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第36話 影は二度訪れる③

その「返せ」は、風でも声でもなく、空気の色を変える音だった。

耳に届いた瞬間、皮膚の下で血の流れが逆さまになる。心臓が一拍、遅れる。


影は地面から滲み上がり、形を持とうと蠢いた。

輪郭が一瞬、僕自身の影と重なる。いや、重なったというより――飲まれかけた。

足先が冷たく沈み、骨の芯まで染み込むような感覚が走る。


「下がって!」

『あたし』の声が弾け、短剣が月光を裂く。

刃先が影を横薙ぎに切ると、黒と赤が飛沫のように散った。だが、それは液体ではない。飛び散った瞬間に霧となり、路地の壁や地面へと染み込んでいく。


「昨日のより、濃い……」

『あたし』の顔にわずかな焦りが走る。

その隙を縫うように、影が地面を這い、僕の背後へ回り込む。


――逃げろ。

頭の奥で再び声がする。今度は、昨日の守り手の声に似ていた。

振り返った瞬間、足元から槍のような影が突き上がる。


「遅い」

低く響く声とともに、影が弾けた。

そこに立っていたのは、守り手だった。昨日と同じ風鈴の影をまとい、袖口から零れる冷気が、影を霧散させていく。


「また来たのか、夢喰い」

守り手の声はやわらかいが、奥底に刃を隠している。

「昨日の代償では足りぬと?」


影は答えない。だが、形を変え、細長い腕のようなものを伸ばしてくる。

守り手が袖を翻し、その腕を払う。払われた影は壁を破り、石の粉を撒き散らす。


その瞬間、背後から赤眼が現れた。

「……昨日の続きだ」

短い言葉とともに、地を蹴る。足音は一度も響かない。音よりも早く影に肉薄し、掌底を叩き込む。


影が裂け、視界が一瞬白く焼かれた。

耳の奥に、何かが砕ける乾いた音。直後、湿った風が肌を撫で、焦げたような匂いが鼻を突く。


「藤次郎!」

『あたし』が叫ぶ。その声がやけに遠い。

視界の端で、影がまた形を変える。今度は僕の姿を真似て、もう一人の僕が立っていた。


僕は息を呑む。その「もう一人」が口を開いた。

「返せ」

声も、息遣いも、僕自身のものだった。


次回予告

現れたのは、もう一人の自分。

影は何を奪おうとしているのか――。

次回――第37話「影は二度訪れる④」

名前が、戦いの鍵となる。

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