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第56話 街角の囁き ― 正玄の示唆

 洋館へ向かう途中で、僕らは寄り道をした。といっても、僕らが道を外れたのではなく、道のほうがこちらに寄って来たのだ。巻き戻しの夜では、目的地までの最短距離は、いつでも目的に媚びる。通りが勝手に短くなったり、角が余計に増えたり、昨日の位置に置き忘れられた路地が「ここだよ」と袖を引いたりする。

 『あたし』は提灯の火を細く絞って、灯りの輪で路面の機嫌を測る。火が痩せれば闇が太り、太った闇は気前よく輪郭を分け前にくれる。正玄は歩幅を一定のまま耳を澄ます。彼は**会話の“ひっかかり”**を拾う名人だ。言い間違い、言い直し、語尾の迷い。巻き戻しのなかでは、それらが場所の本心を露出する。


 「囁きが増えてきた」

 正玄の合図で、僕は足を止める。

 夜気の層に、細い会話がいくつも浮いている。視界に人影は少ないのに、声だけが路地の曲がり角ごとに引っかかって震えている。店じまいの戸締まり音に混じって、口元だけが動き、内容の半分だけが先に漏れる。

 ——「あそこは広……」

 ——「……縁の下は……」

 「広縁」の二文字が、ばらばらに現れては合流して消える。

 『あたし』が鼻で笑う。

 「当たり。間取りの名は、巻く側が真っ先に思い出す」

 「正玄はどう拾った?」

 「茶屋町の角の八百屋。店主の声だけ、十年前の温度だった」

 声が年を取り、若返る。巻き戻しの副作用。過去形の喉と現在形の舌が同居すると、言葉は“ひっかかり”を作る。


 道の両側で、巻き戻しの例が目に見えて増えた。

 ポスターは糊から自ら剥がれ、角から角へ折り目が移動していく。黒板のチョーク字は書き順を逆走し、最後の一画だけが未練がましく残る。氷の暖簾は、今日三回目の「仕舞い」をやりかけて、やっぱり見せびらかすように揺れている。

 足元の石畳は、磨かれた部分から鈍い部分へと若返り、段差の位置が半歩だけ昨日に戻る。昨日という単語は便利だ。実際の昨日ではなく、この街が昨日だと思っていた昨日を指すからだ。


 『あたし』は提灯を上げ、八百屋の格子越しに山積みの瓜を見る。頂上の実ほど色が淡く、谷間に落ちた実ほど濃い。熟れ戻り、という言葉があるなら、今夜にぴったりだ。

 「ここで“広縁”を舌に刻むのはまだ早い」

 『あたし』は首を振る。

 「巻く側にもっと寄ってから。今は証拠を集める」

 証拠は、僕らにとってしおりの別名だ。帰り道を失わないために、音や匂いの“折り目”を数カ所、街に挟んでおく。


 囁きはさらに種類を増す。

 ——「雨が戻ると……」

——「名前が薄く……」

 それは僕自身のことにも聞こえた。藤の草冠が時々、片方だけ薄くなる。契約の一雨ぶん、名の温度が抜ける。僕は反射的に掌を握り、爪の跡で落ち着きを作る。

 『あたし』は横目で僕の掌を見て、あえて触れずに進む。触れない配慮は、ときに言葉より濃い。


 角をひとつ折れるたび、時間の重心がわずかにズレる。

 赤信号は黄へ戻り、黄は「未点灯」という段階に縮む。掲示板の「本日定休」の紙は、剥がす前のセロテープだけになり、やがて最初から貼られていなかった顔をする。街灯の一基だけが白熱球に戻り、光の色温度が局所的に古くなる。

 古さは匂いを連れてくる。ワックス、薄い紙、結露の前段階。『あたし』が言っていた——「懐かしさは光より先に来る」。そのとおり、鼻の奥だけが先行して、目と耳は遅れて追い付く。


 正玄がふいに足をそろえた。

 「次の角の手前——下を見る」

 言われて俯くと、石畳に細いひびが走っている。乾きかけの墨線のように黒く、けれど水分はない。水のない濡れ跡。矛盾の標本。

 『あたし』がしゃがみ、提灯を近づける。火は熱の代わりに時間の厚みを照らす。ひびの縁だけが凹んで見え、そこに微かな振動があった。

 「これ、声の通り道だよ」

 『あたし』はひびの端へ耳を寄せるかわりに、石に自分の声を当てた。

 「——もしもし」

 返事はなかったが、地面の下で泡が一つ弾け、遅れて言葉の欠片が浮かぶ。

 ——「……間取り……」

 ——「……広縁……」

 はっきりした。

 正玄は指先でひびの駒を押さえるみたいに軽く触れ、振動を腹で受け止める。

 「ここから洋館へ向かってる。声は光より早く届く。だから、先に“名”が漏れる」


 通りの奥で、二人連れの会話が時差を伴って交錯した。

 「ここ、昔は——」

 「——縁側が——」

 片方は過去の側から、もう片方は過去形を忘れた現在から。

 『あたし』は提灯で合図を出す。火を三度、短く瞬かせて、たまを呼ぶ。

 たまは路地の壁と壁の接線を嗅ぐ。猫の嗅覚は時間にも通じる。角に溜まる“昨日の匂い”を嗅ぎ分け、ひびの走る方向と一致する方へ尾を立てた。

 「右、川沿い。三十歩で段差。そこから、五歩戻って二歩左」

 『あたし』の“距離の言い方”は、いい加減に聞こえて正確だ。僕はそのまま真似て歩き、言われた段差の手前で止まる。まさにしおりの二つ目——主計町の段差の手前だ。今夜の段差は、半拍ぶんだけ若い。


 「“広縁”を舌に刻む時、部屋の側が自分で名乗れると早い」

 正玄が言う。

 「でも、名乗りはたいてい恥ずかしがる。だから、他人の会話に紛れて自分の名を漏らす。それがこの囁き」

 「名乗らせるには?」

 「誤解を置く。言い間違いを、わざと耳に入れる」

 『あたし』が肩を竦めた。

 「つまり、わざと間違えるのが正解」

 会話の手品。始まる前に種を明かされていても、成功する類のやつだ。


 僕らは角の八百屋へ戻り、格子越しに店主へ声をかけた。

 『あたし』がさっそく、わざとらしく聞こえるか聞こえないかの加減で言う。

 「ここの縁側、まだあります?」

 店主は暗がりで目を瞬かせ、「広縁ですよ」と反射的に訂正した。

 その瞬間、地面のひびが薄く明るくなった。声の通り道が、正しい名の形で共鳴したのだ。

 さらに『あたし』は重ねる。

 「広縁って、玄関の横の縦長の収納でしたっけ」

 「違います、外と中の間で——」

 ——間、と口に乗った音が、ひびの上で小さく跳ねる。

 正玄の口角が少しだけ上がる。

 「ほら、間が動いた」

 “広縁”は間そのもの。間の字を正しく転がすだけで、部屋の側が自分の輪郭を思い出す。思い出すと、巻かれていた時間がほんの少し緩む。


 囁きはその後もあちこちから集まってきた。

 閉店後の喫茶の奥から——「窓際の広…」。

 橋のたもとの散歩客から——「緑の縁が見える」。

 言い間違いが言い直され、誤解が訂正されるたび、地面のひびは擦りガラスみたいに磨かれ、通り道の方向ははっきり洋館を指した。

 『あたし』は提灯の火をさらに細くし、息をそっとかけて、夜の目盛りを一つずらす。

 「拾えた言葉は、あとで“舌”へ写す。いまは——」

 「入口だな」

 正玄の視線の先に、壁の塗り直し跡があった。昼間はただの補修痕にしか見えない矩形。けれど今夜は、窓だったものの気配を残し、その中心にだけ風が入らない。

 「入口は、入口らしい顔をしない」

 『あたし』が定型で呟く。

 「声の通り道がここへ集まる。なら、ここが口だ」


 僕は壁へ手を当てる。冷たくはない。温度の単位が失われた冷たさ。耳を近づければ、コップ越しに聞く隣室みたいに、遠くて近い声がした。

 ——「……ひ……ろ……え……ん……」

 ——「……ひ……と……ま……では……ない……」

 広縁は人間の部屋じゃない。外と中の“間”。

 『あたし』が、僕の掌の一画を軽くなぞる。

 「刻むのは、ここじゃない。洋館の舌でやる」

 正玄が胸ポケットの紙片を確かめる。戻の表、今の裏。片隅の一雨はまだ湿っている。

 「言い間違い、三つ。訂正、三つ。材料は揃った」

 「足りないのは?」

 「沈黙。最後のひとかけらは、喋らないで手に入れる」

 沈黙は、夜の硬貨だ。音で払う料金所を、沈黙一枚で通り抜ける。


 たまが先に進み、壁と地面の接線をすべるように曲がる。鼻先が、空気の薄いところで止まった。そこだけ酸素が昨日で、湿り気が明日だ。

 『あたし』は提灯を腰の高さに下げ、僕と正玄を目で促す。

 「行こう。囁きは道標を全部、出してくれた」

 僕は頷き、最後にもう一度だけ地面のひびへ耳を傾ける。

 ——「……ま……」

 “間”の母音が、確かにこちらを向いた。

 位置が決まった。向こうが、僕らのいる“今”を了承した合図だ。


 川沿いの風は、上へ昇りながら低くなる。逆再生の夜は、物理より礼儀が先に来る。礼儀を守れば、扉は開く。礼儀を欠けば、扉は二度と同じ場所に現れない。

 名を呼ぶのは誰でもない、どこでもない。街だ。

 街が僕の名前を、欠けた草冠ごと呼んだ。

 僕は息を吸い、吐かずに歩き出した。吐くのは、洋館の口の前でいい。そこへ、いま、囁きが一本の道になって通じている。


次話予告


囁きは一本の“声の通り道”に束ねられ、塗りつぶされた窓の跡で止まる。

舌へ刻む名は「広縁」。扉は入口らしくない顔で待っている。

第57話「声の通り道 ― 洋館への入口」

開け方はもう聞いた。開く勇気だけ、こちらで用意する。

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