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第51話 雨返しの兆し ― 深夜に鳴る逆さ風鈴

 金沢の夜は、油断ならない。いや、夜というものは総じて油断の隙を好むが、この街の夜は、とりわけ油断を見つけるのが上手い。昼間に置いてきた注意力を、夜は石畳の隙間から拾い集め、そっと並べ替える。順番を変えて、意味を変えて、音の向きさえ変えてしまう。

 ——たとえば、今みたいに。


 ちりん、ではない。りんち、だ。

 耳が逆さになったのではなく、音の方が逆向きに歩いてくる。時間の巻き戻しを指の腹でなぞったような、不自然な順序の揺れ。さっき通ったはずの軒先の風鈴と同じ音色なのに、背後からではなく、前方の闇から聞こえる。ありえないが、ありえる。金沢の夜は、そういう計算を平然と通す。


 「聞こえたかい?」

 隣から『あたし』の声。夜の裏メニュー案内人は、こういうとき、嬉しそうに目尻を下げる。

 「逆さ風鈴。めったに出ないよ。……雨返しの兆しだ」

 “雨返し”。降った雨が地面から空へ戻る——情緒的な名札に反して、理屈を撥ねる怪異。ひやり、背骨の奥に金属の冷たさが走る。


 足元を覗く。石畳に沈んだはずの水が、糸のように持ち上がり、夜の肺に吸い込まれていく。地面が空へ向かって呼吸している。僕は喉を鳴らし、息のしかたを忘れたみたいに口を閉じた。

 「正玄は知ってるのか?」

「知ってるさ。“今夜しかない”って言ってたろ。現象が始まる前に」

 確かに。正玄は、ああ見えて夜の裏事情に無駄なくらい通じている。問題は、その知識がいつも僕らの味方とは限らないことだ。


 りんち、りんち。音は増幅するたび薄くなる。前へ進むほど、遠くなる。

 ——夕立のあと、側溝へ吸い込まれていく水を飽きずに眺めていた、小学生の僕の記憶が浮く。水は「行きたい所へ行く」と信じていた。今は違う。行きたいのか、行かされているのか、その区別がつかない。

 「足元、気をつけな」

 『あたし』に声を掛けられ、我に返る。石畳の目地から、雨粒が独立して浮き、月光を拾って銀の糸になる。目の高さまで上がり、ほどけて、上へ。美しい——と思った自分に慄く。異常は、いつだって美しさの仮面でやって来る。


 「このまま行くのか?」

 『あたし』は提灯の持ち手をひと撥ねして、にやりと笑う。

 「裏メニューの客が呼んでる。行かない理由、ある?」

 呼んでいる——と宣言されると、たしかに呼ばれている音になるから不思議だ。りんち、りんち。音素が僕の名の縁をなぞる。

 「……嫌な予感しかしない」

 「予感ってのは、大抵当たるもんだよ」

 軽い返事。けれど、その軽さは注意喚起の裏返しだ。『あたし』は、危険の手前で足取りを整える癖がある。


 路地のひだが深くなる。石の温度が変わる。

 そこに、一本の風鈴があった。逆さに吊られ、舌が上を向いている。舌先に溜まった滴が、落ちる前に浮き、まるいまま持ち上がる。金属の縁が月を噛む。音がほどけ、りんちが最初に戻る。

 僕は思わず息を飲む。裏メニューの扉は、音の綴じ方で開くのだと、身体のどこかが思い出していた。


 『あたし』は懐から小さな古銭——ひとだまコインを取り出し、石畳へ置く。きぃん、と聞こえたか聞こえないかの金属音。世界が一目盛りずれ、足元に見慣れない「縫い目」が浮いた。

 「入り口」

 『あたし』は僕を見る。

 「出る時に必要なのは、“出てきたところの名前”。忘れないこと」

 名前? 聞き返す前に、逆さ風鈴が音を巻き取り、視界の端をほどいた。縫い目の向こうに、もう一本の路地。濡れた石の先、ぼんやりとひとつの影。


 影は背中だけで成立していた。

 ——あの夜の裏口で見た、本を抱えた少年の背中が、淡く重なる。

 呼べば振り向く距離。けれど、呼んだ瞬間、名前の方が欠けそうで、口が動かない。

 『あたし』が提灯をかざし、火を手のひらで一度だけ隠す。暗闇がこちらを受け容れ、同じ火が別の位置で灯る。縫い目の“向こう側”だ。

 「——歓迎の合図」

 自分の声が驚くほど落ち着いて出た。たま(猫)が影の縁で尾を振り、僕のふくらはぎを軽く打つ。全員、揃った。


 「正玄は?」

 「合流は別口。『別』は便利だよ、足りないときも余ったときも」

 意味を飲み込む前に、音が次の段を降りていく。見えない階段の足音が近づき、途中で止まる。沈黙が顔を向ける。『あたし』は小さく頷き、ひとだまコインの文目あやを靴裏で確かめる。

 「怖い?」

 「当然」

 「偉い」

 怖がるのは手続きの一部——彼女はよくそう言う。役所の書式みたいに、抜かすと後で困る欄。


 路地が呼ぶ。石と石の隙間が、僕の名の形を覚えている。

 「藤次郎」

 誰が呼んだ? 『あたし』でも風鈴でもない。場所だ。場所が、僕を呼ぶ。

 僕は頷く。頷きは意思というより作法だ。文目の中心に踵を置く。**一歩、借りる。**借り物の踏み心地は、硬くて、柔らかくて、乾いていて、濡れている——全部いっぺんに鳴る。同時は、世界が嫌うはずの仕様なのに。


 「忘れたくないなら、身体に書いておきな」

 『あたし』は僕の掌を取り、指先で一画をなぞる。温度の単位にない温度。喉が詰まる。

 「それは——?」

 「名前の欠片。借り物。返すこと」

 この街は、貸し借りで動く。貸すのは人、借りるのは怪異、返すのは——たいてい僕らだ。

 『あたし』という自称は、名前の輪郭が少し欠けている事実をやわらかく包む紙だと、僕は勝手に思っている。包み紙は、贈り主の前で剥がさないのが礼儀だ。


 りんち。

 風鈴が遠のき、代わりに匂いが近づく。濡れた土の匂い、冷えた鉄の匂い、紙を焼く寸前の匂い。三つが重なり、鼻の奥でほどける。

 「行こう」

 『あたし』の声は、雨の糸をまとめる針の音に似ている。たまが先に跳び、僕らは縫い目のほどけ口へ足を入れた。


 ——そこから先の路地は、路地のまま別物だった。石の並びが半拍ずれ、影の角度が一度だけ違う。僕の背中に感じる街の気配が、何かを忘れて、何かを増やしている。

 気づく。ここが、呼んでいた“どこか”だ。誰かではなく、どこか。場所が住民票を持ち、音で自分の名を証明する地区。

 「……雨返しは、何を連れ戻す?」

 問うと、『あたし』は火を揺らして答えを半分だけ見せる。

 「戻れないもの、かな。上へ戻る雨は、戻れないものを道連れにする。だから——」

 「——僕らは、戻れないものの味方をする?」

 『あたし』は目を細める。肯定でも否定でもない、『あたし』特有の保留。

 「今夜はね」

 今夜だけ、はっきりさせる。明日は空欄でいたいから。


 足音が止む。闇の面の一点に、白い呼気が滲む。少年の背中が、もう一度、濃くなる。

 「藤次郎」

 今度は、風鈴が僕の名を巻き戻す。りんち。最初の一音が、最後の一音になる。

 僕は一歩、さらに借りる。返済は後。利息は、風の音。

 縫い目がほどけ、裏面が表に裏返る。提灯の火が、こちらから向こうへ移り、僕らの影だけがこちら側に残る。影は身代わり。僕は影に、留守番を頼む。

 少年の背中は、やはり振り向かない。代わりに、肩越しにページの音がする。紙のすれる乾いた音。僕の名前と似た綴りを、彼は読み上げない。読み上げた瞬間に、たぶん“雨返し”が完成してしまうから。

 『あたし』が、そっと僕の袖を引く。

 「忘れるなよ。出てきたところの名前」

 僕は手のひらの一画を見つめる。借り物の線が、月光で淡く光った。

 金沢の夜は、油断ならない。だから、手続きはひとつずつ。

 僕らは、呼ばれに行った。


 ——続く。


次話予告


逆さ風鈴が鳴り終わるより先に、足跡は二股に分かれる。

戻る雨、上がる影、呼ぶ声。選べば失う、選ばなければ逃す。

ep.52「濡れた足跡 ― 路地裏に続く呼び声」

今夜しかない、だからこそ、今夜に限っては。

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