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第35話 影は二度訪れる②

『あたし』は何も言わず、僕の袖を掴んだ。

力は強くない。けれど、その指先には否応のない冷たさがあった。

「立って」

命令のようでいて、懇願のようでもある声だった。


「どこへ……」

「市場。昨日と同じ場所よ」

昨日――その単語が胸の奥で引っかかる。昨日の何を覚えている? 守り手。赤眼。風鈴。煤。

けれど、肝心なところが霧に覆われたままだ。


外に出ると、朝の光はどこか鈍く、路地の奥はまだ夜を引きずっていた。

『あたし』は振り返らず、足早に進む。歩幅を合わせるたび、足元の石畳が微かに震えているのがわかった。


「……何か、来るんですか」

「来るんじゃない。もう、いるのよ」

淡々とした言葉に、心臓がひとつ跳ねた。


市場の入口に差し掛かると、昨日の喧騒は影も形もなかった。

屋台はそのまま並んでいるのに、人の気配がない。暖簾が風もないのに揺れ、店先の氷がじわりと溶けて滴を落としている。

――まるで時間だけが置き去りにされたみたいだ。


「足を止めないで」

『あたし』の声が鋭くなる。

そのとき、足元を黒い何かが横切った。猫――いや、猫の形をした影だ。輪郭が揺らぎ、尾の先が地面に吸い込まれて消える。


胸の奥に、昨日の守り手の声が蘇る。

――命か、記憶か……あるいは、それ以上か。

それ以上、とはなんだ。魂か、それとも……。


「昨日、あんたは記憶を差し出した。でも影は、それじゃ満足してない」

『あたし』はそう言って立ち止まった。目の前には、昨日戦った裏路地。

風鈴の影が、まだそこにぶら下がっている。音は鳴っていない。


息を吸うと、空気の温度が一段低くなった。

背中を何かが撫でたような感覚に、思わず振り返る。

そこには――


「来たわね」

『あたし』が呟く。

路地の奥から、昨日とは違う色の影が滲み出ていた。深紅とも黒ともつかない、視界の端で形を変える色。

その中心で、誰かが囁いた。


「返せ」


次回予告

色を変えた影が姿を現す。

守り手と赤眼も再び舞台に立ち、静寂が戦場へ変わる。

次回――第36話「影は二度訪れる③」

返せ、と迫る影の真意が露になる。

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