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第49話 鎧の口、川の牙

 男川は、話さない。

 けれど黙ってもいない。沈黙の形をした怒鳴り声――それが、今夜の犀川だ。

 街灯は少なく、月は気分屋で、雲の薄衣を着たり脱いだりしている。川面の銀は筋立って、撫でれば手が切れそうだ。葦は濡れて、刃みたいな葉先が風の角度を数えている。湿った土と、石の粉と、鉄の匂いが喉に貼りついた。

(女川は話を聞く川だった。ここは違う。話をさせない。だから、ここで会話を成立させられたら、それ自体が勝ち筋になる――そう思うのは、きっと自惚れだ。けど、今夜はそれに賭ける)


 水音がひと呼吸ぶん深くなり、川霧が持ち上がる。

 そこから、鎧の線が描かれた。線は輪郭になり、輪郭は重さになり、重さは声に変わる。


「……また来たな」

 面のない顔に、赤い穴が二つ。火じゃない。血の色に似て、血ほど温かくない。

 鎧は濡れているのに、滴が落ちない。音だけが落ちる。カン、カン、と、見えない石を叩きながら。


『あたし』は欄干に片肘。扇のない手で、川風の目盛りを読む。

「時間ぴったりね。開演の鐘、二つぶん」

「舞台だと?」鎧武者は笑うでもなく歪む。「おまえにとって、俺の死も、出し物のひとつか」

「死は観客席でしょ。出し物は、いつだって生きてる側」

「望んでねえよ」

 声は湿って重い。砂利を噛んだ歯の音が混ざる。(温度は氷点下。なのに、聞いてるこっちが熱を奪われる)


「袖口ひとつで、人は生かされ、殺される。――あの夜、お前は袖を振り払った。わざわざ、俺の手を空にした」

「袖はね、いちばん嘘がつける場所なの。そこで手を繋いだら、嘘からほどける。だから、取らなかった」

「言葉の化粧だ。俺は化粧に沈められた」

(沈められたのは言葉か、誇りか。あるいは、川そのものか)


 九尾の気配が、風の流れをひと目盛りだけ熱くする。姿は見えない。

「時間を稼げ。言葉で。――男川は力で噛むが、噛む意図を外せば、牙は宙を噛む」

(時間稼ぎは得意だ。問題は、稼いだ時間に見合う答えを、僕が持っているかどうか)


 鎧の赤い穴が、僕に向いた。

「お前は“涼華(りょうか)”の代わりか、それとも“涼華(りょうか)”の証人か」

 喉が張りつく前に、声を出す。

「どっちでもない。ただ、川を見に来ただけの人間だ」

 鎧武者の肩がわずかに揺れた。受け流し。けれど、穂先はまだ来ない。

(本当は嘘だ。僕は代わりでも証人でもある。けど、ここで“味方”とか“敵”とか名乗った瞬間、鎧の口は牙を剥く)


「川を見に来ただと。――川は見るものじゃない。渡るものだ」

「渡ったから、戻れなくなったんでしょう」

 自分で言って、自分の胸が詰まる。

(手を空に、か。袖を掴めなかった話のはずなのに、なぜ今の僕の手のひらが冷える?)


『あたし』が一歩、石畳を滑らせた。足音は軽いのに、空気の方が重くなる。

「ねえ、あなた。求婚の夜、何を渡ろうとしたの?」

「橋だ。夜の橋だ。渡り切って、おまえを連れ戻るはずだった」

「違うわ。渡ろうとしてたのは、川じゃない。名よ。――自分の名の方」

 鎧の肩当てが、わずかに鳴る。

「名を、捨てろと言うのか」

「ほどけと言ってる。捨てるのは断つ。あんたは断つが好き。でも、それじゃ短く痛いだけ」

(“断つ”と“ほどく”。昨夜、女川で聞いた二択が、今夜は選択肢じゃなく刃になっている)


 たまが欄干からするりと降り、僕の靴先と川の間に座る。尻尾の先が細かく揺れる。(猫は視線のかわりに尻尾で指示を出す。いまは――待て、だ)


「――藤次郎」

 九尾が耳もとで囁く。声は近いのに、遠い。

「嘘をつけ。だが、誠実に」

「むずかしい注文だな」

「夜はむずかしいから夜だ」


 鎧武者は、こちらの小声にわざと気づかぬふりをして、歩を詰める。

 足は水を踏み、波は橋脚で砕け、音は牙になって空気を噛む。

 僕は胸のうちで、歯を噛み合わせる。(怖いか、と訊かれたら、怖い。けど、怖いと名づけるまでに少し時間が要る。この遅延が、いまの僕の全部の武器だ)


「おまえが“あたし”を護るなら、試す。護れるかどうか、鎧の底まで潜って」

「合否の掲示は川底か。落ちたら拾ってもらえないタイプの試験だな」

『あたし』の目が、笑っていないのに、僕の背骨に灯を点ける。

「下がりなさい、藤次郎。――ここは、間合いの稽古場」

 その声だけで、鎧武者の槍がわずかに上がる。穂先はまだ宙を指す。来ない。来ないから、怖い。


「袖は取らなかった。あの夜のあたしは“涼華(りょうか)”。――あの名は、舞台のための名。だから袖口で嘘がつけたの」

「なら今はどうだ。今の名は“あたし”。それも舞台のためか」

「ええ。舞台はいつでも今よ」

「なら、今、袖をよこせ」

『あたし』は扇のない手を小さく開く。

「袖は、わたさない。――代わりに、名前をわたす」

「名?」

「“ほどく”ための名。あんたの。わたしの。藤次郎の。――そして、この町の」


 風鈴の音が、遠い女川から一粒だけ飛んでくる。距離を越える音は、必ず短い。

 鎧の赤い穴が、その一粒を探し当てられずに、苛立ちでふるえる。

「名を寄越せ。俺は名で沈む」

「名で浮くこともできるのに」

「浮くのは、恥だ」

「沈み続けるのは、病よ」

(会話が、将棋の中盤だ。手は早いのに、先に詰むのはこっち――と、思わせた方の勝ちだ)


 九尾が言う。「男川は、力で噛む。噛む意図を逆撫でろ」

「どうやって」

「間合いを、ひと目盛りだけ外す」

 言われてすぐにできるなら苦労はしない。(でも、やる)


 僕は一歩、進む。

 鎧の穂先が、僕の喉元へ自然に伸びかけて、止まる。

 僕はそこから、半歩だけ――戻る。

 呼吸がひとつ、鎧の内側で空転するのが見える。(空転した呼吸は、攻撃の出鼻だ)


「……何の真似だ」

「真似じゃない。逆撫で」

 鎧の肩がぴくりと揺れ、槍の穂先が低く笑ったみたいに月を切る。

『あたし』がその影を踏み、僕の肩越しに囁く。

「よくできました。――次で終わらせる」

(終わらせる? ちょっと待て、僕はまだ始めてもいない)


 『あたし』は、袖口に指を差し入れ、何も入っていない袖から、灯りの粒をひとつ取り出した。嘘の袖から、本当の灯り。

 粒は、彼女の息で小さく揺れて、川面に落ちる。すぐ呑まれる。

 呑まれたのに、川底が一拍、遅れて明るむ。明るみは形を持たず、ただ、水の考えごとを一瞬だけやめさせる。


 その一拍で、僕は言う。

「名を――ひとつ、返す」

 鎧の赤い穴が、僕へ。

「誰の」

「“この子”の」

 自分の胸の内で、あの呼ばれ方が、そっと現在形になる。

「『あたし』が僕を“この子”って呼んだのは、かわいがりでも、見下しでもない。――古い手から借りてる呼び方だ。袖口でつながるように」

 鎧の面のない顔が、わずかに斜めを向く。

(効いてる。全部は効かない。けど、半分は効く。半分で充分。夜の勝ちは、半分からできる)


「名を借りるとは、どういう――」

「借りた名は、返すの。沈んでいる名も、浮かせて返す」

『あたし』が続ける。

「あなたの名は、まだ沈んでいる。だから、袖ではなく、名を取りに来なさい」

「名で、俺は浮くのか」

「浮きたくないなら、ほどけばいい。――沈んだままでも、ほどける」


 鎧の水音が、ふいに止まった。

 川の太鼓だけが鳴る。

 たまが、前足で石をひとつ、押し転がす。コト、と軽い音。


「……今夜は、ここまでだ」

 鎧武者が、言った。恨み節の端が、わずかにほどけている。

「男川は、焦らすのも得意だろう」

『あたし』が応じる。

「女川は、忘れさせないのが得意よ」

 九尾が尾を畳み、最後の助言を落とす。

「名を持ち帰れ。明夜は、名を持って来い」


 鎧は、川へではなく、霧へ沈んだ。沈むというより、片付く。

 赤い穴だけが、最後までこちらを見ないまま、閉じた。

 風鈴が遠くで鳴り、女川の方向が一瞬だけ近くなる。距離を超える音は、いつも短い。


 僕は大きく息を吐く。

(怖い、を後から名づける。遅延がやっと終わる。終わったからこそ、また始められる)

「――帰ろう」

『あたし』は頷き、たまが先に歩く。九尾が背後で、夜の温度を見張る。

 石畳に戻ると、町の音が細かくなる。粗い音は川へ、細かい音は路地へ。

 振り向かない。振り向いたら、何かの呼び名が変わってしまいそうだから。

 僕は前だけを見る。名を集めに行く。名で、ほどくために。名で、断つために。


次話予告 第50話「涼華(りょうか)の残響」

忘れさせない女川と、焦らせる男川。

袖より先に手渡すものは、名だ。

灯が二つ、過去と現在に同時に点る――。

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