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第50話 涼華の残響

 夜の浅野川は、音を選んで流れる。

 選ばれた音は、水面に吸い込まれては、少し遅れて返ってくる。欄干にもたれる僕の耳には、橋の袂で鳴る風鈴の涼音と、遠く犀川の低い呼吸が、半歩ずれた二重奏みたいに交互に届いていた。高音は肩口で氷の粒になり、低音はみぞおちの裏側でゆっくり溶ける。音だけで温度差ができるのは、ずるい。気持ちを勝手に二つに割らないでほしい。


 石畳は昼より膨らんで、夜露を吸った苔は、靴底の薄いところを正確に探り当ててくる。どこからともなく線香の気配がまざり、甘くて乾いた花の匂いが遅れて追いつく。灯籠流しの残り火が、ときどき水面の皺と喧嘩して、細長く伸びた末に、ふっと途切れた。

 ——こういう夜は、記憶が勝手に濡れて、言っていないはずのことまで口の中に浮かぶ。あんまりだ。心の準備くらいさせてほしい。


 『あたし』は川べりの石段を二段だけ上がった、小さな張り出しのところに立っていた。背後は町家の影。正面は女川——浅野。斜め遠くに、男川——犀の暗い帯が、地鳴りのように呼吸している。二つの川を同時に全部は見えないけれど、音と匂いと風で、確かに「ここで交わっている」と身体が先に了解する場所だ。


 振り向いた横顔は、涼華(りょうか)だったころの面影を、幽霊の透明な輪郭でなぞっていた。

「終わる話と、終わらせない話があるのよ」

 唐突。だけど、唐突の顔をした用意周到な一言。もう何度目だろう、僕が追いつく前に走り出すのは。


「終わらせない話、って……」

 自分で問い返しながら、僕は半分わかっている。

 今ここで全部語られたとしても、それは断片でしかない。僕の中で組み上がるはずの像は、必ず何かが欠けたまま残る。だからこそ、手を伸ばす。人は、底の抜けた器に水を注ぐ競技がけっこう得意だ。僕はそこそこ得意だ。できれば優勝は遠慮したいが。


『あたし』は欄干に片手を置き、視線を川面に落とす。

 浅野川——女川。穏やかに流れるその下には、彼女の過去と、僕の知らない人々の記憶が沈んでいる。沈んだまま腐らないのは、水の懐が深いからか、記憶のしぶとさのせいか。

「昔、犀川のほとりでね、詩を編む青年に会ったことがあるの」

 その一言で、耳の奥の弦がぴんと張る。


「室生犀星……?」

 名前を出しかけたところで、『あたし』は口元に薄い幕をかけるみたいに微笑んで、僕を軽く制した。

「名は、今は言わないわ。けれど、その人は川の声を聴くのが上手だった。夜の匂いと水の温度で、詩の行間を決める人。そして、自ら犀川にちなんだ名を名乗った。川を名乗る勇気は、川に耳を貸せる証拠よ」


 言外の了解。僕は喉の奥で川の名を一つ転がす。あちらは犀。こちらは浅野。前者は詩の旗印に響き、後者は鏡のように黙って映す。

 ——幽霊と詩人。生と死の境目に同じ足場で立つ二人を想像しただけで、背中を冷たい指が三本、上から下へ撫でた。やめてくれ。僕は霊感より神経過敏の方で忙しい。


「でも、その話とは別にね」

 『あたし』は視線を遠くへ泳がせ、ふっと声の温度を下げる。

「ある年の夏の終わり。まだあたしが生きていて、涼華(りょうか)と呼ばれていたころ。座敷を抜けた裏口に、本を抱えた子が立っていたの」


 格子の向こうの畳の匂い。打ち水の名残。団扇で追い払われた蚊の機嫌。僕の知らないはずの空気が、一気に肺の奥まで押し寄せてくる。

「背は高くないのに、目だけが遠くを見てる。自分の立ってる場所より、隣の世界の段差の方が気になってる目」

「……お客?」

「まだ客になれる歳じゃなかった。歳は関係ないのよ、財布がないだけ」

 『あたし』は肩だけで笑い、空の扇を指先でそっと開く。扇がなくても、骨だけで風が通る。

「『舞って、なんのためにするんです?』って訊かれたから——『見る人の心に、風を通すため』って答えた。本当は“仕事だから”で良かったのにね。正しい答えは、だいたい退屈」

「でも、その夜は退屈じゃなかった?」

「ええ。だから、覚えてる」


 座敷の方から小鼓の名残が、泡みたいに弾けては消えた。障子の隙間を、笑い声と銭の音がすれ違って通る。

 ——涼華(りょうか)。『あたし』の生前の名。立方。扇の角度で温度を一度下げ、足運びで場の呼吸を二拍伸ばす。誰も教えないことを、身体が勝手に覚えてしまう役目。

 その踊りを見る目の中に、未来の紙魚が住みついていた少年。

 泉鏡花。

 僕はその名を心の底で静かに置く。音を立てれば、夜が拾う。夜に拾われた名前は、たいてい次に帰ってこない。


「藤次郎、まだ知らないわね」

 耳の後ろで、九尾が涼しい声を落とす。姿は見えないが、気配は川風より濃く、襟足にゆっくり結び目を作る。

「お前の家系と、この女が背負ってきた因縁を。曾祖母の手と、涼華(りょうか)の手は——同じ夜に、同じ影を結んだ」

 心臓が、間違った譜面で二拍ほど走る。

 ——ひいおばあちゃんと、涼華(りょうか)

 知っている単語で組まれた未知の文。わかるのに、わからない。意味を掴もうとする指先から、石鹸みたいにすべっていく。


「袖を取るってことはね、相手の時間を半分もらうことなの」

 『あたし』は淡々と続ける。

「その夜、あたしが袖を取らなかったのは、あなたにこの半分を渡すためだったのかもしれない」

「僕に……?」

 問いは半分で途切れた。風鈴が、まるで合図でも受け取ったみたいに、橋の両端で同時に鳴る。浅野の高音が踵を上げ、犀の低音が地面を押さえる。夜が二層になって、耳の中で重なる。


 ——その時、橋の向こうから足音が近づいた。

 規則正しく、でも急がない。迷っていない人間の歩幅。背は高くない。腕に本を抱える癖。

 すれ違いざま、彼は小さく会釈して、川面を一瞥した。

 水ではなく、言葉の底を覗くみたいな目だった。


 『あたし』が、ほとんど聞こえない息を吸う。

「……まさか」

 その二文字が、欄干の木目に小さなささくれを作った気がした。


 ——裏口の影。

 僕の脳裏に、涼華(りょうか)が語った夜が、映写機の故障みたいに巻き戻しで立ち上がる。格子の向こうで灯りが揺れ、足袋の白が暗闇の端で浮く。少年は、本の角で自分の指を押さえつける癖を持っていた。紙に言葉を書く前に、口の中で一度磨く。磨かれた言葉は光り、磨きすぎた言葉は、かえって影を濃くする。

 今、橋を渡る青年の後ろ姿に、その影がぴたりと重なる。

 泉鏡花。

 僕はその名を喉の手前で止める。名前には栓が必要だ。言ってしまえば、川に落とすのと同じ。拾い上げられる保証はどこにもない。


 青年は何も言わないまま、橋を渡りきり、闇に溶けた。残されたのは、浅野と犀、二つの川の呼吸だけ。

 風が方向を変え、線香の甘さが途切れ、湿った土の匂いが濃くなる。灯籠の火が一つ、今度は争わずに、素直に消えた。


「終わらせない話……またひとつ増えたわね」

 『あたし』は欄干にもたれ、消えていった背中のほうを見つめる。その横顔は、すこし若く見えた。呼ばれた名前を出さなかったぶん、時間が一枚、皮を戻したみたいに。

「増やしてどうする」

 僕は言ってから、自分の声が思っていたより近いところに落ちたことに気づく。

「減らしたければ、先にほどくの」

「ほどくのは得意じゃない。結ぶのも得意じゃない。僕に得意なのは——」

「迷うこと?」

「即答はやめてくれ」


 九尾が、見えないところで笑った気配をする。笑うというより、牙を見せないで歯だけ当てる仕草。優しくもなく、意地悪でもない。

「迷いは悪くない。影はまっすぐだと折れやすい。曲がっていれば、折れない」

「それ、僕を励ましてるのか、曲がってるって言ってるのか、どっち?」

「両方よ」

 『あたし』は平らに言い切って、扇のない手をそっと開いた。骨だけの扇でも、夜気は二度、通る。


「——犀川の人のこと、もう少し。どんな夜だった?」

 僕は話題をすり替える。逃げ腰ではない。戦略的撤退だ。

「風の匂いが違った。浅野の風は、人の声を薄める甘さがある。犀の風は、言葉の骨を残す辛さがある。あの人は、その辛さで詩の骨格を組み立てていた」

「会話は?」

「『川は、どちらが好きですか』って聞かれたから、『どちらも嫌い』って答えた」

「なぜ嫌い?」

「どちらも、人を連れていくから」

 それは恨みでも啖呵でもなく、事実の音だった。

「でも、嫌いなものほど、よく見える」

「ええ。だから、あの人の言葉は、よく見えた」


 僕は浅野の音を一つ拾い、犀の音を一つ拾い、両方のポケットに分けて入れた。片方が落ちたとき、もう片方が残るように。

 ——僕は、何を守るつもりでいるんだろう。涼華(りょうか)の過去? 『あたし』という現在? ひいおばあちゃんが結んだという影? それとも、名を呼ばなかった少年の像?

 考えれば考えるほど、守る対象は増え、守れる手は減る。僕の手は二本しかない。いや、片方はもう、彼女に預けているのかもしれない。袖口で繋がる手。ほどこうとすれば結び目になり、結ぼうとすればほどけてしまう手。


「藤次郎」

 『あたし』が僕の名前を呼ぶ。

「あなたを“この子”と呼んだこと、気になってる?」

「だいぶ」

「じゃあ、今は“ほどく”ほうがいい」

 断つのではなく、ほどく。ここ数日の合言葉みたいになった単語が、夜の湿度と仲良くなる。

「ほどくには、手が二つ要る。片手はわたし。もう片手は——」

「僕」

「それとも、あなたの家に連なる、もっと古い手。ひいおばあちゃんの手」

 九尾の気配が無言で頷いた。見えない頷きは、見える頷きより重い。


「まずは何から?」

「昔の灯をひとつ、点け直す。座敷の裏口。あそこから始めましょう」

 『あたし』が踵を返す。足音は小さく、でも迷いがない。

 僕は二歩遅れて続き、たまは僕らの斜め前を無言で案内する。猫の案内は、いつも結論を急がない。


 路地の角を曲がると、現実が昔話のふりをして待っていた。格子の向こう、誰もいない座敷に、赤い灯が一つだけ点いている。風の通り道と記憶の通り道が、同じ角度で開いている夜。

 浅野は鏡のように全部を映し、犀は炉のように全部を呑み込む。二つの川は互いの言葉を半分しか知らないが、残りの半分は、相手に預けている。町というものは、そういう受け渡しで立っている。僕はそれを、やっとすこし理解しはじめたところだ。


「では、見せてあげる。——涼華(りょうか)の記憶を」

 『あたし』の指が空の扇をひらき、夜に細い風の道を作る。

 橋の上で風鈴がもう一度鳴った。選ばれた音が、また川に吸い込まれ、遅れて、こちらに返ってくる。返ってくるあいだに、僕の覚悟のかたちが、少しだけ整う。

 終わらせない話は、こうして歩幅を合わせてくれるときもある。こちらが勝手に急いで転ばないように、わざと回り道をさせながら。


次話予告  第51話 雨返しの兆し ― 深夜に鳴る逆さ風鈴


川の音は、まだ全てを語っていない。

浅野と犀、その流れの狭間で、結ばれた影がほどけ始める。

ほどけた先に待つのは、終わりか、それとももう一つの始まりか。

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