第45話 男川のほとり
浅野川から吹いてくる涼気は、指の間をするりと抜けていく。あの川は夜になるほど静かで、灯の色までやわらいで見える。女川と呼ばれる理由が、言葉になる前に肌でわかる。
橋を渡って犀川へ出ると、同じ風でも重みが変わった。こちらは息を潜めた獣みたいに、低く喉を鳴らす。川面の黒の上を月の膜が薄く張り、ところどころ泡が白く弾ける。湿った砂利と葦の匂い。下流の屋台から、炭火に落ちたタレの甘い焦げが鼻先をかすめ、腹の奥にどうでもいい空腹を灯す。
浅野川が女川、犀川が男川。二つの呼び名は比喩というより、ここでは役職に近い。女川が眠りを看取って、男川が目覚めを引き受ける。あるいはその逆。どちらにしても、ふたりは争わずにいられない仲らしい。
石段を下りる音が湿っている。靴底の水気が小さく鳴って、僕の歩幅の不安を正直に告げる。
欄干にもたれ、川面を覗く影がひとつ。『あたし』だ。濡れた夜気を手の甲で撫でて、視線だけで波を数えている。
「……男川と女川。あたしと、あの人みたい」
横顔の線に、遠い火の粉がひとつ落ちて消えた。
「あの人?」
僕が問うより早く、上流から吹いた風が提灯の火をゆらす。僕と『あたし』の影が水面でいったん結ばれて、すぐ千切れた。夜は容赦なく編集する。
「慶応三年の夏。あたしは“涼華”って名で座敷に出てた。立方、舞の役。扇ひと振りで空気の向きを変えるのが仕事」
『あたし』の声には、香の煙の成分が混じっている。目を閉じなくても見える。紅灯籠の揺れ、三味線の細い糸が鳴るたび、膝の内側で畳が涼しくなる。涼華――その字面の通り、動くたびに風が起きて、客の熱を冷ましていく。
「何度も通ってきた男がいた。鎧の手入れが趣味でね、懐具合は鎧より薄いのに、やたら光らせて見せに来るの」
橋の影から、くぐもった鼻笑いがひとつ。九尾だ。
「つまり、見栄の鎧だな」
「そう。ある晩、酔った勢いで『嫁に来い』ってね。あたしは扇を閉じて言ってやった。『やだわ、あなた、鎧より錆びついてる』って」
涼しい口調に、刃物の縁だけ光っていた。
僕の胸のどこかが、川石みたいに沈む。――たぶん、今の僕にその台詞を投げられても、笑えない。笑って流す強さって、強さの一種だけれど、流される側がどれくらい重いかまでは面倒見ない。
「で、その夜だ」
『あたし』は欄干から身を起こす。裾の水気が石段の角に触れて、小さな音を置く。
「あいつは酒をあおって、にし茶屋街に行こうとして、男川を渡りかけて――落ちた。鎧ごと」
川が返事をするように、低く鳴った。
波頭の白が砕けて、闇の縁が一瞬だけ見えた。そこに膝のかたち、肩当てのかたち、あるいは顔の影が浮いて、すぐ見えなくなる。
(まだ、いるのか? ――いや、いるから僕らはここにいるのか)
心臓が、川の太鼓に歩調を合わせようとして失敗する。僕の鼓動は人間の三味線で、川の方は太鼓だ。合わせるべきではない音楽ってある。
「今じゃ、あたしを恨むのが生き甲斐みたいなもの。生きてないけど」
『あたし』が冗談にしてくれるぶん、現実は冗談にしない。遠くで風鈴が「チリリ……」と鳴って、浅野川の方向から夜が一音、こちらへ渡ってきた。女川が気遣っている気配。
九尾の尾が、風の筋道を探るようにわずかに立つ。「慰めは川を渡らない。渡るのは、未練の方だ」
「九尾、それは名言に聞こえるけど、実用性は?」
「実用って言葉は、人が怖がる時に握る護符だ。効き目は持ち主次第」
ああ、こういう調子だ。いつだって大事な夜ほど、話は役に立たない方向へ滑っていく。
たまが石段に丸くなり、尻尾で自分の鼻先を隠した。眠そうに見せて、耳は川上へ向いている。僕より仕事ができる。
「……聞こえる?」
『あたし』が囁く。
耳を澄ます。水の音の層が増えた。手前の浅瀬のせせらぎ、その奥の流芯の唸り、さらにその下で、何かが擦れる。金属が水に溶けきらず、歯をきしませるときの、あの嫌な音。
「鎧だ」
口に出した声が、思っていたより軽く、夜に浮いた。
九尾が橋脚へと歩み、石に爪を立てる。「近い。名乗らぬ怨みは長持ちするが、今夜は名を要らぬ顔だ」
「顔、見えるの?」
「見えないから、見えていると言っている」
理屈に聞こえない理屈こそ、怪異の辞書では標準語だ。
川霧がすーっと下りて、石段の途中に白い帯をつくった。『あたし』がその帯の手前で止まり、うしろ手に扇を握る仕草をしてみせる。癖が身体に残っているのだろう。立方の所作は、死んでも抜けない。
「ねえ、藤次郎。男川と女川、どっちの味方?」
こんな時に、それを訊く?
「中立でいたいんだけど」
「それは敵よ」
「早いよ判定が」
「早いのは川。決めない者から先に攫っていくの」
九尾がこちらを見ずに言う。「決めるのではない。立つのだ。どの岸に、何の足で」
(試験だ、これは)
僕の心の声が勝手に結論を出す。いや、違う。ただの昔話かもしれない。――でも、そう思わせるのも試験の一部、だとしたら? 考えの中に試験官を住まわせる癖、やめたい。やめたいけれど、たぶんこの夜は向こうから下宿を申し込みに来る。
川の底から、低い声が上がった。言葉というより、重さに近い。
水が一箇所へ吸い寄せられて、円ができる。中心が黒く、縁が白い。不自然な円はいちど縮んで、次に膨らむ。呼吸だ、これは。
「来るよ」
『あたし』の肩の線が、扇を忘れた舞の始まりみたいに微かに動く。
円の中心から、鎧の角がいっせいに生えた。肩、籠手、袖。水が重さのかたちを思い出す。
顔――いや、面は見えない。月の膜がそこだけ厚く張りついて、目の位置に二つ、遅い光の穴が開く。
「……女川で拒まれ、男川で抱かれた。俺はそういう話だ」
水のなかで声が壊れて、意味の骨だけ岸に届く。
『あたし』はその骨を拾うように目を伏せ、すぐ戻した。
「抱かれたんじゃない。落ちたの。自分の重さに」
「重さは、鎧のせいだ」
「鎧に歩かせられたのなら、鎧があなたの本体よ」
会話の刃は短くて、深い。やりとりの間に、泡が三つ消えた。
九尾が一歩、前へ出る。尾が扇骨のように広がった。
「ここは境界。言葉は軽く、足は重く。――退け」
鎧の影が揺れて、流れをひと筋、逆に走らせた。水が逆らう時、川は川でなくなる。僕は思わず石段を下りかけて、たまに裾を踏まれた。
「ニャ」
抗議ではない。制止だ。猫のくせに、夜の交通整理を請け負っている。
刹那、目の端で別の川が重なった。浅野川の面影だ。夜店の灯、紙風船の色、橋の欄干に置かれた手。――その手が、涼華のものだった気がして、僕は振り向く。
いない。『あたし』は僕の隣にいる。けれど、あの夜の別の岸に同じ『あたし』が立っていた手ごたえが、指の腹に残った。
「気のせいじゃないわ」
『あたし』が先に言う。
「気のせいが増えると、気があることになる」
「それを口説きって言うのよ。夜の川は耳年増」
九尾が咳払いを一つ。「軽口は境界の礼法になるが、長居の口実にもなる。締めるぞ」
鎧が一歩、上がってくる。水の膜を破って露わになる鈍い黒。雫が石に落ちるたび、円が三つ、四つ、互いを飲み込みながら広がった。
刀――と呼べばいいのか、水が凝って刃の形を取る。揺れながら尖って、しぶきが先端へ吸い寄せられていく。
僕は身体のどこからどこまでが自分なのか、急にわからなくなる。冷たい。空気が背骨に入って、骨の数を指で数えさせる冷たさ。
「退け」
九尾の声が低く、淡い。命令ではなく、世界へのお願いの調子。
鎧は止まらない。面の穴が、月の薄膜を剝ぎ取るみたいにゆっくり広がる。見られているのではなく、見えなくされる感覚。
『あたし』が一歩、前へ。扇の癖で空の柄を握る指が、美しい。
「ねえ、あなた。嫁に来いって言葉、今でも使うの?」
「……言う」
「じゃあ、まず、自分を磨いてから言いに来て」
「磨いた。鎧を」
「だから沈んだのよ」
短い往復の間に、鎧の肩から水がこぼれ落ちる。夜の体温を奪う音。
九尾が尾をひと振り。石畳の上に見えない線が引かれ、空気がそこだけ硬くなる。
「ここまで。今夜はここまで」
鎧の輪郭が水へ崩れ、面の穴だけ遅れて残る。溶けゆく黒の真ん中で、二つの遅い光が、浅野川の方向をひと目だけ見た気がした。
風が渡る。女川から男川へ、風鈴の音がひとつだけ運ばれてくる。境界の郵便配達。宛先不明、宛名も不明、でも届く音。
僕は息を吐く。吐いた息が自分のものに思えない。借りていたものを返した感じ。
「終わったの?」
「終わりは始まりの直後にいる」
九尾と『あたし』の台詞が、半分ずつ僕の耳に残る。
たまが立ち上がり、わざとらしく伸びをした。夜の番は、まだ交代しないらしい。
「藤次郎」
『あたし』が僕の名前を呼ぶ。女川の方を見るその横顔には、少しだけ、まだ舞台の火が残っている。
「ここから先は、あんた次第。あたしの因縁を断ち切るのか、それとも――一緒にほどくのか」
「断つと、ほどくは違うの?」
「断つのは、速い。けど、形が残る。ほどくのは、遅い。けど、痛みが少ない」
「どっちが好き?」
「舞なら、ほどく。戦なら、断つ。恋なら、――」
『あたし』はそこで言葉を畳んだ。
九尾が小さく息を呑んだのがわかった。息を呑む尻尾なんてないはずなのに、そうとしか言いようがない気配がした。
川面の黒が、群青へ、そしてさらに浅い灰へとわずかに変わる。夜が角を丸め始めたのだ。朝には早い。この町の夜は長い。
浅野川の方向から、二度目の風鈴。返事のつもりか、犀川が低く唸って応じる。女川と男川は、たぶん互いの言葉を半分ずつしか理解していない。けれど、その半分のために、町は毎晩ゆっくり眠る。
僕は石段の一番下に足を置き、靴底の水気を確かめた。すべる、すべらない、すべる――いや、僕が迷っているだけだ。
「決めろ」
九尾が言う。
「焦らせないで」
『あたし』が言う。
たまが「ニャ」と言う。
どれも正しい。どれも間違ってない。どれも、僕の背中を同じ方向へ押している。川の方へ。境界の方へ。
「行こう」
僕は言ったのか、夜が言わせたのか、その区別ができなくなっていた。
『あたし』がうなずく。『あたし』がうなずくたび、昔の涼華が一瞬だけ重なって、すぐ剥がれる。
九尾は尾で夜気を切り分け、石段の影を短くする。
男川は、僕らの影を飲み込みもせず、流しもしない。ただ、見ていた。見るふりをして、こちらの足首に触れ続けていた。
次話予告 第46話「涼華の記憶」
女川が映すのは、涼やかな舞か、錆びついた鎧か。
忘れたはずの名が、扇の縁でほどける。
答えは、あの夏の灯の下に。




