第42話 境界の外
白光に包まれ、僕はまばたきを繰り返す。目を開けても閉じても、視界は変わらない。
光は視神経を焼く針のようで、耳の奥では金属を引きずる高音が延々と尾を引いていた。
足元は灰色の鏡面――と最初に思ったが、それは鏡ではなかった。反射する気配はあるのに、そこには何も映らない。僕の足も、影も、ただの輪郭線として沈み込む。まるで世界そのものが絵描きの下書きで止まってしまったようだ。
遠くの地平線はきちんと円を描いて僕を囲んでいるのに、焦点を合わせると消える。視界の端にあるときだけ存在を主張する、猫のような地平線だ。
上空には空がない。かわりに広がっているのは白光の膜。表面はゆらめき、時おり泡のように膨らんでは弾け、そのたびに空間全体が無音の鐘を打たれたように震える。
空気はあるのかすら怪しい。呼吸はできるのに、肺が膨らんだ感触がない。温度も湿度もゼロ。無機質を通り越して、「気配のない気配」が満ちている。
そして、この空間のすべてが対称を嫌っている。膜の揺れは左右非対称で、波紋も常に片方が速い。均衡を壊すことが、この場所の呼吸法らしい。
『あたし』の声が、遠くからかすれて届く。
「……と……じろ……聞こえる……?」
僕は首を小さく巡らせ、声の方向を探す。だが、音は距離感を持たない。背後から来たと思えば、耳元で囁かれたようにも響く。
「聞こえてる……」喉が異様に乾き、声が掠れる。「お前はどこに……?」
『あたし』は一拍置き、ためらいがちに答えた。
「遠く……でも、近く……うまく言えない」
言葉の余韻が消えると、僕の心臓がひときわ強く脈打った。足元の灰色が波紋のように揺らぎ、地平線の外れまで広がっていく。
波紋の向こうに、黒い点が揺れている。最初は塵ほどだったそれが、瞬きのたびに大きく、輪郭を持って近づいてくる。
足音はない。だがその進行に合わせ、床の波紋が世界全体を震わせていく。
やがて、それは人の形をとった。肩幅は僕と同じくらいだが、立ち方が異様に揺らいでいる。まるで床に根を張りながら、同時に風に煽られているかのような不安定さ。
顔は安定せず、僕の記憶にある誰か――友人、敵、家族、そして知らない誰かへと瞬間ごとに入れ替わる。その変化に合わせ、唇の動きや瞬きの仕方も微妙に変わるのが気味悪い。
「ようこそ、境界の外へ」
夢を渡る者は、笑っているようで笑っていなかった。声と口元が一致しない。
「歓迎されてる気はしないけどな」
僕は一歩、右足を前に出す。波紋が走り、その輪が相手の足元に触れると、灰色が一瞬だけ濃く染まった。
「歓迎と招待は違う」淡々と告げる。「お前は後者だ」
夢を渡る者は顎をほんのわずかに傾け、視線を足元の波紋へ落とす。その仕草は、すでに次の展開を知っている者の態度だった。
背後で霧が渦を巻き、吸い込まれるように一点へ収束していく。
そこには光をも呑み込む黒があり、見ているだけで引きずられそうになる。
「お前の影を封じてやる。その代わり、現実の怪異はお前に干渉できなくなる」
夢を渡る者は片手を持ち上げ、指先でその黒を軽く撫でる。まるで柔らかい布を扱うかのように。
「影を失えば……俺は俺じゃなくなる」
「お前は在るだけになる。苦痛も恐怖も、なくなる」
その言葉と同時に、相手の肩がわずかに沈み、呼吸が一段落ち着いたように見えた。説得を楽しんでいる。
鋭い声が、白光を裂くように響いた。九尾だ。
「選ぶな。あやつは嘘の形をした真実を持つ」
九尾は尾を床に打ち付け、灰色の波紋を乱す。揺らぎが夢を渡る者の足元まで届くが、その立ち姿は微動だにしない。
『あたし』も続く。
「あんた、そんなのに乗ったら……もう戻ってこれない!」
声の調子が上がり、最後の言葉が震える。叫んでいるはずなのに、音は柔らかく耳に入り、皮膚の下で熱を持つ。
最後に、たまが低く短く告げる。
「決めろ……でも今だけだ」
たまは身を低くし、いつでも跳びかかれるように前足に重心を置いた。瞳孔がわずかに細くなる。
「急かすなよ……こっちは考えることが多すぎる」
僕は息を吐き、視線を夢を渡る者から外さないまま、両手の指先をほんのわずかに動かした。反射者がどう反応するかを見るためだ。
その時、夢を渡る者の隣に、無音で影が立った。
反射者――僕の動きを、0.5秒先に再現する存在。鏡よりも早い、違和感の塊だ。
その姿勢は僕と同じだが、足の角度、視線の高さまで正確に再現している。僕が瞬きをすると、相手は僕より一瞬早くまばたきを終える。
「影はここにある」夢を渡る者は言う。「返してほしいなら、彼を越えろ」
「越えろって……真似されながら勝てる相手じゃないだろ」
九尾が低く笑う。
「ならば、真似されない動きを作れ」
その言葉と同時に、九尾の尾が床をなぞり、灰色に細い線を描いた。まるで戦場に境界線を引くかのように。
足元の灰色は、心臓の鼓動に合わせて脈打ち、世界全体を波打たせている。
遠くで白光の膜がひび割れ、泡がはじけるような音が耳に届く。
「……わかった」
僕は反射者を見据え、わずかに腰を落とす。体重が前足にかかる瞬間、反射者も同じ姿勢を取った。
「次で終わらせる」
夢を渡る者は口角をわずかに上げ、反射者は変わらぬ無表情で構える。
白光が裂け、境界の外の世界がゆっくりと揺れ始めた。
――決着は、次の一手で。
次回予告 第43話「模倣と逸脱」
白光が消えた先に、僕はどこに立っているのか。
影を失った世界か、それとも影が僕を失った世界か――
答えは次で明らかになる。




