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第63話 洋館の足跡 ― 濡れた二股の跡と、境界線上の門

 入口は入口らしくない顔で固定された。だからこそ、こちらもこちららしく歩くしかない。夜は“歩行速度の巻き戻し”に安堵して眠り、眠らないものだけが、次のページの余白をめくる。

 足もとには、まだ濡れている二股の跡。片方は川へ戻り、片方は卯辰山の裾へ登る。二股はいつだって親切の仮面をかぶった試験問題で、正解のほうがたいていしんどい。


 『あたし』は提灯の火を細くし、二股の分かれ目に火の輪郭を置いた。輪郭は濡れの上でだけ綺麗に光る。

 「右が“館”。左が“川”。どっちも今夜の外だよ」

 「内はどこだ」

 「門の向こう」

 門のこちらは、外で、外のさらに外。僕は自分の胸の杭を確かめる。草冠は左右そろって、昨夜より一段深い。杭が深いのは、たぶん正しい。抜くとき痛いのは、もっと正しい。


 本田正玄が後ろから追いつく。懐中電灯の丸い光が、濡れた足跡に在るの丸をもう一個、重ねる。

 「こっちは消えとらんのやな」

 「足跡は水じゃない。言い出しの跡」

 『あたし』が言う。

 言い出し。舌ではなく口のほう。夜は口の位置を大事にする。言い切る手前、吐息の輪郭。足跡は、息のフチでできる。


 川筋から離れるほど、跡は細く、軽くなる。軽いのは悪い兆候じゃない。むしろ、内へ入る準備が整っている合図だ。

 たまが一度だけ尻尾を立て、二股の右、館のほうへ先導する。猫の先導は、地図より信用できる。地図は昼間の制度、猫は夜の制度。


 煉瓦の壁、角度の違う屋根、影に沈んだ風見鶏。洋館は、眠っているふりをして目を開けている。窓の半分は板で塞がれ、残りは内側から布で塞がれている——つまり、どちらからも見ないやり方。

 鉄の門は、錆びている。錆は記憶に似て、触れた指先にだけ色を移す。

 『あたし』が門扉の隙間に提灯を差し込み、正玄は古い鍵束をやわらかく鳴らす。金属音は、夜にしては明るい。

 「逆再生風鈴の噂、知っとるやろ」

 正玄が前置きをする。

 「音が巻き戻る。戻る音は、忘れさせる」

 僕はうなずいた。

 忘れさせるのは、消去よりたちが悪い。最初から在らなかったことに書き換えるから。


 ——りん。

 館の二階が、控えめに頷いた。

 ——り、のあとに、ちが来るはずの、あのりんちが、今は来ない。

 『あたし』が細く笑う。

 「“ち”はまだ固い。門のこちらと向こう、フチの硬さ」

 フチ。境界線は、やわらかいときほど危ない。足が抜けやすいから。硬いときは、手が切れやすい。どちらも、血を見る。


 門を押す。押し返される。鍵は回ったのに、扉は開かない——よくできた矛盾。

 「開きかけで閉じかけ」

 『あたし』が診断する。

 「入口の礼儀だね。中に“呼び声”がいればこそ、入口は入口のふりをする」

 呼び声。昨夜から続く一拍のりん。

 正玄が光を門の蝶番に沿わせると、濡れていないはずの鉄が、内側から湿っていた。内側の湿りは、こちら側に向けた舌打ちに似て、感じが悪い。


 『あたし』は二股の跡の一本を拾い上げるように、足先でそっと踏む。濡れが音もなく広がり、門柱の根元に第三の足跡が出た。

 「増えた?」

 「重ねただけ」

 重ねた跡は、前に歩いた誰かの言い出しと、いまの僕らの言い出しを接続する橋だ。橋があれば、境界は質問に変わる。「本当に入るのか」と。

 たまが橋の上で一度だけ鳴き、尻尾で空気の縫い目を触る。縫い目はほどけず、ほどけないことが扉を押す。


 門が開いた。正しくきしむ。金属の在るが耳の内側を擦り、草冠の左右が同時に疼く。疼くのは、杭の深さがひと目盛り増えた合図。

 中庭は、乾いていた。乾いた地面に、濡れた足跡だけが行列している。雨が昇っている夜に、濡れが残るのは反則だ。反則は、ルールの内側にいる者の特権でもある。


 「足跡、細くなっとる」

 正玄の声は、数字に近い。

 『あたし』が囁く。

 「言い出しが小さくなってる。口の輪郭が遠い」

 遠い口。言い出しが遠ざかると、言葉は届かない。届かない言葉は、逆再生の燃料になる。

 ——りん。

 今度の一音は、中庭の真ん中で鳴った。音は、僕の名を呼ばない。けれど、僕の名の草冠だけを撫でた。右も左も、均等に。


 煉瓦の壁沿いに、三つのものが匂った。

 金泥の花の模様——指先に触れないのに、触れた気になるきらめき。

 水辺の詩句——文字にならないまま、口内で立ち上がるやわらかい刃。

 煙の渋み——真実の裸を直視させる、目の奥の熱。

 『あたし』は何も言わない。名を言うと、景色が壊れるのを知っているから。

 正玄も何も言わない。名を言っても、計算が合わないのを知っているから。

 僕は、言いかける。ご/め/んの順番に似た三拍子を、のどの手前で止める。謝罪は巻く。巻くのは、今じゃない。


 足跡は玄関前で途切れた。

 扉は重く、開きかけで閉じかけの中間を、礼儀正しく維持している。

 取っ手の上、小さな口の紋章。舌は刻まれていない。刻まれていない舌は、音を待つだけの器官だ。

 「在る」

 『あたし』が小さく置く。

 「許す」

 正玄が続ける。

 「戻さない」

 僕は、昨夜覚えた順序で結ぶ。

 扉の縁の硬さが、一瞬だけやわらいだ。

 ——りん。

 と、ちの半分。

 「半拍、進んだ」

 『あたし』は提灯を肩口で回し、火の縁を取っ手の影に滑らせる。影は、鍵穴の形をしていた。鍵穴は、鍵が来る前から鍵穴だ。運命論みたいで、気に入らない。けれど、今夜に限っては都合が良い。


 正玄が古鍵を差し入れる。金属の擦れる音が、逆再生で戻りそうになって、なんとか正順に踏みとどまる。

 「藤次郎」

 『あたし』が僕を見ずに呼ぶ。

 「怖い?」

 「当然」

「偉い」

 儀式の台詞は、杭をもう一ミリ深くする。気のせいでも、深くなる。夜は良いほうの気のせいに優しい。


 扉は、開いた。開いたままではなく、開きかけのまま、こちらが一歩だけ先に入るのを、礼儀として求める。

 玄関ホールの手前で、風鈴の影が上下を入れ替える。音はまだ鳴らない。鳴らないのに、鳴ったほうがいいという確信だけが先に届く。

 たまが一歩、中へ入る。足跡は、そこで消えた。

 「境界線」

 『あたし』は簡単に言う。

 「ここから先、時間は“音のほう”が主役。目は脇役。言い出しを間違えたら、混ざる」

 混ざる——僕と、誰かと、街の記憶と。

 混ざったものは、回収がむずかしい。正順に戻すには、裏メニューのさらに裏が要る。


 僕らは、まだ中に入らない。入る前を、きちんとやる。

 『あたし』が提灯の火で、二股の跡の端を示す。

 「ここで、外側のほうの私たちを畳む」

 畳まれるのは、余分ではない。余分を削ると、夜は痩せてしまう。畳むのは、折り目を作ること。折り目があれば、戻り方ができる。

 正玄が紙片を開く。朱で小さく三つの点。昨夜の欠けの記号が、今夜は余白の印に変わる。

 「準備、完了」

 『あたし』は僕の手の甲の一画を爪で軽くなぞり、扉の隙間へ向き直る。

 ——りん。

 いま度は、ちが、ほんの気まぐれみたいに半拍だけ付いてきた。


 玄関の空気が、こちらの肺を逆から満たす。息は吸うより先に戻る。戻るほうが先の呼吸。夜の作法は、なるべく逆説でできている。

 僕は頷き、名を外へ置いたまま、靴底で境界の線をまたぐ。杭は内ではなく外に打つ。杭が外にあれば、内部で迷っても、名がこちらを引く。

 『あたし』と正玄が続く。たまは最初で最後の顔で、こちらを見た。猫が顔を見せるのは、だいたい正解のときだ。


 ——ようこそ、境界線上の門へ。

 僕の耳は、誰かの声を聞いた気がした。声の主は名乗らない。名を名乗られたら、景色が壊れる。今夜はまだ、壊さない。


次話予告


門は開きかけで閉じかけ。音が主役に変わる場所へ、一歩。

逆再生のりんと、半拍遅れのちが、記憶の順番を試しにくる。

第64話「逆再生の間 ― 記憶を巻き戻す風鈴の響き」

見える前に聞こえる、忘れる前に思い出す。音の迷路は、足音より先にこちらを待っている。

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