第34話 影は二度訪れる①
畳の縁を撫でる風が、やけに冷たかった。
まだ朝のはずなのに、部屋の片隅にだけ夜が残っている。
たまが窓辺から外をじっと見ていた。毛が逆立ち、尾が太く膨らんでいる。
――何かいる。
そう直感した瞬間、耳の奥で、昨日も聞いたはずのあの音が鳴った。
風鈴。けれど、金属が鳴る軽やかさではない。
何かが骨を擦り合わせて笑っているような、不快な余韻が混じっている。
「……聞こえるか」
低く、湿った声が、風鈴の音に重なった。
どこから響いているのかわからない。
耳元か、壁の向こうか、それとも自分の頭の中か。
僕は振り返った。
そこには誰もいない。けれど、畳の影がひとつ、ゆっくりと揺れている。
揺れて、伸びて、僕の足元へと滲み寄ってくる。
――逃げろ。
頭の中で誰かが言った。昨日の『あたし』の声かもしれない。
だが、足は動かない。心臓の鼓動が、影の動きと同じリズムを刻んでいる。
「返せ」
影の中から、ひとつの言葉が滲み出た。
「お前の中にあるものを、返せ」
僕は息を呑む。返せと言われても、何を返せばいい?
記憶はもう奪われたはずだ。守り手が持っていった。それ以上に何が残っているというんだ。
影が、笑った。いや、笑ったように見えた気がした。
次の瞬間、それは床板の隙間に沈み込み、僕の足首を冷たく撫でた。
その冷たさに、昨日の感覚が蘇る――裂ける音、月光、黒い煤、そして呼ばれた名前。
だが、その名前が、誰のものなのか、どうしても思い出せない。
「藤次郎」
背後で声がした。
振り向くと、『あたし』がそこに立っていた。昨夜と同じ着物のまま、袖口から煤をこぼしながら。
「……もう一度、来るわよ。今度は、あんたの中を全部持ってくつもりで」
僕は、喉が乾いて言葉が出なかった。
たまが短く鳴き、再び窓の外を睨む。
そこでは、誰もいない通りの真ん中で、ひとつの影がゆらゆらと揺れていた。
次回予告
再び現れた影に導かれるように、藤次郎は昨日の戦場へ向かう。
市場は静まり返り、時間が止まったように。
次回――第35話「影は二度訪れる②」
眠れる路地が、再び牙を剥く。




