第37話 影は二度訪れる④
もう一人の僕は、笑わなかった。
その顔は無表情で、ただ瞳だけが深い穴のように揺れている。
そこを覗き込めば、自分の奥底まで吸い込まれて二度と戻れない――そんな予感が背筋を這い上がった。
「返せ」
その声は、僕の喉から出る声と寸分違わない。
耳で聞く前に、脳に直接突き刺さる。
「下がって!」
『あたし』が僕の前に割って入り、短剣を突き出す。
刃が僕の影とその影とを同時に切り裂く。
一瞬、世界がふたつに分かれたような感覚――だが次の瞬間、影は形を失い、霧となって四方へ逃げ散った。
「……消えた?」
息を詰めたまま問いかけると、守り手が首を横に振った。
「いや、まだだ」
霧は路地の石畳や壁に吸い込まれるのではなく、空中にとどまり、ゆっくりとひとつに戻ろうとしていた。
そこに赤眼が踏み込む。掌底、肘、膝――連撃が影を押し潰すたび、闇の塊が波紋のように震える。
「逃げられると思うな」
赤眼の低い声が響く。
だが影は反撃に出た。
霧のような腕が四方から伸び、守り手と赤眼を同時に絡め取ろうとする。
守り手が袖を翻して防ぐが、その一撃の間隙を突かれ、赤眼の肩に深い切り傷が走った。
赤眼がわずかに歯を食いしばる。その背後で、『あたし』が僕を振り返る。
「藤次郎、あんたの声よ」
「え?」
「呼びなさい、あたしの名前を!」
突然の言葉に戸惑う間もなく、影が僕の足元から突き上がった。
冷たさが膝まで駆け上がる。その瞬間、口が勝手に動いていた。
――名前。昨日、確かに呼んだという名前。
声が喉から零れたとき、影が一瞬だけ動きを止めた。
その隙を突き、赤眼と守り手が同時に踏み込む。
刹那、黒と赤の塊が弾け、光の粒となって夜気に溶けた。
路地に静けさが戻る。
呼吸の音が、自分のものか誰のものかもわからない。
「……封じた」
守り手が袖を払う。
「だが、完全ではない。また来る」
赤眼は何も言わず、背を向けた。傷口から滴る血が路地に暗い花を咲かせる。
『あたし』は短剣を納め、僕の方を見た。
「ねえ、あんた……今、名前を呼んだの、覚えてる?」
答えようとした。けれど、口を開いた瞬間、その記憶が砂のように崩れていった。
思い出せない。ただ、胸の奥に熱だけが残っている。
遠くで、風鈴がひとつ鳴った。
それはもう、警告の音ではなかった。
――次に来るものが、何であれ。
次回予告
影は退けられた。しかし、残されたものは静寂ではない。
揺らぐ封印と、名前の意味。
次回――第38話「封じられた呼び声」
失われた夜が、再び目を覚ます。




