第52話 濡れた足跡 ― 路地裏に続く呼び声
足跡は、濡れているのに乾いていた。
意味がわからない? こっちだってわからない。けれど、目に見える事実はしばしば理解の先回りをする。石畳の上にぽつぽつ連なる水の楕円は、月光を吸って青く鈍り、次の瞬間には紙みたいに薄くなって、風が吹けば裏返りそうに見えた。
「見えるだろ」
『あたし』が提灯の火を細く絞る。光が痩せると、闇が太る。太った闇に、足跡は二列——いいや、二筋。片方は川沿いへ。もう片方は、町屋の影のさらに奥へ。
「二股か」
僕の声は、慎重さと面倒くささを半分ずつ混ぜていた。
「どっちも“正解”、どっちも“誤答”。裏メニューはいつもそう」
『あたし』はあっさり言う。それから、足跡の縁にしゃがみこみ、人差し指で輪郭を撫でた。指先が濡れない。濡れないのに、冷える。温度の単位がひとつ足りない。
「右が“声”。左が“呼び声”」
「どっちも声だろ」
「違うさ。声は喉から出る。呼び声は場所から出る」
場所から。さっき、『あたし』は“場所が僕の名前を呼ぶ”と言った。あれは比喩じゃなかったらしい。
「正玄は?」
「呼ばれた先で合流」
「どっちの先」
「先はいつだって、こっちの後」
わかったような、わからないような。『あたし』は意味を一口で飲んで、こちらへ半分だけ吐き返す。半分は彼女の腹の中でぬくぬく育つ。残り半分で、僕は夜を渡る。
たまが、濡れ跡の端に鼻をつけて、ふん、と短く鳴いた。猫の鼻は、湿っていようが乾いていようが、信頼度が高い。
「右」
『あたし』が言う。
「右が先。左は後」
「順路が決まってる?」
「順礼がね」
言い直しで増える意味。つまり、これは道順というより手順で、さらに言えば作法。夜に入るときも手洗いが要る。心の手洗い。
僕らは右へ折れた。浅野川の流れが、建物の隙間から薄く聞こえる。川音は落ち着く。水は落ち着く——はずなのに、今夜は“上がる”。落ち着かない。落ち着けない。
「濡れた足跡が乾いて見えるのは?」
歩きながら問う。
「上から来たから」
『あたし』は、提灯の影で目じりを笑わせた。
「普通は下から上へ——踏んで濡らす。けど、今夜は逆。上から降りてきた水が、地面に触る前の影を残してる。だから、乾いて見える」
上から降りてきた濡れ跡。概念が先に足をつけたみたいな矛盾。
「証拠ある?」
「あるよ」
『あたし』は、足跡の一つへそっと息を吹きかけた。渦のように丸まる息。輪の真ん中にうっすら霜みたいな曇りが生まれ、すぐ消えた。
「上の温度が、下より冷たい」
体温計がどこにも刺さらない答え。
「これ、追ったら何が出る?」
「最初の声。話の最初の“あ”みたいなやつ」
なるほど。ひらがなで始まる怪異。だったら終わりは“ん”だろうか。いや、終わるつもりのある怪異なら、そもそも怪異なんかしていない。
路地がさらに細くなる。格子戸の向こうで、誰かの寝息が規則的だ。生活が近い。近いのに、縫い目の位置がひと目盛りずれているせいで、こちらの呼吸とは噛み合わない。
「藤次郎」
足跡の先から、僕の名がした。低い。遠い。なのに耳のすぐそこで囁かれる種類の近さ。
『あたし』は止まらない。
「行こう。声は、かけられた側が作る」
「どういう理屈」
「いや、理屈のほうがあとから来るんだってば」
わかっている。わかっていない。わからないまま足は進む。理解は追いつくかもしれないし、追いつかないかもしれない——でも、追いつく必要があるのはたいてい帰り道のほうだ。
角を抜けると、短い橋の手前で足跡が切れた。
いや、切れていない。
見える足跡が終わって、見えない足跡が始まる、のほうが正確だ。橋板の木目の上で、月だけが濡れている。
「ここで、聞く」
『あたし』が言う。
「聞く?」
「名前」
来た。
さっき刻まれた、掌の一画が、ひやりと疼く。
『あたし』は僕の手を取り、提灯の火の影でそっとなぞる。筆圧のない筆致。
「思い出せ。出てきたところの名前」
口が乾く。乾くはずなのに、雨の気配で湿る。矛盾はいつも両立する準備がいい。
「……路地の、縫い目」
「それは場所。名前」
「逆さ風鈴の、家」
「それも場所。名前」
僕は橋の欄干に指を置き、木の冷たさで脈を落ち着ける。名付けはいつだって責任だ。責任を負うのは、帰れる人間だけだ。
「“裏口”」
口走った瞬間、橋の下で、川音がひと呼吸分だけ止まった。
『あたし』が、満足するときの静かな目をする。
「今夜は、それでいい」
その許しは、条件付きの切符みたいだ。帰りの改札で噛まれる可能性がある。けれど、行くしかない。切符は歯形を増やすためにある。
たまが先に橋板へ跳び、見えない足跡の続きへ匂いを当てる。鼻先が、空中の一点で止まる。そこに何かが立っている。誰もいないのに、誰かが“立っている”。
「藤次郎」
また、名がする。今度は高い。子どもの高さ。
『あたし』は提灯を小さく揺らした。火が三度瞬く。合図。
橋の向こうの暗がりに、白い頁がふっと開く。
ページ。
本だ。
見えない誰かが、橋の先で本を抱き直した。紙の擦過音が、夜の肌を撫でていく。
「君は、誰」
自分の喉から、知らない声が出た。僕の声帯が、場所の声帯に貸し出される感じ。
返事は、なかった。
代わりに、木目の上で月光が一行、滑った。
読み上げられない文章。
『あたし』が、橋板の端に古銭を置く。さっきと同じ、文目が、薄く浮かぶ。
「割り勘」
「誰と」
「今夜」
冗談めいているのに、火の色は冗談を嫌う。
僕は、一歩踏み出した。橋の真ん中で、足裏に“紙の厚み”を感じた。木でも石でもない。紙。
その紙は、濡れていない。
けれど、水の匂いがした。
「——右の答えは、ここまで」
『あたし』が囁く。
「次は、左。呼び声のほう」
「往復便か」
「回覧板だよ」
夜の自治会。そういう比喩はやけに現実味がある。僕は橋を渡り切って振り返る。足跡は、もう見えない。代わりに、風鈴の音がひとつ、遅れて届いた。
りんち。
最初の一音が、遅れて最後になる。
「戻るぞ、藤次郎」
僕らは来た道を半分だけ戻り、二股の分岐へ。左の筋は、右よりも浅い。濡れも薄い。なのに、足が勝手に左を選ぶ。場所が、軽く肩を押すみたいに誘導する。
「ここからは、“呼ぶ側”の番」
『あたし』の声が、かすかに低くなる。
「呼ぶのは、僕ら?」
「違う。この街」
金沢が、喉を持っている。そんなバカな——と笑えないのは、僕の掌で“裏口”の一画がまだ冷えているからだ。
左の路地は、観光客の知らない角度で曲がっている。行灯の明かりが置き去りにされたみたいに、角ごとに立ち尽くす。猫の影が三つ。たまは四番目だ。
「正玄は——」
「静かに」
静かに、は命令じゃない。儀式の始まり。
僕らは、乾いて見える濡れ跡を踏まないように、濡れて見える乾いた石を選んで歩く。逆説の足運び。数えてはいけない段差を、数えないように段差のないふりで降りる。
呼び声が、近い。
“声”よりも、低くて、広い。耳ではなく、胸郭の後ろで鳴る。
「藤次郎」
誰の声でもない。親しい名前の呼び方でも、見知らぬ呼びかけでもない。“名前の形そのもの”が、胸板の裏を叩く。
「返事は?」
「したいなら、してもいい」
『あたし』は、僕から視線を外したままいう。
「しても、届かない。届かなくても、効く」
効くのか。誰に。何に。
「……ここだ」
『あたし』が立ち止まる。
路地のどんつき。薄い壁。窓はない。けれど、窓の跡が残っている。塗りつぶされた矩形。
その矩形の前だけ、濡れ跡が円を描いて渦になっていた。
「呼び声の“口”」
『あたし』は提灯を地面に置き、両手を空に向けた。
「借り物、返すよ」
僕の掌の一画が、ぴり、と解ける。
返す——返すと、どうなる。
答えは、すぐ出た。
窓の跡から、風鈴の舌が、ひとつ滑り落ちる。金属ではない。紙でもない。名前だ。——誰かがどこかで使っていた、名前の舌。
りんち。
音はしないのに、音がした。
「今夜しかない」
背後で、男の声がした。
振り向かなくても、正玄だとわかる。声が、いつも少し季節外れなのだ。
「右、行ったか」
「行った」
『あたし』が短く答える。
「こっちは?」
「呼んだ。返した。開くかどうかは、そっち」
正玄は、僕の横を通り過ぎ、窓の跡の前でしゃがむ。指先で渦の円周を一周なぞる。
「今夜しか——ない」
繰り返すたび、否定語が減る。ないは薄く、今夜が濃く。
渦が、ほどけた。
奥行きのない壁に、入口の影が差す。
入口の影? 入口は本体が影で、こちらに残るのが実体なのだとすれば、それも道理だ。
『あたし』が提灯を掲げる。
たまが尾をあげる。
正玄が、胸ポケットから紙片を出す。紙片には、墨で一文字——戻。
「戻すために、戻らない」
彼は紙片を影へ押し当てた。
影は、受け取った。
僕の胸で、呼び声が、一拍だけ止まる。
その止み方に、僕は覚えがあった。
裏口の、向こう側の呼吸と同じ間合い。
「入るぞ」
正玄の合図は、号令というより、合意の確認だ。
『あたし』は、僕を見る。
「怖い?」
「当然」
「じゃあ、偉い」
儀式は整った。紙は返した。名は呼ばれた。呼び声は、穴を開けた。
僕らは、夜の自治会の回覧板を、さらに奥へ回す番だ。
次話予告
呼び声の口が開けば、もう一つの入口も応える。
影の扉は、触れればにじみ、にじめばほどける。
ep.53「裏メニュー再来 ― 隠された入口」
隠されるほど、入り口は増える。さて、どの入口から。




