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第39話 夢を渡る者

 夢と昼寝の違いは何だと思う?――と、僕は訊いた。


「夢は無料で、昼寝は贅沢」


 『あたし』は即答した。猫のように背伸びしながら、いつの間にか膝の上に乗ってきたたまの頭を撫でている。その仕草は、撫でられているたまよりも撫でている『あたし』のほうが気持ちよさそうだった。というか、たまは撫でられながらも目を半分閉じ、どこか遠い夢を見ているようで、この会話に参加しているのかさえ怪しい。


「いや、昼寝でも夢は見るじゃないか」


「そういう屁理屈を言うから、現実で寝かせてもらえないんだよ、あんたは」


「偏見だろ、それ」


「事実だ」


 たまが尻尾を揺らして口を挟む。「猫は昼寝も夜寝も可愛い」


「……猫だって寝言くらい言うだろ」


「にゃ」


 ほら今だって――と言いかけた瞬間、窓の外の街灯が、一瞬、まばたきした。ほんの刹那だが、暗闇が街を包み、そのわずかな闇の中で何かが動いたような錯覚を覚えた。


「今の……消えたよな?」


「あんた、街灯が寝たと思ってるだろ」


「いや、起きた可能性もある」


「……夢の見すぎ」


 夜明け前の街は、呼吸をひそめているみたいだった。空はまだ群青色で、空気は湿り気を帯び、壁掛け時計の秒針がやけに遅く感じられる。耳を澄ませば、冷蔵庫のモーター音と、自分の心音だけがやけに大きく響いている。空気の温度すら、ほんの一度下がったような気がした。


 窓の外に目をやれば、通りの石畳が霧に覆われ、街路樹は墨絵のように輪郭だけを残している。電柱の影は地面に落ちず、まるで下界と上界が入れ替わったようだった。


「……今、何か聞こえたか?」


「聞こえたさ。あんたの名前だ」


「なんで分かるんだ」


「顔に出てる」


「耳でも分かる。あれは呼び声」たまの耳が伏せられる。


「誰が呼んだ」


「あんたが会いたくないであろう相手。“夢を渡る者”」


 ぞくりと背筋が冷える。暖かい声なのに、やけに遠く、やけに近い。胸の奥を撫でられたような、背中を刺されたような、相反する感覚が同時に押し寄せてくる。返事をすれば戻れなくなる、そんな予感だけがはっきりとしていた。


「夢を……渡る?」


「夢から現実、現実から夢。境界を踏み越えるやつさ。踏み越えたら帰れないこともある」


「帰れたらいいってことか」


「帰れたら、ね」


 僕は息を呑み、視線を外した。物騒だな、と思った時にはもう立ち上がっていた。夜が明けたら、この道は消える気がしたから。いや、正確に言えば――消える前に僕が逃げ出すのが目に見えていた。


 夜明け前の青い祠は、霧に包まれていた。霧は境界線みたいに揺れ、石段を登る足音すら霧に飲み込まれていく。守り手はその向こうに、輪郭だけで立っていた。風が吹かないのに、衣だけが揺れるのは、この場所が夢に片足を突っ込んでいる証拠だ。


「条件は一つ。“あの日の場所”を完全に再現せよ」


「僕の記憶頼みってわけか」


「記憶が真なら夢も真。記憶が偽なら夢も偽」


「半分真実なら?」


「半分だけ渡ることになる」


 溺れるやつじゃないか、それは。わざと軽口を叩くことで、膝の震えをごまかした。


「……具体的には?」


「具体的に答えれば夢ではない」


 つまり、ヒントはなしということだ。


 霧の向こうで、金色の瞳が開いた。九尾が白い狐火をまとって現れ、尾を揺らす。一本ごとに色が違い、視線は感情を透かしてくるみたいだった。見つめられると、自分の考えが一枚一枚剥がれていくようで落ち着かない。


「尾一本分の力、貸してやろう」


「代償は?」


「次に私が頼むことを聞く」


『あたし』が口を挟む。「面白い狐ほど信用しちゃいけない」


「信用するな。ただ渡れ」


 狐火が僕の足元を舐め、影が揺らめく。その形は、僕の立ち姿と妙に似ていた。九尾は笑っているのか、挑発しているのか判別できない表情で、尾先を軽く弾いた。


 霧のさらに奥に、それはいた。僕と寸分違わぬ影。立ち姿も呼吸も、瞬きのタイミングまで同じ。足音すら同時に鳴る。視線が合ったわけでもないのに、全身の毛穴が開くような不快感が走る。


「……なんだ、あれは」


「あんたの影さ」


「動きが同じ。嫌な感じ」たまの声は低い。


 影は口を開かない。ただ、僕が一歩踏み出せば一歩踏み出し、僕が拳を握れば拳を握る。鏡よりも不快だ。鏡なら目を逸らせば済むが、こいつは僕の視界から逃げない。視線を外しても、背中にぴたりと張り付いてくる気配がある。


 『あたし』は目を細めた。「向こうから渡ってきたか、こっちから向こうに置き忘れたか……さて、どっちだろうね」


「選択肢に“もともと存在しない”はないのか」


「ないね。ないほうが面白い」


 九尾の尾が空間を裂いた。光と闇が渦を巻き、波打つ境界が現れる。踏み越えるか踏み越えないか、その境目で空気が歪む。吸い込まれるのではなく、押し出されるような力を感じる。息を呑むと、肺の奥まで霧が入り込んできて、夢と現実の境目を曖昧にする。


「行くのかい」九尾の声は、笑い声にも別れの言葉にも聞こえた。


「行くしかないだろ」


 一歩踏み越えた瞬間、足元の感触が変わる。土でも石でもない、記憶の手触りだ。歩くたびに、過去の景色が足裏から伝わってくるような錯覚を覚える。


 視界は俯瞰になり、“あの日の場所”が下に広がっていた。色も匂いも、記憶より鮮やかだ。というより、記憶がこの色彩に引きずられている。遠くで鳥の声がした気がしたが、それが現実のものか夢のものか判別できなかった。


「やっと会えたね、藤次郎」


 背後から声。振り返ると、半分だけ見える人影――輪郭は現実、残りは夢の中に溶けている。その境目が、波のようにゆらゆらと揺れていた。


「おまえは……」


 “夢を渡る者”が笑った。その笑みは、夢の甘さと悪夢の冷たさを同時に孕んでいた。


次回予告 第40話「影踏み」

夢と現のあわいで、僕は己の影と向き合う。だが影は影でありながら、影ではなかった。九尾の取引、守り手の沈黙、そして“夢を渡る者”の真の狙いが明かされる時、現実は音を立てて軋む――。

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