表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/79

第34話 影は二度訪れる①

畳の縁を撫でる風が、やけに冷たかった。

まだ朝のはずなのに、部屋の片隅にだけ夜が残っている。


たまが窓辺から外をじっと見ていた。毛が逆立ち、尾が太く膨らんでいる。

――何かいる。

そう直感した瞬間、耳の奥で、昨日も聞いたはずのあの音が鳴った。

風鈴。けれど、金属が鳴る軽やかさではない。

何かが骨を擦り合わせて笑っているような、不快な余韻が混じっている。


「……聞こえるか」

低く、湿った声が、風鈴の音に重なった。

どこから響いているのかわからない。

耳元か、壁の向こうか、それとも自分の頭の中か。


僕は振り返った。

そこには誰もいない。けれど、畳の影がひとつ、ゆっくりと揺れている。

揺れて、伸びて、僕の足元へと滲み寄ってくる。


――逃げろ。

頭の中で誰かが言った。昨日の『あたし』の声かもしれない。

だが、足は動かない。心臓の鼓動が、影の動きと同じリズムを刻んでいる。


「返せ」

影の中から、ひとつの言葉が滲み出た。

「お前の中にあるものを、返せ」


僕は息を呑む。返せと言われても、何を返せばいい?

記憶はもう奪われたはずだ。守り手が持っていった。それ以上に何が残っているというんだ。


影が、笑った。いや、笑ったように見えた気がした。

次の瞬間、それは床板の隙間に沈み込み、僕の足首を冷たく撫でた。


その冷たさに、昨日の感覚が蘇る――裂ける音、月光、黒い煤、そして呼ばれた名前。

だが、その名前が、誰のものなのか、どうしても思い出せない。


「藤次郎」

背後で声がした。

振り向くと、『あたし』がそこに立っていた。昨夜と同じ着物のまま、袖口から煤をこぼしながら。

「……もう一度、来るわよ。今度は、あんたの中を全部持ってくつもりで」


僕は、喉が乾いて言葉が出なかった。

たまが短く鳴き、再び窓の外を睨む。

そこでは、誰もいない通りの真ん中で、ひとつの影がゆらゆらと揺れていた。


次回予告

再び現れた影に導かれるように、藤次郎は昨日の戦場へ向かう。

市場は静まり返り、時間が止まったように。

次回――第35話「影は二度訪れる②」

眠れる路地が、再び牙を剥く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ