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第40話 影踏み

境界の内側――“あの日の場所”は、記憶よりも鮮やかで、空気の質すら違っていた。

地面は湿った土と古い石畳がまだらに混ざり、表面の苔はしっとりと朝露を含んでいる。霧が低く流れ、遠くの木々の影は微動だにしない。風はなく、ただ空気がじわじわと肌に貼りつく。耳を澄ますと、どこか遠くで水滴が落ちる音が、規則的な鼓動のように響いていた。

その音に混じって、ごくかすかな砂利がこすれる音が、足元から立ち上るように聞こえてくる。見上げれば、空は雲ではなく薄い灰色の膜のようなもので覆われ、どこまで行っても同じ濃度の光が降り注いでいた。


僕と影は向かい合い、互いの動きをなぞっていた。足の位置、呼吸、視線、すべてがぴたりと一致している。石畳の上で足裏に感じるざらつきや、苔の柔らかさまでもが、同じだと錯覚するほどだった。影の目線は僕と同じ高さで、瞬きすら同時に行われているように見えた。


だが、何度か試すうちに違和感があった。瞬きのタイミング、息を継ぐ間合い、指先のわずかな動き。ほんの二拍、影の動きが遅れる瞬間がある。

「見つけたね」

『あたし』が腕を組み、霧の向こうから僕を見ていた。「遅れは影の癖か、あんたのズボラな無意識か……どっちだろうね」

「ズレてるのはおまえの感覚だろ」

「感覚は正しい。ほら、たまも」

「二拍遅れ」たまが尻尾で地面をトン、と打ち、淡々と告げた。


試しに僕は走り出し、急停止し、しゃがみ込み、急に振り返る。影は追従するが、必ず僅かな遅れが生じる。その刹那、空気がゆるむような感覚があった。さらに腕を振る、頭を傾ける、飛び跳ねる、後ろ向きに歩く、手を叩く。どの動作にも影は忠実についてくるが、決して同時ではない。そのわずかな遅延が、僕の心に奇妙な優越感と、同時に説明できない不安を植えつけた。

『あたし』が笑う。「あんた、影に勝った気になってるだろ。そういう時が一番足元すくわれるんだよ」


霧の奥が揺れ、九尾が現れた。金色の瞳が霧を裂き、九本の尾がゆったりと揺れる。それぞれの尾には色の違う狐火が漂い、甘い匂いを放ちながらも鼻の奥に冷たい痺れを残す。尾の毛並みは霧に濡れて煌めき、一本一本が生き物のようにしなやかに動いていた。

「影を踏め」

低く響く声が、背筋を這い上がった。

「踏めば、おまえの一部は影に渡る」


不穏な注釈に僕は眉をひそめた。「一部って……どの部分だ」

「それは踏んでからわかる」

『あたし』が口を挟む。「それ、踏んだら負けじゃない?」

九尾は微笑を浮かべた。「負けか勝ちかは踏んだあとにわかる」


僕はさらに問う。「なぜ僕じゃなくて、影を見ている?」

九尾の目が細くなる。「おまえたちは表と裏。裏が乱れれば表も崩れる」

その言葉の間、狐火がふっと色を変えた。青から橙、そして闇に近い黒へと。まるで答えを隠すために光を変えるかのようだった。

尾の先が地をなぞるたび、狐火が弾けて霧の中に光の模様を描く。その光は揺れながら影の足元に集まり、黒い輪郭を濃くしていった。


僕は守り手を振り返った。

「……何か、助言は?」

守り手は霧の中で微動だにしない。背後の石段が霧に飲まれ、また現れる。守り手の輪郭は淡く揺れ、そのたびに視線がわずかに変わる――それは「試せ」とも「やめろ」とも取れる。周囲の霧が守り手の顔だけを覆い隠す瞬間があり、そのたびに心臓が余計に早まる。

『あたし』が小さく呟く。「こういうとき黙ってるやつが一番怖い」


空気は徐々に冷え、吐く息が白くなる。霧の粒が頬に当たり、冷たさが皮膚をかすめた。足元では、小石が霧に濡れて黒く光っていた。背後で何かが通り過ぎたような気配がしたが、振り返っても霧しかなかった。


「影を踏めば、おまえは僕になる」

背後から声がした。振り向かずとも、それが“夢を渡る者”だとわかる。

声は甘く、それでいて底冷えする冷たさを帯びている。

「どちらが本物か、確かめてみるか」

視界の端に過去の幻視が差し込む。幼い頃の笑顔、あの時の失敗、言えなかった一言。

「影を踏めば、それをやり直せる」


『あたし』が割って入る。「うまいこと言うね。でも、そのやり直しが本当に現実で起きる保証は?」

「保証などいらない。望むのは結果だ」

夢を渡る者の言葉は、心の奥をやさしく抉るように響いた。甘い記憶と苦い記憶が交互に押し寄せ、感情の境界を曖昧にしていく。

さらに見せられるのは、まだ訪れていない未来の断片――見知らぬ街角で笑う自分、血に濡れた手を握る自分。どちらも現実味があり、どちらも薄い。景色がちらつき、幼少の家の匂いと、あの雨の日の冷たさが同時に感じられる。

霧の中で現実と夢の景色が混ざり、境界が溶けるように曖昧になっていく。


僕は影の足元を凝視した。二拍遅れ――その一瞬に賭ける。

九尾も守り手も口を開かず、霧の濃度だけが増していく。霧が足首まで届き、石畳の模様を隠し始めた。

心臓の鼓動が耳奥で響き、石畳のざらつきがやけに鮮明に伝わる。額の汗が霧に溶け、冷たさと温かさが同時に頬を流れた。

一歩踏み出す――その瞬間、影が形を変えた。足元にあったのは、自分の影ではなく、夢を渡る者の影。


踏んだ瞬間、重力が横から押し寄せ、視界の色が裏返る。

音は遠ざかり、甘く苦い匂いが鼻腔を満たし、足裏から冷たさが這い上がる。全身が引き伸ばされるような感覚に襲われ、視界の端が白く滲む。

『あたし』とたまの声が細く引き伸ばされ、やがて途切れた。


気づけば僕は影の中に立っていた。そこは無音で、地面は黒い鏡のように光り、僕の足元を映し返す。空は存在せず、頭上には霧と闇が混じった膜が揺れている。遠方には、上下も左右もわからない建造物の影が、ゆらゆらと漂っていた。足を一歩動かすたび、地面が波紋のように揺れる。

遠くで夢を渡る者の笑みが、ゆっくりと消えていく。

元の場所には、僕の形をした影が立っていた。


影の中で最初に感じたのは、静寂ではなく、耳鳴りのような低い振動だった。

それは足元から伝わってくるのか、胸の奥で響いているのか、判別できない。

視界の端で、黒い地面の表面に無数のひび割れが走り、その隙間から淡い光が脈動するように漏れている。


歩こうとすると、足の影が遅れてついてくる。

遅れは二拍ではない――もっと深く、もっと鈍く、まるで別の意思を持っているかのようだった。


遠くの闇の中で、何かがこちらを覗いている。

九尾でも、守り手でもない。

その視線は、僕を値踏みするようでいて、同時に懐かしさを含んでいた。


次回予告 第41話「反転」

影の中で目覚めた僕は、現実とは異なる法則の世界に足を踏み入れる。九尾も守り手も姿を見せず、ただ夢を渡る者の影だけがそこにあった――。

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