第48話 鎧の底の声
男川は、夜になると咆える。
昼間の流れが口笛程度なら、夜は和太鼓だ。
水面は黒いのに、声は白い。白い泡が石を舐めて砕けるたび、あの夜の鎧の金属音が耳の奥に蘇る。
――ああ、あの音。耳で聞いたのに、胸で錆びた。
岸辺に生える背の高い葦が、風でざわつき、刃のような葉が月明かりを受けてぎらりと光る。
湿った草と土の匂いが、鼻の奥で冷たく張り付く。
その奥に、鉄を舐めたような金臭さ――鎧が錆びる寸前の、あの匂いが混ざっている。
――川って、時々、花じゃなくて武器の匂いを咲かせるから怖い。
川霧が、橋の下から忍び上がってくる。足元の石畳は夜露を吸って艶を増し、足を滑らせそうになる。
――滑って落ちたら、あいつの仲間入り……なんて笑えない冗談が浮かんだ時点で危ない。
風が一度、川上から吹き抜けてきて、僕の髪を揺らし、耳の裏まで冷やした。
「――来たか」
低く湿った声が霧の奥から響く。
鎧武者は、水の中からではなく、霧そのものを押し分けるようにして現れた。
濡れた髪が額に貼りつき、赤い瞳は火種を宿したまま。
足元から確かに鎧の水音が響くのに、波紋は立たない――それが余計に異様だった。
――物理法則が避けて通る存在って、だいたい面倒な相手だ。
『あたし』は欄干に片肘を置き、川面を見下ろす。
「舞台は整ったみたいね」
「舞台だと?」鎧武者の口元がわずかに歪む。「おまえにとって、俺の死も、舞のひとつか」
「……あら。死に水まで、客扱いされたくなかった?」
「望んでねえよ」
――会話の熱量は十分なのに、温度は氷点下。聞いてるこっちが凍える。
「俺はあの夜、鎧ごと沈んだ。酒と、おまえの言葉と、俺の誇りを抱えたままな」
『あたし』は唇の端だけで笑った。
「鎧よりも錆びついてたんでしょ? あたしの台詞、覚えてるじゃない」
「忘れるか。あの言葉がなければ、俺はまだ――」
「まだ何? あんた、あの夜すでに、川に呼ばれてたのよ」
九尾が低く唸る。その尾が空気を切り、湿った夜風に一瞬だけ熱が混じる。
「過去は喰えぬ。だが、こやつは喰われ続けている」
――九尾の言葉はいつも詩的すぎて、意味が胃に入るまでに時間がかかる。
鎧武者は九尾を一瞥し、僕に視線を向けた。
「おまえも聞け。これは人間の誇りの話だ」
「誇り、ねえ……」僕は口の中で転がす。鉄の味がする気がした。
「俺はおまえの“あたし”に恋をした。舞の一挙手一投足に、剣より鋭い命を見た。だから求婚した。断られた夜、俺は川を渡るつもりだった」
「でも、渡れなかった」僕が言うと、彼は首を振った。
「渡ったさ。渡ったが、戻れなかった」
――戻れない川って、時間と同じだな。違うのは、時間は濡れないし、溺れさせないことくらいか。
川の流れが強くなった。男川は、怒ると早口になる。
水飛沫が月光を砕き、粉のような光が僕らの頬をかすめる。
石の間から小さな水の虫が飛び立ち、霧の向こうへ消えた。
『あたし』は欄干から背を離し、目を細める。
「川に呑まれた者は、川の言葉を話すようになるのよ。あんたの声、今じゃ半分は水音じゃない」
「半分でも、恨みは消えねえ」
「全部消せとは言ってない」
――この二人、会話のやりとりがまるで将棋の中盤戦。手は早いけど、どこかで詰む気配しかしない。
僕は二人の間に割って入った。
「……それで、今夜は何しに来た。まさか、ただの昔話ってわけじゃないよな」
「もちろんだ」鎧武者は僕を見下ろす。赤い瞳が、川面の灯を反射する。
「おまえが“あたし”を護るなら、俺はおまえを試す。護れるかどうか、鎧の底まで潜ってな」
――試験の合否発表は川底ってか。落ちても浮かべないタイプの試験、やり直し効かないじゃないか。
九尾が尾をひと振り。風向きが変わり、川霧が裂ける。
『あたし』が扇のない手をすっと上げた。
「じゃあ、開演ね。恨みも恋も、ぜんぶ舞台に乗せてあげる」
鎧武者は口角を上げた。
「……俺は負けても沈むだけだが、おまえは負ければ、浮かぶことさえできねえ」
「その脅し、観客にはウケないわ」
――観客ゼロの舞台って、一番怖い。だって、誰も見てない時の方が、人は本気になるから。
鉄と水と夜の匂いが、一度に濃くなる。
男川は、これから何かを呑み込むときの低い咆哮を上げていた。
――その“何か”に自分が含まれてない保証は、どこにもない。
次話予告 第49話「鎧の口、川の牙」
沈むのは足か、それとも言葉か。
川底に沈殿する恨みが、夜の水面を噛み破る。
鎧の音は、始まりの合図に過ぎなかった――。




