第32話 記憶市・深層
目を開けたら、そこは市場だった。
ただし、現実の市場じゃない。夜なのに影がなく、天井も空もないのに、光だけはそこら中から降り注ぎ、床を覆う石畳の継ぎ目がやけにくっきり浮かび上がっている。
左右には屋台がずらりと並び、赤や藍の暖簾が風もないのにゆらゆら揺れている。
漂う匂いは、焼き立ての鯛焼き、雨上がりの土、古い写真アルバムの紙の香り、そしてなぜか体育倉庫の埃の匂い――全部、僕の記憶の匂いだ。
耳を澄ませば、遠くで小さな鈴が鳴る音、子どもの笑い声、誰かが呼ぶ僕の名前。重なり合って、現実よりも鮮やかな“うるささ”になっている。
最初の露店の棚には、小学校の教室。窓際の席、日直の僕が黒板消しを叩いている。
二つ目の屋台には、大学の下宿近くのコンビニ。深夜二時、カップ麺を選ぶ僕。レジの店員の顔まで克明に置いてある。
三つ目の露店では――『あたし』が立っていた。いつもの帯を整える仕草、見下ろす視線、形容しがたい笑み。
「なにこれ、僕の人生フリーマーケット?」
『あたし』は微笑まない。ただ、静かに言う。
「売り物は値段をつけた瞬間、価値を失うのよ」
「じゃあ売らなきゃいいじゃないですか」
「売られるかどうか、あんたが決められるとでも?」
――この『あたし』が本物なのか、記憶のコピーなのか、確かめる手段はない。
奥から、能面が現れた。守り手だ。
だが今日は買い手ではない。屋台の品に手を触れては、「高い」「安い」と呟いている。
査定人――それが今夜の役らしい。
「これは未使用同然だが、情緒が欠けている」
「これは磨けば光るが、すでに色褪せている」
僕の人生をジャンク市みたいに評価するのはやめてほしい。返品も交換もできないんだから。
僕は慌てて守り手と記憶の間に割って入る。
「これ、値引きできます? ほら、3つで1000円とか」
守り手は能面を傾ける。
「値切りは、時間稼ぎにはなる」
「なら十分です」
――時間稼ぎ、それだけで僕には価値がある。
しかし、長くはもたなかった。
守り手が指先で弾くと、一つの屋台がふっと暗くなった。
そこには――高校時代の放課後。夕焼けの教室で、誰かと交わした約束。
気付けば、その約束の内容も、相手の顔も、声も消えていた。
あ、今、落札された。僕の記憶が。
足元がぐらりと揺れる。揺れたのは体じゃなく、心の地盤。
「返してください」
「記憶は一度手放せば戻らない」守り手はあっさり。
「だが安心しろ。おまえは失ったことすら忘れる」
「安心じゃなくて二重の恐怖ですけど」
市場の音が遠ざかる。色が褪せ、匂いが薄れ、景色が水底へ沈むように消えていく。
最後に残ったのは――『あたし』の立つ屋台だけ。
「次は、どの夜を持っていくつもりなのかしら」
「持っていかせませんよ」
「……言うわね」
視線がぶつかる。たとえ夢でも、記憶でも、ここで負けるわけにはいかない。
瞬きしたら、自分の布団だった。
朝日が差し込み、たまが枕元で丸くなっている。
けれど、本棚から一冊の文庫が消えていた。
タイトルが……出てこない。
まただ。
次回予告
失われた記憶の空白は、やがて梅の囲いでの再戦に直結する。
第33話「封印の代償」――選ぶのは、記憶か、それとも終わりなき戦いか。




