第73話 (最終話) もう一つの呼び声 ― 二股の足跡と、再び開く窓
夜の湿り気が、石畳の呼吸みたいに上下している。
浅野川の流れは静かで、静かすぎて、まるで今夜に限ってだけは川の方が僕らを見張っている。
二股に分かれた濡れた足跡が、行き先の選択肢みたいな顔をして、路地と洋館に伸びていた。
「選択肢ってさ、親切の仮面を被った強制だよね」
『あたし』が言う。歩幅は小さく、それでも確かに前へ。
「親切の仮面があってもなくても、僕らは進むしかない」
「じゃあどっちへ?」
「まだ決めない。決めないで歩くのが、いちばん決断的なときもある」
僕が格好つけた言い方をすると、背後で乾いた咳払いがひとつ。
「決めんと電池が持たんわ」
懐中電灯を掲げた正玄が、わざとらしくため息を重ねる。「今夜はよう光っとるけど、電気だって情に流されはせんさけね」
「機械に倫理観を求めないで」
「倫理も省エネも語尾は似とるが、財布に優しい方へ落ち着くんが人情や」
そう言って、正玄は二股の分岐点で光をくるりと回した。水面を撫でるような輪が、夜気の埃を散らす。
足元で「ん」と鳴いたのは、たま。
丸い背中に夜の濃淡を背負って、僕と『あたし』の間をゆっくりと往復する。どちらにも尻尾の先を触れさせて、どちらにも完全には寄りかからない。
たまは、僕らよりも僕らを知っている顔をしている。
僕と『あたし』の間にある、半歩の距離。近くて、遠い。伸ばせば届くけれど、伸ばせば崩れるかもしれない、あの距離。
「たまはどっちに行きたい?」
『あたし』がしゃがんで、指先で空の紐を結ぶ仕草をする。
たまは一拍置いて、路地側の足跡に鼻を寄せ、それから、ゆっくりと洋館の方へ顔を上げた。
返事は、しない。代わりに、僕らの靴先の間でくるりと回る。
「優柔不断の専門家だ」
「猫は選ばない。選ばせるんだよ」
「誰に?」
「自分に」
川沿いの暗がりから、ふっと甘い匂いが流れてきた。
黒砂糖を焦がしたような匂い。
「遅いじゃないの」
絹代が紙袋を抱えて現れた。夜更けの配達人みたいに、きちんとした足取りで。
「甘納豆。夜は頭が回らんさけ、糖で回しな」
「この時間に糖で回すと、明日の僕が回らなくなる」
「明日は明日の君が責任とるがいね」
理屈としては破綻しているのに、街の論理としては無敵だった。
「ほら、あんたも」
絹代は『あたし』の掌にもひとつ、つまんだ甘納豆を置く。『あたし』は受け取り、舌で転がしながら目を細めた。
「やさしい味。怒ってるのに優しい人の味」
「怒っとらんよ」
「怒ってるの。心配と同じ顔でね」
絹代はため息を吐いて、僕と『あたし』を見比べ、「ほんに、あんたらは」とだけ言う。
たまが絹代の足元に身体をすり寄せる。正玄が懐中電灯の角度を直す。
夜は、見守る体制に入っていた。
洋館の二階の窓が、唐突に、音もなく、わずかに開いた。
風鈴の音が――逆から鳴った。
高音が先に触れて、次に余韻が戻ってくる。
りん、ではなく、んり。
音の尻尾に引かれるみたいに、僕の記憶のいくつかが後ろ向きに澱み、形を忘れかける。
代償はまだ続いている。
忘れたものの輪郭を、忘れたという事実だけが縁取っている。
「ねえ、藤次郎」
『あたし』が小さく呼ぶ。夜の中で名字がはっきり届く。名前の方は、ときどき薄れるのに。
「僕は、僕だ」
「うん。『あたし』も、『あたし』だよ」
それは、確認であり、祈りでもある。
たまが僕の膝に頭を押しつけて、離れたあとで『あたし』の膝にも同じことをする。公平に。残酷なほど公平に。
「行く?」
「行く。けど、今日の僕は慎重に行く」
「慎重って、どれくらい?」
「甘納豆一粒ぶんくらい」
「それ、慎重って言わない」
「金沢基準だと慎重」
正玄が肩をすくめる。「わしはここで見とる。戻って来る可能性の席は、誰かが温めとらんと」
「逃げる準備じゃなくて?」
「逃げるにしても、戻る席がないと逃げ出せんがい」
理屈としては破綻しているのに、夜の論理としては無敵だった。
洋館の門の鉄が、控えめに鳴いた。
近づくたび、風鈴の音は巻き取られるように短くなって、かわりに別の音が生まれる。紙がこすれる音。猫が石畳を歩く、柔らかい音。煙草の火が、灰へ戻る音。
僕はそこでやっと気づく。
この音は、僕らのためだけのBGMじゃない。
街自身が、今夜の脚本を読み上げている。そういう音だった。
「ほら」
『あたし』が指差す。
門柱の影に、金泥の花びらが一枚、貼り付いていた。湿った夜気が剥がす前に、花びらは自分から薄く笑って消える。
足元の浅い水たまりには、猫の足跡が二つ三つ浮かんで、見ているあいだに逆向きにほどけていった。
風の具合か、気のせいか、窓の端に短い橙が灯って、すぐに闇に均された。
名前は呼ばない。呼んだ瞬間、呼んだものが消えるかもしれないから。
でも、いる。
いることだけは確かに、ここに刻んでいく。
「入口は、入口らしくない顔をしてるね」
『あたし』の言葉は、いつも先回りで正しい。
「入口らしさで判断してたら、裏メニューに辿り着けない」
「じゃあ、『あたし』は裏口から入る」
「それ、正面から言わないやつだ」
僕らのやりとりに、たまが小さく息を吐く。猫のため息。人間よりも人間くさい。
門をくぐる、その手前で、絢子が走ってきた。
「待って!」
肩で息をしながら、手提げから白い布を取り出す。「これ、鈴。絹代さんが貸してくれたやつ。鳴らすと、誰かが気づくって」
「誰かって?」
「さあ」絢子は笑う。「でも、気づいてほしい人にだけ、気づいてほしいときだけ、鳴るらしいよ」
信用できない。けれど、こういうものだけが、怪異の中で信頼できる。
僕は布の包みを受け取って、掌の真ん中に置いた。
軽い。なのに、ずっしりとした約束の重さがある。
「行こっか」
『あたし』が言う。
僕は頷いて、足跡のうち、洋館へ続く方へ半歩、先に出る。
『あたし』が並ぶ。
たまが付いて来る。
正玄は門外の石に腰かけ、絹代と絢子は路地の影から見守る。
それぞれが、それぞれの距離を保ったまま、同じ方向を向くという奇跡。
玄関までの短い砂利道は、短いくせに永遠に長い。
鳴らないはずの風鈴が鳴り、鳴るはずの心臓は静かで、静かであることが逆にうるさい。
扉の前に立って、僕はもう一度、二股のことを考える。
夜はいつも選択肢を増やし、朝はいつも正解を減らす。
だったら、今のうちに増えすぎた選択肢を一度に抱えて、明日に押しつけるのが、今夜の僕のやり方だ。
「藤次郎」
『あたし』が僕の名を迷いなく呼ぶ。
それだけで、いくつかの欠落が穴を塞ぐ。
「何」
「好き、って気持ちは、怖い?」
思わず、たまが僕らを交互に見上げた。
正玄が遠くで「おお……」と意味のない相槌を漏らし、絹代が絢子の肩を小突く気配がする。
僕は、すぐに答えない。
言葉は慎重に使うべきだ。甘納豆一粒ぶんの慎重さでは足りない。
「知らない。忘れた、の間違いかもしれない。でも、」
僕は言う。「怖いものって、大体、守るものに名前がついたときに生まれる」
「じゃあ、名前はつけない?」
「つける。忘れないために。忘れるために」
『あたし』が笑う。悲しみと同じ形の微笑みで。
たまが僕らの足首をくぐり抜け、扉に前足をかけた。
合図は猫が出す。今夜の主役は『あたし』で、主演猫はたま。
僕は、絢子から渡された鈴を取り出す。
風鈴の逆鳴りに重ねるように、掌の鈴を、ほとんど鳴らさない力で鳴らす。
ちいさな音。
なのに、世界の方が静かになった。
音と沈黙が入れ替わる。
その入れ替わり際に、窓の隙間で三つの影が、ほんの一瞬だけ重なった気がした。
扉は鍵がかかっていない。
押せば開く。押さなければ、開かない。
選択肢は、親切の仮面を被った強制。
ならば、仮面ごと抱きしめてしまえばいい。
僕は扉に手を置き、半歩ぶんの距離を残して、隣の『あたし』を見た。
『あたし』も僕を見た。
視線はぶつかって、ぶつかったまま、何も壊さない。
たまだけが、その意味を完全に理解して、尻尾で夜を区切った。完
「行こう」
「うん」
扉が、静かに、こちら側の夜を押し返すように開いた。
洋館の内側の暗闇は、先週まで住んでいた誰かの気配を、丁寧に忘れている最中だった。
逆再生の風鈴は、まだ、微かに、んり、と鳴る。
でも今夜は、恐怖の方が後から来る。先に来るのは、好奇心の方だ。
僕らは、その順序で歩く。
足元で、たまが砂粒をひとつ、前へ転がした。
猫の導きはいつも、必要最小限。
廊下の突き当たりで、僕はふいに立ち止まる。
ここから先は、今夜の地図に印刷されていない場所。
心臓の鼓動が、地図の余白に朱の印を押していく。
「藤次郎」
『あたし』がまた呼ぶ。
以前よりも確かに、今夜ははっきりと。
「何」
「忘れてもいいよ。『あたし』は覚えてる」
「じゃあ、逆でもいい。僕が覚えてるから、君は忘れてもいい」
「ずるいね」
「ずるいのが、生き延びる秘訣だ」
正玄が遠くでくしゃみをした。絹代が誰かに「静かに」と囁く。絢子は口元を押さえて笑いを飲み込む。
そして、三つの影は、今夜はただの余韻として、僕らの背後に寄り添う。
猫は、余韻を嗅ぎ分ける。
たまは満足げに一度だけ鳴き、廊下の先へと跳ねた。
僕らは、薄い闇の奥へ進む。
進む先で、窓が、もういちど、ゆっくりと開いていく。
誰かが招くのではなく、空間そのものが、こちらを見て笑うみたいに。
笑い声は聞こえない。
けれど、確かに、そこにある。
呼び声と、呼ばれる名のあいだに落ちる、一拍の「りん」。
その一拍のために、僕らは今夜も歩く。
外では、正玄が腰の位置をずらし、絹代が紙袋を抱え直し、絢子が鈴の包みの残り香を嗅いでいる。
川は、黙って見ている。
星は、少しだけ増えている気がした。
忘れることは、空を広くする。
覚えていることは、足元を確かにする。
僕らはその両方で、夜を渡る。
たまが振り返る。
その目は、僕と『あたし』の距離を正確に測り、許容し、祝福している。
猫に祝福される恋があるなら、たぶんそれは、とても長い前置きを必要とする。
僕らは前置きを歩いている。
歩幅は半分で、心は倍で。
洋館の最奥、空気がひとつだけ明るい地点に、扉があった。
名前のない扉。
名前をつけるなら、今。
つけないなら、永遠に。
『あたし』が僕を見る。
僕は頷く。
たまが扉の前で丸くなる。
鈴が、ほんのわずかに鳴った。
りん、ではなく、んり。
逆さの一拍が、今夜の最後の合図になる。
「ようこそ——洋館の、もう一つの呼び声へ」
『あたし』がそう言って笑い、僕は扉に触れた。
扉は、こちらの手よりも、先に震えた。
夜はまだ終わらない。
でも、怖いだけの夜でもない。
僕らは、選ばずに、選んだ。
二股の足跡の片方は、もう乾いている。
もう片方だけが、いつまでも濡れている。
僕らが歩く限り、その水分は途切れない。
窓が、再び、ゆっくり開く。
そして、影が三つ、重なる。
花の香りと、猫の気配と、煙のあたたかさ。
誰も、名乗らない。
名乗らないことが、今夜の礼儀。
僕は、もう一度だけ振り返る。
正玄、絹代、絢子、そしてたま。
みんなが、いる。
いるという事実だけで、夜は十分に明るい。
僕と『あたし』は、同時に、前へ出た。
呼び声は、今度は正しい順序で鳴る。
りん。
――完




