第38話 封じられた呼び声
畳の上で目を開けたとき、天井の木目がやけに深く刻まれて見えた。
まだ朝の光は弱く、部屋の隅には夜の色が残っている。
たまは窓辺に座り、外を凝視したまま耳だけこちらを向けていた。
尻尾の先が小刻みに揺れている。落ち着かない――いや、警戒している。
「……起きたのね」
背後から声がして振り返ると、『あたし』が立っていた。
袖口には、昨夜と同じ黒い煤が薄く付いている。
「影は封じたわ。でも、完全じゃない」
僕は布団の中で身を起こしながら頷いた。
頭の奥に、まだ熱が残っている。それは体温ではなく、もっと内側から滲むような熱だ。
そして、どうしても消えない感覚――名前を呼んだという事実だけが残っている。
「なあ……僕が呼んだっていう名前、何だったんです?」
そう問うと、『あたし』は視線を逸らした。
「知ってもいいことと、知らない方がいいことがあるわ」
「……つまり、知ってはいけない?」
「そういうこと」
それ以上は答える気がないらしい。
だが、答えがないほど、余計に気になるのが人間の性だ。
その名前が何を意味するのか。呼んだことで何が動いたのか。
市場へ行ったのは昼近くだった。
空は晴れているのに、商店街の奥だけ光が鈍い。
昨日の戦場だった裏路地には、人の気配がなかった。
屋台の机には皿が置き去りになり、水面のように静止している。
足元を見ると、石畳の継ぎ目に黒い染みのようなものが残っている。
触れれば冷たいだろうと直感でわかった。
その時、風鈴の音が鳴った。昨日のように不快ではないが、妙に胸の奥を締めつける響きだ。
「来たな」
声に振り向くと、守り手が立っていた。
袖を垂らし、足元の影をやわらかく踏んでいる。
「封印は弱まっている。次は短い間隔で訪れるだろう」
僕は躊躇いながら切り出した。
「……あの、名前のことを知りたい」
守り手は目を細め、少しだけ間を置いた。
「名は鍵だ。呼んだ者も、呼ばれた者も、その扉の向こうへ引きずられる」
「扉の向こうって……」
「生きて帰れる場所ではない」
それだけ告げると、守り手は影とともに霧のように消えた。
夜になっても、胸の熱は冷めなかった。
布団に入っても、耳の奥で微かな音が鳴り続けている。
最初は風かと思った。だが、それは確かに音節を持っていた。
――藤次郎。
自分の名前だ。
低く、湿った声が、はっきりと呼んでいる。
布団から身を起こし、音の方を探す。
窓の外は暗く、街灯の下に誰もいない。
だが、畳に落ちた僕の影が、ほんのわずかに揺れていた。
「……聞こえてるんだろ」
思わず呟くと、影は微かに形を変えた。
それは人の輪郭に似て、けれど完全にはならない。
障子が音もなく開き、『あたし』が入ってきた。
「返事しちゃダメ!」
鋭い声が部屋を裂く。
僕は口を閉ざすが、喉の奥が勝手に動きそうになる。
影が、次の言葉を囁く――名前ではなく、場所の名を。
「あの日の……路地」
その瞬間、部屋の空気がひび割れたように感じた。
外の風鈴が狂ったように鳴り続ける。
やがて、影は輪郭を保てず、霧となって床に吸い込まれた。
静寂が戻ると、『あたし』は短剣を握りしめたまま言った。
「次は、あたしじゃ抑えきれないかもね」
僕は、名前と場所――二つの鍵を探るため、守り手のもとへ向かう決意を固めた。
それが、何を引き寄せることになるのかも知らずに。
次回予告
揺らぐ封印を前に、藤次郎は名前と場所の真相を追い始める。
やがて現れるのは、敵か味方か分からぬ「夢を渡る者」。
次回――第39話「夢を渡る者」
過去と現在が重なり、影は別の顔を見せる。




