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第53話 裏メニュー再来 ― 隠された入口

 入口は、入口らしい顔をしていない。

 玄関みたいに堂々としていないし、鳥居みたいに境界を主張しない。むしろ、見られたくないものほど入口になりがちだ。たとえば、塗りつぶされた窓の跡とか、路地の縫い目とか、言い訳の行き止まりとか。

 今夜の入口は、その全部を少しずつ混ぜた味がした。


 壁に「窓だったもの」の矩形が残り、そこに入口の影が差している。影だけなのに、こちらの足の裏を引っ張る重みがある。『あたし』は提灯を低く掲げ、影の縁を火でなぞる。火は紙を焦がすみたいに、影の端をやわらかく丸めた。

 「割れ目は、こっち」

 『あたし』の指先が、空中に糸をつまむように止まる。

 正玄は、胸ポケットから抜いた紙片をもう一度見せる。墨で一文字、戻。

 「戻すための入口だ。通ると、何かが帰る。……何が帰るかは、通ってからわかる」

 「遅くない?」

 「遅いよ。夜はだいたい、遅れてから説明する」


 僕は、掌に残る一画を確かめる。ひやりと冷える借り物の線。これを返したら——帰るのは、誰だ。

 『あたし』は僕の目を見る代わりに、僕のまばたきの回数を数えたみたいに一度だけ頷く。

 「藤次郎。怖い?」

 「当然」

 「偉い」

 儀式の定型は、いつ聞いても少し救われる。

 たまが、入口の影を避けるように、壁と地面の接線に沿って進む。猫にとって、影は液体だ。濡れたところを歩かないための技術が、すでに体に入っている。


 影の向こうは、家の裏間取りをそのまま押し花にしたみたいな空間だった。声が平たく響く。音に奥行きがなく、匂いが一拍遅れて届く。柱の代わりに風鈴が吊るされ、舌がすべて上を向いている。

 りんち。

 音はしないのに、耳が鳴った。

 「——『あたし』」

 名を呼ぶより先に、呼び方が決まる。僕は彼女を『あたし』と呼ぶ。その表記は、名前の輪郭が少し欠けていることを丁寧に包む紙だ。包み紙は剥がさない。贈り主の前では、なおさら。

 正玄が風鈴の列に指を差し入れ、一本だけ舌を下ろす。金属ではない。紙でもない。名残だ。

 「ここ、二度目だな」

 正玄の声は、壁の内側で少し、季節外れに響く。

 『あたし』は火を細くして、言葉を小さくする。

 「裏メニューの入口は、増えるからね。隠すほど、増える。増えるほど、見つかる。見つかるほど、隠したくなる」

 悪循環は、循環しているうちは生きている。止まるときが一番怖い。


 床に古い畳が貼り付いたまま意地を張っている。踏めば軋むが、沈まない。足裏が拾うのは、湿りではなく既視だ。見たことのある感じ。昨日でも一昨年でもない、もっと前。

 「誰か、いる」

 言った途端、畳の目に沿って濡れた足跡が現れた。さっきの路地の二股と同じ癖で、ここでも二筋に分かれる。片方は板間へ、片方は納戸へ。

 『あたし』は板間を、正玄は納戸を、見る。僕は、僕の名前を呼ぶ側を見た。

 「——藤次郎」

 呼ばれるたび、名前の角が丸くなったり尖ったりする。器が僕ではなく場所である以上、そこに注がれた僕の名は、器の形に従う。

 足音が続く。板間に置かれた卓袱台の下、白い頁が一枚、折れた。折り目がゆっくりほどけ、紙の影が立つ。

 「本?」

 「本の形をした誰か、だね」

 『あたし』の言い方はいつも、言い切らないところに肯定がある。

 たまが短く鳴き、紙影に鼻を押し付ける。押し付けられない。鼻先が空中の一枚に阻まれて、そこだけ空気が紙の手触りになった。


 正玄が、納戸の前で立ち止まる。

 「こっちは“返ってこない声”。ほっとけば腐る。開ければ——」

 「戻る?」

「戻らない。けど、戻りたがる」

 戻りたがる何かは、だいたい、誰かの名を借りる。借りて、鳴る。借り物の音色は、借りた側より返される側がよく覚えている。僕は掌の一画を握り込み、痛みで判断を確かめた。まだ借りている。まだ返していない。

 『あたし』は板間へ進む。卓袱台の下の紙影は、正式な文章の手前で言葉を止め、余白ばかりを増やしている。

 「読める?」

 「読めない。けど、読めないまま存在する文字って、ある」

 「あるね」

 『あたし』が微笑った瞬間、影の入口が少しだけ閉じた。

 ——急がないと。

 急ぐと、間違える。間違えると、余計に時間がかかる。夜はだいたい、そういう仕組みを誇っている。

 正玄が、短く指を鳴らした。

 「交渉だ」

 「誰と?」

 「場所と。ここが一番、話が早い」


 僕らは卓袱台を挟んで座り、見えない相手に向かって座布団を敷いた。座布団の重みで畳が抗議する。古い家は、物言いが多い。

 『あたし』が提灯の火に息をかけ、炎を細く三つに分ける。三つの火が、三人の喉になった。

 「今夜しかない」

 正玄が言い、火が一つ、頷いた。

 「今夜だけは、返す」

 『あたし』が言い、火がもう一つ、瞬いた。

 僕は、残りの火に問いかける。

 「——誰を」

 火は、答えない。代わりに、卓袱台の上で濡れた足跡が逆立った。足跡は足を持たずに、足の記憶だけで歩く。逆立った軌跡は、天井の梁へ昇り、梁の上で止まる。そこに吊るされた風鈴の舌——紙の名残が、わずかに震える。

 「戻りたがってるのは、ここだ」

 『あたし』が言う。「人じゃなくて、間取り。間取りの“昔”。」

 部屋は、時々、以前の並びに戻りたがる。押入れだった面が窓に、床の間だった奥が入口に、柱の位置が一手分だけ違う「当時」に。住まわれ方の記憶が、住む者より根強いときがある。

 「だから、入口が増える。隠すほど、増える。……隠れていた配置が、表に出ようとする」

 正玄は頷き、紙片の戻をゆっくり裏返した。

 「今夜は“戻りたがり”の肩を持つ。代わりに——」

 「代わりに?」

 「“呼び声”には、対価を払ってもらう」

 僕は、掌の一画がうずくのを無視して、口を開いた。

 「何を払わせる?」

 『あたし』は、提灯の火を指で一度つまんだ。

 「ここにある“余白”。読み上げられない行間。——それが、街のどこかに溜まりすぎてる。少し、抜く」

 余白を抜く。余白は静けさで、静けさは呼吸で、呼吸は延命だ。延命から余白を引けば、何が残る。

 「死期を早める場所もある」

 正玄は淡々と言う。

 「けど、ここは違う。膨らみすぎた“昔”が、今を圧してる。少し、戻す。戻りたがる通りに、戻す。……それで、夜の取引は合う」

 言っている内容は冷たいのに、喉の温度はどこかあたたかい。理屈が遅れてやって来て、今度だけは、間に合っている。


 交渉は、静かな足踏みで進む。火の高さが一目盛り、また一目盛り、合意に近づく。影の入口は、開けすぎず閉じすぎず、こちらの呼吸と相手の呼吸が重なる角度を探している。

 『あたし』は卓袱台の端に、ひとだまコインを置いた。さり、と文目が広がる。

 「割前勘定」

 「半々?」

 「——今夜は、七三。こっちが七、向こうが三」

 「強気だな」

 「入口は向こうの都合で出来た。なら、払うのも向こう」

 火が、納得するように揺れた。紙影が、了解するように沈んだ。畳が、年齢相応にきしんだ。

 正玄が、梁の風鈴の舌に息をかける。

 りんち。

 音の順序が、ようやく正面を向く。最初が最初に、最後が最後に戻る。

 「決まりだ」

 正玄の声に合わせ、入口の影が入口そのものに変わる。影でなくなる直前の、短い猶予。

 「藤次郎」

 『あたし』が僕の手をとる。掌の一画が、静かに返却される。ひやりが、僕の皮膚から場所へ移る。

 「借り物は返した。——戻る準備、できてる?」

 「わからない」

 「わからない、は、行ける」

 僕は頷いた。頷きは意思だ。作法でも、恐れの代用品でもない。

 入口は、こちらの身振りで形を変える。大股でいけば狭く、すり足でいけば広い。僕は、靴紐を一度締め直す。たまが先に飛ぶ。『あたし』が火を掲げ、正玄が紙片を折り、戻の裏に小さく今と書き足した。


 入口を、くぐる。

 空気が、二度、書き換わる。

 廊下の角度が、一度、正される。

 雨返しの糸が、天井から、降りてこない。

 代わりに、床下から、上がってこない。

 どちらでもなく、ただ、在る。

 ——戻ったのは、家。

 ——帰されたのは、余白。

 部屋が深呼吸をひとつすると、通り抜けた入口はもう影に戻り、影は窓の跡へ吸い込まれて、跡はただの壁になった。


 静かだ。

 静けさの重さが、七三でこちらに乗る。肩が沈むほどではないが、背筋で受け止めるにはちょうどいい。

正玄が外套の襟を直し、短く言う。

 「まだ、続きがある。雨返し、そのものと話す番だ」

 『あたし』は提灯をふっと吹き、火を細く一本に戻した。

 「入口は戻した。——次は、条件」

 僕は、壁に手を当てる。壁は、昔の手を覚えている。そこに積もっていた余白は、もうほとんどが街へ戻された。街はきっと、静かになる——ほんの少しだけ。

 「行こう」

 『あたし』が言い、たまが尾を立て、正玄が口の中で季節外れの言葉をひとつ転がす。

 夜は、これから具体的になる。抽象は、約束した分だけ剥がれていく。

 僕らは、家から路地へ、路地から雨の出口へ向かった。


次話予告


戻るべきは部屋か、雨か、名前か。

雨返しは、代償なしでは止まらない。

第54話「雨返し交渉 ― 怪異の条件」

払うもの、払わせるもの、その境目へ。

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