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第55話 風鈴の逆再生 ― 時間を巻き戻す音

 巻き戻しは、早送りより静かだ。

 音は減り、影は太り、匂いだけが濃くなる。雨返しが再開した瞬間、街の呼吸は「吸って吐く」から「吸って吸う」に戻り、僕の鼓膜は、時間の逆行を“耳鳴りじゃない耳鳴り”として受け取った。りんち。さっき正順で一度だけ鳴った風鈴が、再び逆向きに語尾から話し始める。


 「取りに行くよ、巻き取り端」

 『あたし』が提灯の火を細くし、先に立つ。

 正玄は、胸ポケットの紙片を確かめた。表は戻、裏に今。さらに今夜、片隅に小さく一雨の朱。契約はまだ温かい。

 「戻りすぎる前に“端”を押さえる。場所は——」

 「しおりの三点の、真ん中」

 『あたし』が即答する。

 橋の名板の裏、主計町の段差の手前、逆さ風鈴の根元。三角形の重心。地図に定規を当てなくても、体が向かう角度を知っている。呼ばれているから。場所に。


 道すがら、逆再生の気配は増していく。

 電柱の広告は紙を自らのりから剥がし、チョークの看板は描線を吸い込み、氷の暖簾は一日に二度しか出ないくせに今日は三度目をしまい始める。人影も少しだけ巻き戻り、さっき交わしたばかりの挨拶が「どうも」に戻り、その「どうも」がうなずきの前段階に縮む。

 「匂いが先だね」

 『あたし』が言う。

 「音より、光より、先に戻る。だから、懐かしくなるのはいつだって早い」

 懐かしさにも速度があるらしい。僕は掌の一画——借りて返したはずの一画——に無意識で触れた。そこだけ、季節が薄い。夏が一雨分、遠い。汗の温度の記憶が、指先で空回りする。


 たまが尾を立てて先導する。猫の足音は巻き戻らない。猫は時間に借りがない。借り物がないなら、返す必要もない。羨ましい。

 「正玄、舌に刻む名って、今夜は何だ」

 問えば、男は一拍置いて、街の上を見上げる。

 「動かない名だ。人名じゃなく、橋の名。地名でもいい。時間をいちばん弱めるのは、よく呼ばれて、あまり動かない名」

 “動かない名”。呼び慣らされた名。

 『あたし』が頷く。

 「今夜は橋。三つのしおりの一つ目に合わせる。名板の字を“舌”へ写す」

 僕はうなずいた。人の名は揺れる。場所の名は、揺れても形が保たれる。揺れに強い名前。巻き戻しの中で杭になるやつ。


 重心へ近づくほど、逆再生ははっきりする。

 水たまりは満ちながら浅くなり、足跡は現れながら消え、信号は赤に変わってから黄に戻る。僕の脳内では、因果関係が折り紙みたいに山折りと谷折りを繰り返し、理解が遅れても構わないという顔をしている。

 「急がないと?」

 「急ぎすぎないことが急ぎ方」

 『あたし』の論理は、速度の定義から逆さまだ。だが、今夜はそれが正しい。


 重心は、小さなポケットパークだった。観光地図では省略される規模の四角い空き。ベンチが二脚、街路樹が一本、手洗い場が一つ。どれも“昨日の配置”に少しだけ戻っている。ベンチの向きが半歩ぶんだけ違う。木の支柱の縄が新品。手洗いの蛇口は、ひねる前に濡れている。

 そして——

 空中に糸が一本、張られていた。

 見える、というより、見えてしまう。まっすぐで、少しだけたるんでいて、触れれば切れそうで、触れなければ切れなさそうな、時間の巻き取り端。

 「お出まし」

 『あたし』が息を呑む。提灯の火が、糸の近くで一度だけ逆立つ。

 正玄は、ポケットから薄い金属板を取り出した。穴の開いた小さな名板。橋の銘の写し。拓本の即席版。

 「これを“舌”にする。藤次郎、刻むのは——橋の字」

 「本物の名は?」

 「今夜は言わなくていい。言葉は力だから、使うのは必要最小限」

 名前を口にしない契約。僕はうなずき、小板を掴んだ。金属は冷たくない。温度の単位が、また足りない。


 りんち。

 逆さ風鈴が、見えない天井から一本、降りてきた。舌はまだ上を向いている。

 『あたし』が提灯を下げ、影の角度で舌の位置を見定める。

 「合図は三つ」

 正順で鳴った昨夜と同じ構え。けれど、今夜は逆再生の只中だ。

 正玄が頷き、僕は名板の縁に指をかけた。刻むというより、写す。橋の名の稜線を、舌の裏側に、やわらかく押し当てる。

 押し当てると、糸が鳴った。

 音はしない。けれど、耳の後ろで“鳴る”。

 巻き戻しのスピードが落ちる。

 遡行していた光景が、再生と逆再生の間に一瞬だけ間を持つ。

 「もう一つ」

 『あたし』の声に合わせ、僕は橋の名の二文字目を押し写す。

 糸のたるみがわずかに増える。

 たまが前足で空を掬い、上へ昇る雨粒を一個、つかんだ。猫の掌で雨が止まる。たまは満足げに鼻を鳴らし、雨を放す。雨は落ちない。戻らない。中間に留まる。

 「最後」

 正玄が短く言い、僕は三つ目の字の角を——押し込む。

 舌が、下を向いた。


 りん。

 正順の一音。

 巻き戻しのなかに、ただ一つだけ、前向きの音が刺さる。

 その瞬間、糸が手触りを持った。

 見えたものが、触れられるものに変わる。僕は両手でそっと掴む。鋼みたいに硬いのに、髪の毛みたいに軽い。矛盾は、いつも同居する準備がいい。

 『あたし』が支える。正玄が固定する。たまは糸の影を、後ろ足で一度だけ蹴って座る。役割分担が美しい。

 「結ぶ場所は?」

 「昨日と今の、境目」

 『あたし』はベンチの足に手を当て、木の根本へ視線を落とし、手洗いの蛇口を一周して戻ってきた。

 「ここ」

 ポケットパークの中央。敷石の継ぎ目が半拍ずれている場所。僕らが三つ目のしおりを置いた方角と、橋の名板の裏へ向かう直線が、ちょうど交差する点。

 僕は、糸を蝶結びにした。

 蝶結びは好きだ。解けることを前提にした結び目。戻りすぎたら、解けばいい。戻らなすぎたら、もう一度結ぶ。時間に対して僕らが持てる数少ない礼儀。


 ——静かになった。

 巻き戻しの速度が、人間の歩行速度に落ちる。

 落ち葉は上へ昇る途中で一拍、踊り、提灯の火は逆立ちをやめ、雨は上へ行きながら重くなる。

 「効いてる」

 正玄が短く言い、紙片を指で弾く。戻の字が、胸の中で一回転した。

 『あたし』は糸の結び目に息を吹く。

 「これで、巻きすぎは防げる。——でも、巻き戻しは止まらない」

 止めるのは契約で半刻だけだった。今はもう、再開済み。

 「次は、巻く側に近づく」

 『あたし』が言う。

 「誰が巻いてる?」

 「“誰”じゃなくて、どこ。洋館の、時間の収納」

 来た。

 胸の奥で、忘れていた“既視”が目を開ける。二股の足跡の先で見た、閉ざされた窓辺。

 正玄は、名板の写しを舌から外し、小板を僕に返す。

 「刻み直す準備を。——もう一つ名が要る」

 「今度は?」

 「部屋の名。間取りの呼び名。生きてるけど動きにくい名。『床の間』『納戸』『広縁』。どれか、向こうが覚えているやつ」

 “向こう”——洋館。

 僕は、口の中で名前を転がした。

 床の間、納戸、広縁、仏間、縁側、次の間。

 どれも知っている。けれど、どれも僕の知識だ。向こうが覚えている自分の名は、どれだ。

 『あたし』が、横目で僕を見る。

 「広縁、じゃないかな」

 「理由は?」

「外と中の“間”だから。戻ると残るの両方を覚えやすい」

 納得した。いや、納得を先に決めておく。納得は後追いでもだいたい役に立つ。


 ポケットパークを離れる時、糸の結び目が後ろ髪を引いた。名残惜しさは罠だ。罠は、用心深い人間ほどよく掛かる。

 「藤次郎、名の欠けはどう」

 『あたし』がさりげなく訊く。

 「“藤”の草冠が、時々片方だけ薄い」

 言いながら、胸の奥でひやりとする。名が揺れるのは、自分が揺れるのと同義だ。

 正玄は肩で笑い、前を見た。

 「一雨だ。今夜のうちに降りきる。降り切れば、明日は戻る。戻らないなら、戻させる。——交渉は続いてる」

 交渉は、終わらない。終わらせない限り終わらない。僕らがそう決めた。


 主計町の灯が、古い昼の色に変わる。

 川風に紙灯籠が揺れ、紙の舌がどれも上を向く。

 “巻く側”に近づいている証拠だ。音が先に到着し、意味が遅れて到着する。

 『あたし』は提灯を斜めにし、正玄は上衣のボタンを一つ外し、たまは背筋を伸ばす。

 僕らは、洋館へ向かう。

 入口は、きっと、入口らしい顔をしていない。

 けれど今夜は、入口の舌に、広縁の名を刻みに行く。

 時間を巻き戻す音の中で、戻りすぎない方法を身につけながら。


次話予告


音はもう、向こうから喋り始めている。

洋館は、部屋の名を一つずつ思い出し、忘れ、また思い出す。

第56話「街角の囁き ― 正玄の示唆」

巻く側に近づくための手掛かりは、街角の他人の会話に混じっている。正玄が拾うのは、どの“言い間違い”?

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