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第60話 止めていた言葉 ― 雨の芯を解く

 言葉にも芯がある。

 芯は見えないが、噛めば歯に当たる。夜の真ん中、街の呼吸が歩行速度へ落ちたいま、僕らはその芯を探しに行った。ヒントはすでに出揃っている——止める/在る/許す/戻さない。順番は覚えた。けれど、何を止めて、何が在り、何を許し、どこまで戻さないのか。そこがまだ、ぼんやりしている。ぼんやりは夜の得意分野だ。夜は、輪郭の授業でいつも最高点を取る。


 『あたし』は提灯を低く持ち、火の縁で石畳の継ぎ目を撫でる。火が痩せると、影が太る。太った影は、たまに自分の重さで音を立てる。りんち。

 正玄は胸ポケットの紙片を確かめる。戻/今/一雨。墨の黒は浅野川の匂いを吸い、紙は湿りを手放さない。契約は乾かないのが正しい。乾けば、忘れるから。


 広場の時計影に戻る。小さな穴は影のほうへ溶けて、代わりに影の縁がうっすら盛り上がっていた。穴は閉じ、ふちが語りたがる。順番の交代。

 『あたし』がしゃがむ。

 「芯は“雨に止められた言葉”。雨は降るだけじゃない、止めることもする。外へ出る前の口から、声を奪っていく」

 「雨が奪った言葉、を返す?」

 「借りっぱなしは良くない、って夜の倫理が言ってる」

 倫理は、夜になると少し親切になる。昼の倫理は混雑している。


 僕は穴の跡に指を添える。沈んだところはないのに、触ると凹む。言葉の重さは、触れた瞬間に増える。

 「返すといっても、どこへ」

 正玄が短く答える。

 「口へ。舌じゃない。口だ」

 舌は名を覚え、言葉を味わい、音を鳴らす。口は、言い出す場所だ。止められた言葉が帰る住所は、たぶん舌より手前。


 ゆっくりと、街の囁きが戻ってくる。

 ——「…言い…かけ…」

 ——「…やめ…た…」

 ——「…本当は…」

 中途半端の博物館。未完の文が、展示品のふりをして並ぶ。たまがその前で尻尾を一度だけ振り、展示物のラベルを鼻で剝がす。貼られていたのは「半刻」。半刻たったら、未完は未完のまま、自然に消える。

 「消える前に、ひとつだけ返す」

 『あたし』はそう言って、僕を見る。

 「何を」

 「藤次郎の“言い損ね”」

 心臓が、規則的に乱れた。

 「僕の?」

 「名前に関わるやつ。草冠が薄くなる原因は、たぶんそこにある。名は杭。杭は言った回数で深さが決まる」

 言った回数。確かに、今夜は自分の名を途中までしか言えない瞬間があった。藤の草冠が、言い出しの息に乗り切れず、片方だけ落ちる。落ちた分だけ、僕は自分の輪郭を見失う。


 正玄が紙片を少し傾ける。墨面が夜の光を吸い、戻/今/一雨が胸の奥へ翻訳される。

 「返す段取りは三つ。聞く/映す/渡す」

 『あたし』が続ける。

 「聞くのは、口に。映すのは、影に。渡すのは、雨に」

 雨に渡す? 取られた言葉を、また雨に渡すのか。

 「取り次いでもらうんだよ」

 『あたし』の言い方は簡単で、むずかしい。

 「雨は奪うけど、届けもする。郵便と泥棒が同じ制服を着ているのが、今夜」


 聞く。

 僕は口を、物理的に意識する。舌じゃない。歯でもない。唇の内側、息のはじまり。そこに、小さな空白がある。空白は名前を置きやすい。

 「——ふ」

 最初の摩擦音が、影の縁に写る。

 「——じ」

 母音が、遠くの風鈴にぶつかってりんを一個、落とす。

 「——ろう」

 最後の母音が、雨に拾われる。

 『あたし』が、言い足す。

 「在る」

 名は在る。言い切れた名は、在る。

 正玄が小さく頷く。

 「戻さないの“戻さない”は、名を引き戻さないって意味にもなる。外に出た名は外に在っていい。雨が返すのは、止められていた部分だけ」


 影の縁がふくらみ、そこに口の輪郭が浮かぶ。口は誰の口でもない。誰でもない口は、街の口だ。

 ——「藤次郎」

 呼ばれた。僕の名を、街が発音した。発音は正しく、草冠は落ちず、片方だけ薄くもならない。

 胸の奥が、正しく痛い。痛いのは、戻る途中だ。

 『あたし』が提灯を微かに揺らす。

 「渡すよ。言葉を雨に——配達してもらう」

 「どこへ?」

 「洋館の口。あそこは“止められた言葉”の投函口でもある」

 なるほど、舌は味見をし、手は巻き、口は投函を受け付ける。役割は重なるが、重なるほど分担は明確になる。夜の組織図は、矛盾を抱えたまま綺麗だ。


 渡す。

 正玄が紙片の裏へ小さく朱で丸を書く。合図の丸。一雨の端を示す目印。

 『あたし』は提灯の火を糸の影へ落とし、たまは川風を鼻先で割る。すると、上へ昇る雨粒が、ほんの一瞬だけ横へ逸れた。

 「今」

 声と同時に、僕は名前を短く、二度呼ぶ。

 「藤次郎。藤次郎」

 影の口が、僕の発音を複写する。雨粒が複写を搬送する。搬送先は洋館の窓の開きかけ。

 広縁の舌は、名を味見し終えている。残るのは、舌より手前の、言い出しの口だ。


 洋館へ向かうあいだ、街の逆再生はさらにゆっくりになる。歩行速度が立ち話になり、立ち話が相槌だけになる。相槌は、言葉の受け皿だ。受け皿が整ってから、言葉は注がれる。

 主計町の段差は、ついにつま先一枚ぶんのやさしさになり、橋の名板は一度だけ金属の肌を本気で見せる。風鈴の舌は上を向いたまま、りんちの「ち」を忘れ、りんだけを短く残す。

 『あたし』が横目で訊く。

「怖い?」

 「当然」

 「偉い」

 儀式は、道標の継ぎ足しだ。増やしたぶん、迷っても戻れる。


 洋館。

 塗りつぶしの窓は、開きかけで閉じかけ。境界の厚みは、名の重さと同じだけ増減する。

 『あたし』は窓辺で提灯を細くし、光ではなく明るさの跡だけを通す。

 「口に届けるよ。舌じゃなく、口へ」

 正玄が紙片を胸に押さえる。戻/今/一雨の順番が、僕の鼓動と少しだけ同期する。

 たまが尾を立て、窓の外の空気を一分、内側へ招き入れる。猫の招きは、世界の秩序にやさしい裏口。


 配達。

 上へ昇っていた雨粒が、窓の前で横へ滑り、下へ落ちるふりをしたあと、ふいに止まる。止まったところが、口。

 ——「藤次郎」

 もう一度。今度は、中から呼ばれた。

 僕の名は、僕に戻ってこなかった。僕の外に、在った。

 『あたし』が満足そうに息を吐く。

 「戻さない、成立。出た名前は、出たまま在る。止められていた部分だけが返った」

 胸の奥の草冠が、左右そろって重みを取り戻す。重みは、安心の単位だ。


 それで終わり? と、思った瞬間、窓辺の開きかけがわずかに増えた。

 言い損ねは僕だけのものじゃない。街にも、館にも、言い損ねがある。

 ——「……ご……」

 ——「……め……」

 ——「……ん」

 短くて、世界で一番よく使われる謝罪の音節が、順不同で届く。

 『あたし』がきっぱり首を振る。

 「それは言ってはいけない言葉。巻く理由になる」

 「どうして」

 「“ごめん”は、時間を巻く免罪符になりやすいから」

 謝罪は必要だ。でも、夜のなかでは使い方を間違えると、巻き戻しの燃料になる。

 正玄が低く言う。

 「許すは、こっちで言う。向こうに言わせない」

 僕はうなずき、窓へ向かって短く告げた。

 「許す」

 りん。

 梁のどこかで、一音。正順。

 窓の開きかけは、そこで止まった。ほどけすぎもしない、閉じすぎもしない、中間の礼儀。


 静けさが一枚、降りた。

 静けさは、夜の合格点だ。

 『あたし』がこちらを見もせずに問う。

「藤次郎、草冠は?」

 「左右とも、ちゃんと在る」

 「偉い」

 重ねた儀式が、重ねた分だけ効いている。一雨の貸しは、たぶん小雨くらいに縮んだ。


 帰り道、僕らは表を拾う。

 看板の貼り跡の朱は、在るの丸を残し、段差の角には半刻の白粉が薄く乗る。

 逆さ風鈴は、りんちの「ち」を時々忘れ、りんだけを配る。配られた一音は、口の前で待機し、「止めていた言葉」のあいだを埋める。

 名が在る。言葉が在る。許すが在る。戻さないが在る。

 在るが増えると、夜は軽くない方向へ落ち着く。軽くないのは、いい。軽い夜は、どこへでも転がるから。


 正玄が紙片を一度だけ開き、すぐ畳む。

 「契約は継続。一雨は、明け方には降り切る」

 『あたし』は提灯を人の声ほどに太らせ、たまは尾を下ろして歩幅を合わせる。

 僕は胸の奥で、自分の名をもう一度だけ——正しく言ってみた。

 「藤次郎」

 夜は、それだけで頷いた。


次話予告


止められていた言葉は返り、名は“外に在る”ことを覚えた。

残るのは、雨返しの勘定——借りと返しの差額だ。

第61話「一雨の勘定 ― 名の欠けを数える」

増えた“在る”と、薄れた“季節”。どこまで支払えば、夜は朝に変わる?

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