第69話 最深部 — 音だけの迷路と裏メニュー最終形態
円形の門は、花弁と猫の足跡と煙の渦でできていた。三つとも別々の回転をしているのに、重なった途端に静止画になる。止まって見えるのに、僕の足裏だけが前後にきしむ。踏み込めという圧と、やめろという警告が、同じ声で同じ音量で同時に届く。つまり、判断は僕のものだということだ。便利な押し付けだと思う。
「行くよ」
『あたし』が答えずに微笑む。それで十分だ。正玄は懐中電灯を持ち直し、灯りを門の縁に這わせた。光はそこで音に変わり、しゃら、と鳴って溶けていく。僕らは一歩、また一歩。世界が薄くなり、色が溶け、形が退職し、最後に残ったのは、やたらと饒舌な「音」だけだった。
「……目が、いらない」
『あたし』が頷く気配だけがある。「ここは音でしか存在できない場所だから」
言葉も音だ。沈黙も、鳴らさないという名の音だ。だから、息を潜めることさえ意思表示になる。僕は僕であることを、呼吸で証明する。
道は見えないけれど、順番は聴こえる。風鈴の高音が一、紙をめくる音が二、水面が割れるのが三、煙が切れるのが四。四拍子の先頭に戻るたび、床が一歩分だけ前へせり出す。間違えると、足元が消える。親切で残酷な規則だ。
「順番が鍵か」
『あたし』は首を横に振った。「鍵は順番に見えるだけ。ほんとは——街が覚えてる」
金沢という設計者。大袈裟な比喩じゃないらしい。四拍子が街路のように折れ、また繋がる。僕が通ってきた通学路、初めて迷子になった市場、いつか喧嘩した川べり。逆再生の癖がついた音は全部、僕の過去を引用してくる。引用は盗作より胸が痛む。
「藤次郎」正玄の声が割り込む。「次、紙の音や」
「分かってる」
分かっているつもり、の間違いかもしれない。僕は自分の過去に詳しいと思っていた。実際は、細部ほど曖昧だ。曖昧な場所ほど、怪異は足場を置く。
耳のすぐそばに囁きが来る。泉鏡花の名を連想させるほど端正で、水に溶けるほど繊細なテクスチャ。「花を散らしても残る景色がある」
背中から、室生犀星を思わせる柔らかい刃。「詩にすれば、誰も奪えない」
足元から、徳田秋声の低い温度。「真実は、書いた瞬間に裏切る」
三つの声が同時に近づいたり遠ざかったりする。選べと言われている気がする。選べないと言ってほしい気もする。両方の気持ちが同時に成立するのが、この迷路のいちばん厄介なところだ。
『あたし』が耳元で囁く。「誰を選ぶか、じゃない。全部を持って帰れるか、だよ」
「欲張りだな」
「怪異はいつも、こちらの欲のサイズを測ってから牙を研ぐんだよ」
壁のない迷路を抜けると、中心に一本だけ、巨大な風鈴が吊るされていた。風はない。なのに鳴る。鳴るたびに、過去と未来が揺れ、現在が綱渡りする。薄い金属の舌の内側に、三つの影が閉じ込められている。花、猫、水、煙——さっきまで別々の象徴だったものが、ここでは重層になって渦を作っている。僕を見ている、気がする。いっそ見られていないふりをしたい。
「代償がいるよ」『あたし』が無感情に言う。優しさは時に、事実を飾らないことだ。
「何を払えばいい?」
「三人はそれぞれ、別のものを望んでる。三つとも叶えれば、風鈴は止まる」
「三つ同時?」
「同時」
正玄が舌打ちする。「そんなん、無茶や。三方に伸びる手は二本までやで」
「僕は二本しか持っていない。でも——」
僕の声はそこで途切れ、代わりに鼓動が大きくなる。鼓動も音だ。なら、使える。
僕は風鈴の下へ入り、薄い舌に右手を伸ばし、左手で輪っかを掴み、最後に言葉で自分を縛った。「全部、持って帰る」
宣言は契約になる。音で構成された世界では、言葉は署名だ。
三つの影が同時に動いた。花びらが掌に溶け、水が血管に流れ、煙が肺に入る。猫の瞳が視界に開く。痛みはない。痛みの代わりに、僕の中の名前がいくつか薄くなる。何の名前を失ったか、もう思い出せない。奪われた記憶は、奪われたという事実ごと消去される。効率よすぎて笑えてくる。笑わないけど。
「藤次郎」正玄が僕の肩を叩く。感触はある。安心する。
『あたし』は僕を覗き込む。「戻れる?」
「戻る。戻らないと、持って帰れない」
風鈴がひび割れる。音の粒子が雪みたいに降り、世界に色が戻る。だが同時に、早送りが始まる。さっきまで逆再生だった時間が、今度は巻き戻しの反対——つまり加速で現世に追いつこうとする。景色が高速で生え、歴史が駆け抜け、足場が追いつかない。
「急げ!」正玄が叫ぶ。
「落ち着いて、歩幅は半分で」
『あたし』が言う。僕はその通りにする。半分の歩幅は、二倍の回数を要求する。手数で時間を追い越す方法。僕らにはそれしかない。
途中、壁が歪み、『あたし』の過去がちらつく。浅野川のあの夜、誰かと並んで歩いた背中。泉鏡花のように丁寧な礼、室生犀星のように不器用な笑い、徳田秋声のように長い沈黙。輪郭のない三つの場面が、同じ速度で消えていく。『あたし』自身がそれを追わない。追えば、彼女が薄くなるのを、僕は知っている。
中心から離れるほど、音は現実の音に近づく。風鈴は風で鳴り、水は重力で落ち、紙は手でめくれ、煙は上に昇る。まともという名の奇跡。僕はそれを懐かしいと感じる自分に驚き、同時に頼もしさも感じる。懐かしさと頼もしさが両立するのは、たぶん現世だけの特権だ。
最後の段差を越えたとき、巨大な風鈴は完全に割れ、三つの影は粉になって空へほどけた。その一部が、僕の胸のどこかに残ったままなのを、僕は自覚している。残滓というには重い。所有というには頼りない。そんな中間の重さが、骨の内側に吊るされている。
「終わった……んか?」正玄が息を吐く。
「終わらせた、が正しいのかもしれない」僕は言う。「でも、代償はこれから始まる」
『あたし』の目が細くなる。笑っているのかもしれない。「忘れるのは、痛い?」
「痛いかどうかを、忘れるのかもしれない」
それでも、僕は帰る。帰って、持ってきたものを、ここに置いていく。三人分の影は、金沢という街の棚に戻しておくべきだ。僕個人の卓上に置いたら、きっと平衡が壊れる。
割れた門の縁に、まだ音の粉が残っていた。指で触れると、指紋がひとつ減った気がした。気のせいであってほしい。気のせいだと言い切る勇気は、今はまだない。
『あたし』が手を差し出す。「帰ろう」
「うん」
僕はその手を取る。正玄が最後に懐中電灯を消し、暗闇に目が慣れる。暗闇は、光の不在ではない。次の光への準備だ。そう思えば、怖くない。怖さを忘れたのではなく、怖さと一緒に歩く技術を、ほんの少しだけ習得したのだと、僕は自分に言い聞かせる。
——それでも、耳のどこかで、まだ風鈴が鳴っている。逆再生でも正方向でもない、一拍だけの「りん」。名前のない音。呼び声の予告編。退場しないエンドロール。終わりを終わらせないための、最後の合図。ここまでが、最深部の記帳。
次話予告
加速は止まり、現世が追いつく。持ち帰ったものは胸の奥で形になり始め、代償は静かに始動する。別れはすでに済んだのに、別れの音だけが遅れて届く。
第70話「帰還と代償 — 三つの別れと始まる欠落」
歩幅は半分のまま、街は歩行速度を取り戻す。忘却が痛みかどうかを、痛みが忘却かどうかを、僕は確かめに行く。




