第5話 最初の案内
拝殿の闇は、墨を流したように深かった。
『あたし』が両掌で受け止めた白いひとだまは、息をしているみたいに微かに明滅している。たまは拝殿の敷居に片足だけ乗せて、こちらを気遣うように鳴いた。
「本当に……僕の記憶、なんですよね、それ」
「そうさね。ひと欠け。指先の爪ほどの分量」
『あたし』はひとだまをそっと息で冷ました。灯りが落ち着く。
胸の奥で、何かが一枚、薄く剥がれた気がした。
誰の顔だったか、春先に世話を焼いてくれたはずの先生の名前が――舌の先から、すべって消えた。
喪失は驚くほど静かだった。
「怖くなった?」
「……いいえ。進みます」
言ってしまえば、後戻りは重くなる。僕は自分の声が頼りなくないことに安堵した。
『あたし』は頷いて、提灯をくるりと振った。炎の輪が空気に印をつける。拝殿の奥で、障子越しのような白が縦に裂け、別の夜が顔を覗かせた。
「最初の案内に行くよ。――藤次郎、目を凝らしな」
背を押され、一歩踏み出す。畳の匂いは消え、石粉のような乾いた匂いに変わった。
*
そこは市だった。
屋台とも店ともつかぬ影が、参道めいた細い道の両側に黙って並んでいる。
のれんは風もないのに、内から外へと吸い出されるみたいに揺れる。
看板には見慣れない文字が半分、見慣れた文字が半分。
売り手の顔は、どれも提灯の火に隠れて見えない。
「夜市。境界の表口」
『あたし』が低く言う。「ここで道を買うのさ」
「……道を、買う?」
「ただで案内してくれる者はないよ。裏側はいつだって、灯り代と見世物代が要る」
たまが先頭に立ち、尾で右を指した。そこだけ、参道の石が濡れたように暗い。
たどると、鳥居に似た木の枠が立っていて、その根元に、藁座布団を敷いた小さな卓があった。卓の向こうに座る影は、深い編笠を目深にかぶっている。声は男とも女ともつかない。
「――三人だな。赤い目を追うんだろう?」
喉の乾きが一瞬にして増した。
「見えていたんですか」
「ここで見えんものは、向こうでも見えん」
『あたし』が卓にひとだまを置く。白い光が卓の木目に溶けかけて、影の指がひらりと押さえた。
「そいつは預け印。通り札にはならない」
「通り札……」
「“ひとだまコイン”だよ」影は、卓の下から古びた箱を出して蓋を少し開けた。中で、薄い円が数枚、蛍火のようにちらつく。「これ一枚で、路が一筋ひらく。赤眼の気配へ連れてってやるさ」
「買えますか?」
「買えるものなら、だ」
編笠の奥で笑う気配がした。「自分の手で拾ったのじゃなきゃ、舌打ちして道が閉じる。人に貰ったのは利かないよ」
『あたし』が僕を見る。
「聞いたろ。最初の案内は、自分で掴む筋目だ。藤次郎、行けるかい」
「どこに、落ちているんです?」
「夜に口をひらく場所なら、どこにでも」影は淡々と並べた。「風のたまる角、橋の腹、祠の裏、井戸の面。芽の出ない鉢の土ん中、閉まった煙草屋の引き戸と敷居の隙。火の気の絶えた竈の灰の底――」
たまが「ニャ」と鳴き、僕の足先を軽く叩いた。
『あたし』が提灯を持ち直し、帯の結び目をきゅっと締める。幕末の町娘そのままの所作だが、迷いがない。
「ただし、藤次郎」
彼女は言葉に釘を打つみたいに続けた。
「ひとだまコインは、拾う者の“今”に似る。慌てていれば削がれ、欲を出せば曇る。落ち着いて探しな。たま、あんたは道標」
たまの鈴がひとつ、澄んだ音を立てる。
そのとき、視界の端を、赤が掠めた。
屋台の幕が、風もないのにめくれ、向こうに立つ影と一瞬、目が合った――赤い。あの赤い目だ。瞬きするより早く、幕はまた落ち、赤は消えた。
心臓が強く鳴った。
「……今の、見えましたか」
「見た。焦るな」『あたし』の声は低いが、芯がある。「あっちが急くほど、こっちの歩みは静かでいい」
編笠の影が、指先を二度、卓に打った。合図のように夜市のざわめきが遠のく。
「決まりだ。ひとだまコインを一枚、自分の手で見つけて戻って来い。道はそれからだ」
「戻る道は、閉じたりしませんよね」
「“戻る”気があるうちは、閉じないさ」
その返事は、ありがたくもあり、試すようでもあった。
『あたし』が提灯を僕に預ける。
「持ちな。灯りはあんたの歩幅で決まる」
柄を握ると、火は少しだけ高くなった。自分の鼓動と同じ速さで、炎が揺れる。
「行こう」
たまが先に立ち、参道の影へするりと滑る。
僕はひと呼吸置いてから、足を踏み出した。
背後で『あたし』が、誰にともなく呟くのが聞こえた。
「――見ておいで。今度は、こっちが案内する番だからね」
振り返らない。
夜の町は、目を凝らすほどに細かい襞を増やしていく。石の隙間、雨樋の口、軒の影――夜は口をひらく場所で、僕らを試す。
提灯の円い光が、足もとに小さな島を作る。島から島へ、飛び石を渡るように進む。
ふと、耳の奥に、さっき失くしたはずの名前の輪郭が、ぼんやり浮かんでは崩れた。
取り戻そうと舌に力をこめたが、無理に追えば遠ざかるだけだと、もうわかっている。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるみたいに呟く。
「必ず見つける。――ひとだまコインを」
たまが振り返り、金色の鈴を鳴らした。その音は、参道の影を抜け、どこか遠くの水面で小さく反射するようだった。
『あたし』は提灯を肩に掛け直しながら、横目で僕を見た。
「見つけるのは始まりにすぎないよ。……拾ったら、あんたの手で“呼ぶ”ことになる」
「呼ぶ?」
「ああ。形だけじゃなく、気を宿らせるのさ。うまくやるには、あの坊さん――正玄に教わるといい」
その名を聞いた瞬間、禅庭の白砂と、枝垂れる梅の影が、なぜか脳裏に浮かんだ。夜市のざわめきとは正反対の、静謐な光景。
たまは僕の足もとでくるりと一回転し、石畳の端に飛び乗った。
「ニャ」――まるで「次は明け方だ」と言わんばかりに。
そうして僕らは、夜の口を抜け、金沢の町へ戻っていった。
次回予告
夜が口をひらく場所は、思いのほか身近に潜む。
藤次郎と『あたし』、そしてたまは、灯りと気配を手がかりに夜市の外縁へ――。
次回「第6話 ひとだまコインを探して」。