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第66話 三つの影 — 花と猫と煙、三文豪の匂わせ競演

 廊下は細長い肺のように息をしていた。吸うたびに壁紙がわずかに膨らみ、吐くたびに額縁の写真が逆順に若返っていく。秒針は相変わらず後ろ歩きの名人ぶりで、時刻ではなく“いまから少し前”を刻み続けていた。

 藤次郎は足音を数え、数が減るのを数え、減ったはずの足音が角を曲がるたび増えていることにも気づく。計算は破綻している。ここは数学より比喩が強い世界で、理性より直観のほうが道案内を心得ている。


「戻ってるようで進んどる、っちゅうやつやな」

 本多正玄が懐中電灯を胸元で握り直す。光は前方を照らすよりも、過去の埃を手招きしているみたいで心強くはない。


「戻るのは音。進むのはわたしたち」

 『あたし』は廊下の影に指先を入れ、温度を測る医者のような顔で言った。「奥に行くほど、影が濃くなる。影が濃いということは、ここで何かが“名乗っている”ってこと」


 名乗る影、という言い方が妙に腑に落ちた。人は名を呼べばこちらを向くが、影は名を呼ばれる前から先回りしてこちらを見ている。

 その最初の影は——花だった。


 壁紙の蔓に沿って、白い花弁の影が音もなく開く。香りの順番が逆転しているのか、最初に余韻が漂い、次に中音、最後にかすかな初香だけが鼻腔に届く。

 花弁の縁には金泥の模様めいた光のほつれ。遠目に字のようで、近くではただの飾りに見える。読むことを拒否する文字は、文学より強情だ。


「この花は……」

 『あたし』が言いかけると、影はわずかに身じろぎした。

 口にすれば壊れる気配がある。名を与えると形を失う種類の幻想だ。

 藤次郎は飲み込む。名指しを避ける沈黙も、ときに会話の一部になる。


 次に現れたのは猫の影。廊下の敷板に淡い足跡がふたつ、ひとつ飛ばしで現れていく。不揃いのリズムで、それでも気配は律儀だ。

 影の猫は、目を持たないのにこちらを見ている顔をして、真横から水の匂いを連れて来た。どこにも川はないのに、耳が勝手に岸を作る。

「声が二重に聞こえる」

「詩の声って、だいたい二重だよ。読む声と、読まれる声」

 『あたし』の言葉が、猫の尾の揺れにうまく縫いつけられる。尾が止まると縫い目が解け、声は床下へと沈んだ。


 三つ目の影は、煙だった。

 天井近くに薄い帯が浮かび、まるで建物が吸い込んだ嘘だけを選別するみたいに、ゆっくりと長さを変える。帯の端には、火の赤が遡って灰に戻る瞬間が、奇妙な精度で繰り返されていた。

 煙の帯は、花と猫の間に線を引く。線は距離ではなく、態度の差を示す定規で、こちら側と向こう側の区別を“いまのところ”保っている。


「三つ、揃ったな」

 本多正玄が息を呑む音が、逆再生の風鈴とハモった。「花と、猫と、煙。ほんなら——」


「まだ言わないで」

 『あたし』が静かに首を振る。「ここでは名は鍵。早く挿せば、早く折れる」


 花は花で、猫は猫で、煙は煙。だが、その先にある比喩はたった一人を想起させる。いや、三人を、だ。

 金沢という街の背骨を、人の名前が支え続けるなんて随分ロマンチックだが、怪異は情緒で歩く。地図の上よりも文庫の中の方が、道がよく通っている。


 廊下の突き当たりに、扉が生えた。

 三枚ではない。一枚なのに、取っ手が三つ。左右と中央、それぞれの取っ手に小さな風鈴が吊られている。

 左は金泥の花模様。中央は銀の小鈴。右は黒鉄の質素な鈴。

 音を鳴らさずとも、見た目だけで記憶は音を立てる。見た瞬間に“以前聞いたことがある”という、嘘か真か分からない既視感が鳴り始める。


「選べって言われとるんやろうな、これは」

 本多正玄の口調が、やや投げやりになるのは理解できる。選択を迫る装置は、装置のくせに人間の事情を知らない。


「選び方には、順番と方法がある」

 『あたし』が三つの鈴の前に立つ。

 彼女は両手を広げ、それぞれの鈴に触れず、気配だけで音をそっと揺らした。

 揺れた音は——逆だった。右の鈴の余韻が先に来て、中央の鈴の初音が最後にこぼれ、左の鈴は無音を鳴らした。


「無音の音が混ざった?」

 藤次郎は耳よりも胸で聴く。心拍が一拍遅れて、追いつき、追い越される。


「三つの音色を、一瞬だけ揃える。揃った瞬間に、それぞれの逆再生が互いを打ち消して、ここに“無音”が生まれる」

 『あたし』の指先が、扉の縁に細い白線を描くように動く。「その無音を鍵穴にする。そうすれば——」


「全部、開く」

 言葉が先に扉へ届いた気がした。言ってしまったけれど、言わずにいられない種類の予感だった。


 扉の向こうから、誰かの足音が遠ざかっていく。逆だ。遠ざかったはずの足音が、こちらに近づいてくるふるまいをする。

 藤次郎は肘の角度を変え、手を取っ手に添えないまま、その重さを計った。

 取っ手は重い。選択とは、だいたい重い。軽い選択は選択のふりをした日常で、日常のふりをした怪異が一番怖い。


「順番は?」

「順番は街が覚えてる」

 『あたし』は笑う。「浅野川の流れみたいに、曲がるところは決まってるの。ただし、曲がり方は毎回違う」


 本多正玄が懐中電灯を三つの鈴に順番に照らした。光は音に混ざらないが、音は光を覚えてしまう。「時間は? どれだけ猶予がある?」

「あるうちは問わないし、なくなるときは一気になくなるのが猶予っていう生き物」

 『あたし』の返答は親切ではないが、正直だ。怪異には親切より正直が効く。


 扉の下、敷居の木目が不自然に濡れている。濡れた二股の跡が、ここでもまた分岐の儀式を始めていた。

 片方の足跡は扉の左側へ、もう片方は右側へ。中央には、足のない足跡——風鈴の揺れだけが残した跡が、ほそくまっすぐに伸びていた。


「左は花。右は煙。真ん中は……猫、か?」

 藤次郎の問いに、『あたし』は首を横に振った。「真ん中は誰でもない。誰でもない場所に、いちばん深い名前が落ちる」


 名は鍵であり、錨でもある。鍵穴に合わない名は鍵を折り、深さに合わない名は持ち主を沈める。

 沈むのを怖がっていたら、岸に立ったまま夜明けを迎えることになる。夜明けは勝手に来るけれど、夜明けを迎えられない者だっている。


 廊下の隅、花の影がまたひとつ開いた。今度は香りが順番通りだ。

 猫の足跡がふたつ増え、煙の帯が一本減る。

 三つの影のやり取りは、楽譜にない譜面を勝手に書き換える手つきで、目の前の“音の地形”を変えていく。


「藤次郎」

 『あたし』が名を呼ぶ。名は実在の呼び鈴だ。

「あなたが触れる前に、私が拍を合わせる。正玄さんは、揺れの振幅が最小になる瞬間に光を止めて」

「止めるんか、光を?」

「光って案外、音の邪魔をするの。大丈夫、邪魔が必要な瞬間もある」


 準備を口にしているうちに、準備が自分たちの体温に馴染んでくる。段取りというのはそういう魔法で、魔法というのはだいたい段取りのことだ。

 藤次郎は息を吸う。吸う音が鈴の揺れをわずかに遅らせ、吐く音が花弁の影を一枚、まだ閉じたままに留める。


 扉が、かすかに笑った——ような気がした。

 笑う扉はだいたい性格が悪いが、こちらが本気かどうかを試しているだけのときもある。試験官が問題を作るのに夢中で、受験生の顔を見ていないのは困るが、怪異の出題者はたまに受験生の方を向く。


「ひとつじゃ足りない。ふたつでも足りない。みっつ、同時にやる」

 『あたし』の声は、逆再生にならなかった。ここで彼女の声だけが前を向くのは仕様なのか、反則なのか。


「反則は勝つための種類じゃなく、帰ってこられるための種類であってほしい」

 藤次郎の独り言が、扉の内側に届いたかどうかは分からない。けれど、扉の蝶番がかすかに呼吸を変える。

 取っ手の金属が体温を覚えるように温かい。選択は冷たい顔をしているくせに、握るとすぐ温まる。手を離せばまた冷える。恋人のふりがうまい。


「合図は?」

「風鈴が一拍、鳴らないとき」

 『あたし』は目を閉じる。「鳴らない音は、いちばん大きいから」


 本多正玄が無言で頷いた。懐中電灯のスイッチにかけた親指に、汗が滲む。

 藤次郎は右手を黒鉄の鈴へ、左手を花模様の鈴へ。中央の銀の鈴は、風のほうからわずかに近づいてくる——手を出していないのに、こちらの意図を読んで寄ってくるのは、猫の仕事だ。


 遠くで、別の風鈴がひとつだけ遅れて鳴った。過去の音が現在に迷い込む。

 近くで、三つの鈴が同時に震え——かけて、止まった。

 止まった一拍は、音よりも音らしい。世界の輪郭が一瞬だけ濃くなり、扉の木目が年輪ではなく“地図”に見える。


 その一拍で、藤次郎は悟る。

 この扉は、開けるものではなく“開くことに立ち会う”ものだ。

 立ち会うには、三人ぶんの手がいる。三人ぶんの聴力がいる。三人ぶんの覚悟がいる。覚悟は一人ずつ持つほうがうまいが、合わせたときに拍が揃うかどうかは別問題だ。


「藤次郎」

 『あたし』の掌が、肩甲骨の上に置かれる。そこにあるのが背中か翼の名残か、彼女にはどちらでもいいのだろう。「いま、同時に」


 彼は頷く。頷きは返事より遅いが、返事より深い。

 右手が、左手が、そして無音の中央が、同時に——


 その瞬間、扉の向こう側で、花が水に落ち、煙が水面を渡る猫の背でほどけた。世界が論理を諦め、詩だけで組み立て直される。

 扉はまだ開いていない。まだ——だが、こちらを見ている。扉のくせに目があるのは不公平だが、目のないこちらを贔屓してくれている可能性もある。


 藤次郎は口角をわずかに上げた。選択は、笑顔を重くするのに長けている。

「行こう」

「ようこそ——裏メニューの前菜の、さらに前へ」

 『あたし』の悪い冗談に、風鈴が小さく笑った。笑いは逆再生されず、真っ直ぐに廊下の奥へ消えていく。


 花は、猫は、煙は——それぞれ別の方向に揺れ、同じ場所に影を落とした。

 三つの影が重なった十字の中心で、見えない鍵穴が呼吸を始める。

 鍵は音。鍵穴は無音。開くとき、どちらも名前を捨てる。


 ここから先は、順番ではなく同時の領域だ。順番が通じない場所で、通じるのは呼吸と、わずかな迷いと、あと少しの無鉄砲。

 藤次郎は数を忘れ、拍だけを覚える。

 拍は、街が最初に覚えて最後に忘れる単位だ。金沢は、今夜も拍で歩いている。


――


次話予告


扉は三つで、鍵は一拍。選べば消え、揃えれば曇る。

花の余韻、猫の足跡、煙の境界——どれかひとつを立てれば、ふたつが伏せる。

それでも「全部」を求めるのなら、無音を握れ。握った手の熱が、時間の向きを決める。

第67話 三つの扉 — 裏メニューへの選択と同時開放の鍵

拍が揃ったとき、扉は“こちら”を見る。選択は、まだ名前を持たない。

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