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第62話 欠けの譲渡 ― 雨傘の内側で

 濡れない場所で、濡れている傘は、やっぱり変だ。

 変なのに、安心する。安心するのに、怖い。怖いのに、正しい。——夜の等式は、だいたいこうやって成立する。傘の内側でだけ雨が降り、外側では雨が上へ昇っていく。内と外の逆転。口と舌の位置関係みたいに、言葉が出る前に戻っていく。それでも『あたし』は提灯を肩口に掲げ、火の縁を傘の影へほんの少しだけ差し入れた。火は温度ではなく、明るさの跡だけを置いて引く。跡は、取引の署名だ。


 正玄は胸ポケットの紙片を軽く折り目で叩く。戻/今/一雨。今夜の約束の見出し。

 「取引は三つ。支払いは沈黙。領収は在る」

 端的な説明に、傘の内側でりんが一音転び、すぐちに巻き取られて消えた。逆さ風鈴の定型だ。けれど、消え際にりんが一拍だけ残る。残った一拍は、こちらに選ばせる余白だ。


 たまが僕らの前に回り、尾を立てて空気の縫い目を嗅ぐ。縫い目は、夜の書類の綴じ糸だ。糸が緩めば交渉はすべる。締まりすぎれば扉は現れない。ちょうどよさは、猫が先に嗅ぎ当てる。

 『あたし』が小声で合図する。

 「まずは一つ目。——“欠けの置き場”の確認」

 傘の内側で、雨が横へ走る。走った跡に、三つの薄い輪が浮いた。昨夜から持ち越した未払い——右上、下、中央の針孔。僕の名の楕円と位置が一致する。

 正玄が頷く。

「映すでいく。“移す”は使わない。影同士で重ねて、在る/許す/戻さないで固定」


 『あたし』は提灯の火をさらに細くした。火は針の頭ほど。影はそのぶん濃くなる。濃くなった影へ、僕は置いていた呼吸の一口を払った。支払い方は、喋らないこと。沈黙は、夜の手数料。

 「——在る」

 短い一語を影に落とす。右上の輪が、微かに重みを持つ。重みは杭の深さの単位だ。

 正玄が続ける。

 「——許す」

 許すは、欠けの輪郭のほつれを結ぶ働きをする。許しは優しさだが、夜では固定具でもある。

 僕は最後に、短く。

 「——戻さない」

 出たものを戻さない。外へ出た名は、外に在る。杭を外に打つ。内にしまえば湿る。夜は外置きを推奨してくる。


 一本目が映った。胸の奥の草冠が、左右で同じ重さを取り戻す感覚。僕はそのまま二本目の薄さへ、在る/許す/戻さないを輪唱のように重ねる。輪唱は傘の内側を巡り、外側の上昇する雨に混ざらず、石畳にも落ちず、川へ行かない。今夜の言葉は、流れない。


 残る中央の点は、最小なのに、頑固だ。

 「それが言い損ねの芯」

 傘の声は、夜の条文を読み上げる調子で乾いていた。

 「ごとめとん——どれかを口にすると、巻き戻しは燃料を得る。だから、こちらが“許す”を言って、向こうに言わせない」

 『あたし』が僕の掌の一画を軽く叩く。

 「藤次郎。怖い?」

 「当然」

 「偉い」

 儀式の台詞は、杭を一ミリ深くする。気のせいでも深くなる。夜は気のせいを良い方へ採用する。


 僕は口をひらき、声にならない形で三拍の沈黙を置く。沈黙は刃の鞘だ。鞘がない刃は、相手を傷つける前に自分を切る。

 『あたし』が火で合図。

 「——在る」

 僕は続ける。

 「——許す」

 正玄が締める。

 「——戻さない」

 点が、やっと温度を持った。温度は説得力だ。影の点は胸の奥の一点と一致し、そこがふくらみ、やがて凹み、ちょうど良い平らに落ち着く。平らは、名札を貼るのにちょうどいい。


 傘の内側で雨がやむ。音はしない。やむ音は、夜のほうが小さい。外では相変わらず、雨は上へ昇る。

 傘の縁で、薄い声。

 「譲渡、完了。ただし——注記」

 注記。夜の取引にはたいてい注記が付く。注記は条文より怖い。

 「譲られた欠けは、朝一番の光で検収される。検収に耐えられなかった分は、返送される。返送の送料は、沈黙」

 送料はまた沈黙か、と苦笑しかけた僕の肩を、『あたし』が指で軽く突いた。

 「静かに喜ぶ。静かに払う。夜の経理は、声が大きい人を嫌う」

 正玄は胸の紙片を一度だけ開き、戻/今/一雨の裏へ朱点を三つ重ねて、そっと畳んだ。朱は拭えない。拭えないことが、完了印になる。


 そこまでが取引の本体。

 ここからが、余白——夜は必ず余白で教えてくる。

 傘の持ち主は顔を見せないまま、柄を石畳に一度だけ当てる。音はないのに、当てたという事実だけが空気に残り、僕らの足元へ薄い輪を三つ置いた。輪は小さく、浅く、誰のでもない印。

 『あたし』は提灯をさらに細くして輪を覗き、片眉を上げた。

 「『あなたたちも誰かの欠けを譲る番が来るよ』ってこと」

 「貸し借り?」

 「在る/許す/戻さないでやる貸し借り。これはきれいなほうのやつ。汚い方は“取り立て”って言う」

 正玄は短くうなずく。

 「今夜の分は、きれい。……今夜は、ね」


 傘は、そこから離れないで離れた。位置は変わらないのに、距離が増える。影だけが遠ざかり、内側の雨だけが薄くなる。やがて骨だけの輪郭になって、輪郭のまま影へ戻った。

 残ったのは、静けさ。

 静けさは無音ではなく、鳴らないで待っている音の保留。夜は保留を数えるのが上手い。

 『あたし』は僕を見ずに訊いた。

 「藤次郎、名は?」

 「在る」

 胸の奥で杭が深さを取り戻し、草冠は左右揃って、ひと息ぶんの重みを持った。重みがある名は、風で飛ばない。飛ばないけれど、歩くのを邪魔しない重さ。名前の理想体重だ。


 主計町の段差は、さらに小さく、つま先一枚の優しさになっていた。優しさは優柔不断ではなく、こちらの歩幅を信じる硬さだ。

 川は上へ返り続け、逆さ風鈴はりんちの「ち」をたまに忘れ、りんだけを配る。配られた一音は、街の口の前で待機し、必要な場面でだけ「言い出し」を助ける。

 正玄が紙片を撫でる。

 「一雨の残り、明け方で落ち切る。落ち方は緩やか。巻き戻しは、人間の会話の速さで動く」

 『あたし』は提灯をくるりと回し、火を人の声ほどに戻す。

 「じゃあ、閉めに行こ」

 閉めるのは、取引の帳と、この章の扉。帳はズレなく、扉はちょっとズレて閉まる。夜の閉じ方は、わずかに余白を残すのが正解だ。


 洋館の前まで戻る。

 塗りつぶされた窓は、開きかけで閉じかけの中間を維持し、境界の厚みは“名の重さ”ぶんだけ固くなっていた。広縁の舌は名を覚え、口は言い出しを受け付け、手は影の蝶結びで緩み、時計は半巻で沈黙を一拍置く。

 条件は整った。

 残るは、芯の芯——巻く理由の、言葉になる前。

 でも、それは今夜ここで言うことじゃない。章の終わりを守るのは、夜の作法だ。


 『あたし』が窓の縁で火を一度だけ細くして、また戻す。

 「在る」

 正玄が続ける。

 「許す」

 僕は最後に。

 「戻さない」

 三語は合鍵みたいに軽く、重く、窓の開きかけをそのまま在るに固定した。開けない。閉じない。ここが入口であり続けるように。

 これで今夜、ここへ戻ってきても大丈夫。入口は入口らしくない顔で、正しく入口を務める。


 川風が一度だけ下へ吹き、僕らの頬を撫で、すぐ上へ戻った。

 『あたし』が、やっと僕の方を見る。

 「藤次郎、怖い?」

「当然」

 「偉い」

 褒められて、杭がまた一ミリ。夜のしおりが一枚。帰り道は、挟んだ枚数ぶん太くなる。


 こうして、一雨の勘定は締めに入った。

 借りは数字ではなく、在るで記帳され、沈黙で支払われ、許すで閉じられる。

 なら、この章も同じやり方で——在る/許す/戻さないを置いて、明かりを少しだけ太くして、次の扉へ。


欠けは映され、名は今夜ぶんの深さを得た。

入口は入口らしくない顔で固定され、街は“歩行速度の巻き戻し”に安堵して眠りに沈む。

——だが、眠らない扉がひとつ。



次章、舞台は館の奥——足音が過去と現在を行き来する場所。

第63話「洋館の足跡 — 濡れた二股の跡と、境界線上の門」

踏み込むたびに、影が二つに裂け、門は黙ってその境界を試す。

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