霧が厚くなった。霧は親切だ。見たくないものを隠してくれる。でも今夜は不親切でいい。『あたし』は封筒を霧に差し出す仕草をした。中身は空気だ。受け取れ、世界。『あたし』の軽い覚悟を。


 川原で、猫が会議をしていた。議題は「この時間に人間が一人で歩く理由」。三匹は三様の結論を同時に出し、同時に却下した。『あたし』は傍聴席から手を挙げる。

「『あたし』は犯人を探してる」

「犯人とは?」

「『あたし』より先に『あたし』の家にいた、誰か」

「それは『あたし』だ」と三匹が答えた。正解が多いとき、人はだいたい間違える。『あたし』は笑って、靴紐を結び直した。靴は前にしか進めない癖に、紐はいつもほどける。自分の弱点が一番よく働く、世間はそう設計されている。


 視界の奥、ベンチに座る影が見えた。影は『あたし』の横顔をしていた。声をかける。

「『あたし』?」

「『あたし』」

 二人で頷く。こういう無駄は好きだ。

「鍵を返して」

「鍵は無いって言ったよ」

「じゃあ、影を返して」

 影は笑って、膝の上の紙袋を突きだした。袋には『合鍵』と油性ペン。中身はビー玉が三つ。透きとおって、丸い世界が三個、転がる。

「鍵の定義を変えた。開けるのは扉じゃない。夜」

「夜は最初から開いてる」

「じゃあ閉めて。閉めたら、開け方が分かる」

 論理の手触りに既視感があった。受話器の向こうの『あたし』と同じだ。つまり、相手は未来の『あたし』だ。未来は説明が得意だ。理由を配ることに飽きているから。


 ビー玉をひとつ、月明かりにかざす。光は丸く飽和し、街路樹の葉脈をやさしく破滅させる。『あたし』はそれをポケットに落とした。転がる音がした。『あたし』の機嫌も一緒に丸くなった気がする。


「ねえ。誰が『あたし』の家にいたの?」

「どこまでを家と呼ぶかで答えは変わる」

「玄関の外も、家」

「なら、誰でも。なら、誰も」

 影は立ち上がると、ベンチの背に指で文字を書いた。〈確認〉。それは鍵より重く、証拠より軽い言葉。『あたし』は頷いた。確認。やり直しの上位互換。


 帰路は来た道の反転だ。けれど同じじゃない。『あたし』のポケットにはビー玉が二つになっていた。ひとつはさっき落とした。もうひとつは、最初から無かった。計算は合っている。気持ちが増えた分、物は減る。世界が破産しないための仕組み。


 玄関の前で靴を脱ぎ、靴底についた夜を払った。ドアノブは冷たい。『あたし』の掌も冷たい。ぴたりと合う。鍵穴にビー玉を当てると、ばかな話だが、ちゃんと回った。音はしない。代わりに胸のあたりで「了解」が鳴った。ドアが開く。空気は変わらないのに、匂いが変わる。不在の人の匂い。


 廊下の端、置きっぱなしの傘が一本。『あたし』のじゃない。けれど『あたし』が拾ったものだ。雨の日、駅で。忘れた人は、傘を忘れたことすら忘れていた。『あたし』はそれを持ち帰り、返す機会を失った。所有の定義は、だいたい機会損失だ。


 傘立てに差し直す。居間の灯りを点ける。何も荒れていない。なのに整いすぎている。これが空白の本性。何もしないくせに、万事に関与してくる。『あたし』は机に紙を広げ、太いペンで一行だけ書いた。〈ここに『あたし』がいた〉。証拠は不要、宣言で充分。視線がやっと座った。


 窓に、自分の顔が映る。夜は鏡だ。鏡は嘘をつかないが、真実も言わない。『あたし』は窓を開けて、夜を少し、部屋に入れた。入場料はビー玉一個。これでポケットは空っぽ。空っぽは軽い。軽いなら、眠れる。


 ポストの中も確かめた。チラシ三枚、請求書一通、言い訳がびっしり書かれた白紙が一枚。白紙にびっしりは矛盾だって? 矛盾はだいたい真実の先回りだ。『あたし』は白紙を冷蔵庫に貼った。冷やした言葉は辛口になる。明朝の『あたし』に、ぴりっと効け。


 冷蔵庫のモーター音が、心音と歩調を合わせる。目には見えないけど、機械はいつだって『あたし』の味方だ。決められたリズムで、躊躇せずに動き続けるなんて、人間には無理芸。だから『あたし』は今夜、少しだけ機械のふりをする。眠るまで、同じ呼吸、同じ目線、同じ温度。均一は退屈? 退屈は安全の別名。


 玄関マットの端を整え、靴をそろえ、メールボックスをもう一度だけ撫でた。何も入っていないことを、もう一度だけ確認する。確認の確認。それは臆病の別名であり、用心深さの二つ名。どちらでもいい。呼ばれ方より、帰り道だ。


 布団に潜り、目を閉じる直前、『あたし』は玄関の鍵穴へ、心だけ先に戻した。そこに差し込む鍵はやっぱり無い。けれど、影はある。『あたし』が往復した影。その往復が、家。『あたし』はようやく承知する。盗まれていたのは鍵じゃない。帰る気でもない。出る勇気だ。


 なら、今夜の裏メニューは成功だ。請求書は明日の『あたし』へ回すとして。


 眠りの直前、電話が震えた。画面には『あたし』。通話はしない。既読だけつけて、目を閉じた。やっと、夜が閉まった。次は、どう開ける? それは明日の、『あたし』の仕事。


次話予告(ないかも):『三歩戻って四歩目の証拠』

 「現場は歩いて一分、容疑者は『あたし』、証言者も『あたし』――それでも事件は成立するの?」検証と検討と見落としの三重奏。失くした二個目のビー玉と、置き去りの傘の持ち主が、同時に名乗りを上げる。夜の散歩は昼の裁判に変わり、『あたし』は証言台で、独り言をやめる。

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