第46話 涼華の記憶
女川は、夜になると鏡みたいに喋らなくなる。
喋らないのに、色々と映す。橋の下の暗がり、軒先の灯、格子に残る影、そして僕の顔色。犀川で冷や汗を置き忘れたはずなのに、浅野川に来たら、ちゃんと返ってきた。返却ボックス付きの良心的な川だ。
『あたし』は欄干に両肘をのせ、川面を覗き込む。視線は水の上で止まっているのに、何かもっと遠いところを見ている。
「ここは、あたしの舞台裏」
唐突だけど、しっくり来る言い方だった。
「表はどこ?」
「さっきの男川。音が大きい方が表舞台って、誰が決めたのかしらね」
風鈴がひとつ、橋の袂で鳴る。音は涼しいが、内容は熱い。夏は言葉を脱がせるのが上手い。
「ある年の夏の終わり。あたしは“涼華”と呼ばれてた。立方――舞う方。扇ひと振りで場の温度を一度下げるのが、当時の仕事」
『あたし』は片手をすっと上げる。扇のない扇を握る癖。骨だけでも舞は始まる。
「座敷は明るくて、客はみんな賢そうに見えて、でも賢そうだからって賢いとは限らない。賢いと見られたい欲が、いちばん賢くないことくらい、誰かが教えてあげればよかったのに」
「誰か=涼華?」
「仕事は舞よ。説教は向いてない」
肩の線だけが笑った。
女川の流れは、静かに、しかし確実に、過去の方角へ進んでいる気がした。水は下へ行くのに、記憶は上へ昇っていく。理屈に弱いのに、実在感だけは強い。
「ある夜ね、座敷を抜けた裏口の先に、細い影が立ってたの。本を抱えた子。背は高くないのに、目だけが遠くを見てる。自分の立ってる場所より、隣の世界の段差の方が気になってる目」
「……お客?」
「まだ客になれる歳じゃなかった。歳は関係ないのよ、財布がないだけ」
『あたし』は欄干から指を離し、指先の夜気を確かめる。冷たくても、思い出は乾いている。
「『舞って、なんのためにするんです?』って訊かれたから――『見る人の心に、風を通すため』って答えた。いま思えば、正解は“それが仕事だから”で良かったのよね。正しい答えは、だいたい、退屈」
「でも、その夜は退屈じゃなかった?」
「ええ。だから、覚えてる」
水面がさざめいて、灯が細くちぎれた。
『あたし』は微笑む。
「――その子はね、川の音を“ことば”に変えるのが上手だった。あの夜のその子は、やがて紙の上で灯の影まで動かす人になる――名は、今は言わないわ」
「それとは別に、ずっと後のこと。あたしがもう幽霊になってから、夜の道で出会った詩のひとは、犀川にちなんだ名を自ら名乗った。川を名乗る勇気は、川に耳を貸せる証拠よ」
僕は川の名を、喉の奥でひとつ転がす。ここは浅野、あちらは犀。
前者はあの子の記憶に澄み、後者は詩のひとの旗印として響く。
噂はいつも、固有名詞の手前で止まる。名乗られない名ほど、よく響く。
欄干の向こうで、紙灯籠が二つ、流れていく。水の上に置かれた小さな部屋みたいだ。そこに人の願いが入っているとして、読まない約束がこの町の秩序を作っている。
「――で、男の話に戻る?」
僕が切り出すと、『あたし』は「あら」と目だけで笑って、頷いた。
「仇敵幽霊。あの人は、舞を観るたびに賢そうになった気分になって、ある晩、賢いふりの最終形で『嫁に来い』って言った。あたしは――」
「『鎧より錆びついてる』」
「ええ。あの夜は、あれが最短の正解だったと思ってる。正解は人を救わないけれど、間違いよりは浅い場所に落ちる」
「でも彼は深い方へ落ちた」
「うなずく代わりに、川は人を攫うのよ」
九尾は姿を見せないが、気配の温度だけが少し高くなる。見えない方が、いる。たまは足元に来て、石の冷たさをひとつ横取りした。
「あなたは、あの夜、自分の袖を取らなかった。なぜ?」
自分で訊いて、自分に刺さる。質問はいつも、最初に手のひらを切る。
『あたし』は短く目を伏せ、すぐ戻す。
「袖を取ったら、誰かが袖なしになる。わたしが、か、彼が、か。世界の継ぎ目って、誰かの袖口でできてるのよ」
「わかるような、わからないような」
「わからせないように喋ってるもの」
正直で、ずるい。
「それから――ずっと後。あたしはもう幽霊で、川の匂いしか食べてない頃。夜更けの浅野と男川のあいだを、詩の稽古みたいに歩く人がいた。紙も筆も持たないのに、口の中で言葉が増える音がした」
「その人が、さっき言った“川にちなんだ名”の?」
「さあ。本人が名乗らない名を、他人が決めるのは失礼でしょう」
言いながら、空の扇をまた握る。骨だけでも二度、風が通る。
「幽霊って、言葉に救われることがあるの?」
「生きてるうちは、たぶん、気づかないだけ」
浅野川の匂いが濃くなった。湿った土と、夜更けの花の薄い甘さ。街灯が一本、消えて、闇の等級がひとつ上がる。
その暗さの中で、『あたし』の顔が少し若く見えた。涼華という名が、現在形で衣擦れする。
「藤次郎。あなたを“この子”って呼んだこと、気になってるでしょう」
「だいぶ」
「その理由は――今は、“ほどく”方がいい」
断つのではなく、ほどく。昨夜、犀川で教わった単語の続きが、ここで繋がる。
「ほどくには、手が二つ要る。片手はわたし。もう片手は」
「僕」
「それとも、あなたの家に連なる、もっと古い手。ひいおばあちゃんの手」
九尾の気配が、無言で頷いた。見えないのに、頷く音がする。
風が背中から押す。女川の押しは柔らかいのに、意思がある。
「じゃあ、まずは何から?」
「昔の灯をひとつ、点け直す。――座敷の裏口。あそこから始めましょう」
『あたし』が欄干から離れ、石畳に踵を返す。足音が小さく鳴り、夏の虫が会釈する。
僕は一歩、二歩、続く。たまが先導して、九尾の温度が背後で見張る。
浅野川は黙っているけれど、鏡みたいに全部映す。映したうちの、どれを信じるかは、こちらの側の問題だ。
路地の角を曲がると、昔話が現実に擬態するのが見えた。格子の向こう、誰もいない座敷に、赤い灯が一つ点いている。風の通り道は、記憶の通り道でもあるらしい。
「ねえ、涼華」
自分でも驚くくらい自然に、その名が口を出た。
『あたし』は振り返らない。歩幅だけが、少しだけ広がる。
「――呼び方は、どれも正しいわ」
正しさは複数形だ。夜も、たぶんそう。
橋の方角で、風鈴がもう一度鳴った。浅野川の音色。遠く、犀川が低く応える。二つの川は、互いの言葉を半分しか知らないが、残りの半分も相手に預けてある。町というものは、そういう受け渡しで立っている。
座敷の灯が、僕らの影を薄く重ねる。
ここから先は、過去と現在が歩幅を合わせる必要がある。片方が先に急げば、もう片方は転ぶ。
『あたし』の指が、空の扇を軽く開く。
「では、見せてあげる。――涼華の記憶を」
次話予告 第47話「男川の影」
静けさは、音の前兆だ。
女川で点した灯が、男川の闇に輪郭を与える。
鎧の下の声、聞き分けられるか。




