第29話 風鈴の夜・守り手再訪
廃祠の前に立つと、空気の色が変わった。
夜霧が、まるで布団の中に頭から潜り込んだみたいに、視界の半分を覆っている。石畳は濡れて黒く、踏みしめるたびに水を吸い上げる音が足元で鳴った。
僕は一歩進んでから、『あたし』の袖を引く。
「……この霧、普通じゃないですよね」
『あたし』は笑わなかった。
「普通じゃないものしか、この場所には残らないの」
たまが、霧の向こうをじっと見つめて尻尾を揺らす。
次の瞬間、何かの影が霧を押し分けて現れた。能面をかけ、雅楽装束をまとった人影――守り手だ。足音はしない。ただ衣の裾が石畳を擦る音だけが、こちらに近づいてくる。
守り手は立ち止まり、面越しに僕らを見た。
「赤眼を退けたいか」
声は低く、しかしどこか儀礼的な響きがある。
『あたし』は顎をわずかに上げた。
「そのために来たんでしょう?」
「ならば、条件がある」
守り手は一拍置いて言った。
「ひとつの記憶と引き換えに、道を封じよう」
「記憶って……誰のですか?」僕は反射的に聞く。
「おまえではない」
面の奥で目が動いた気がした。
「おまえの隣の者の記憶だ」
『あたし』は、あからさまに肩をすくめた。
「そんな取引、乗るわけないでしょう」
守り手の声色が、微かに楽しげに変わる。
「おまえの記憶には、私が欲しい夜がある」
「じゃあ、あげない」
……完全に口喧嘩だ。僕の耳にはそう聞こえる。
「交渉というより、ただの言い合いですよね、これ」
小声でつぶやくと、『あたし』が「しっ」と唇に指を立てた。
その時、たまが守り手の足元をすり抜け、霧の奥へ駆け込む。
「おい、待て!」僕が追おうとした瞬間、たまは石畳を爪で引っかき、そこから古びた風鈴の骨組みを引きずり出した。
金属の輪は錆びついていて、触れれば崩れそうだ。だが、その中にはまだ音が残っている気配があった。
守り手は一瞬だけ沈黙し、そして面の奥から低く呟く。
「……猫は正直だな」
それが褒め言葉なのか皮肉なのか、判断できない。
『あたし』が小さく笑った。
「正直者は嫌い?」
「嫌いではない。ただ、正直は時に危うい」
守り手はそう言い、条件をわずかに緩めた。
「記憶は要らぬ。その代わり、その猫が見つけた風鈴を封じるのを手伝え」
「……封じる?」僕が聞き返すと、守り手は静かに頷く。
「その風鈴は、赤眼の道を呼ぶ鍵だ。封じなければ、次はおまえらが梅の囲いで血を見る」
霧が、少しずつ濃くなっていく。
遠くで、かすかに“チリン”と鳴った気がした。
それは幻聴かもしれないし、もう戦いが始まっている合図かもしれなかった。
次回予告
霧が晴れる前に、赤眼は動き出す――。
封じられたはずの風鈴の音が、浅野川べりから梅の囲いへと誘う。
たまは肩の上で鳴き、『あたし』は帯をきつく締め直す。
九尾から借りた“音封じの紐”が、今度こそ試される夜が来た。
次回、第30話「赤眼、梅の囲いへ」
決着か、それとも新たな挑発か――闇はまだ口を閉じない。




