第28話 猫は知っている
夜の主計町茶屋街。
浅野川沿いの石畳は、秋風に撫でられた水面を映し込み、揺れる提灯の橙色を波紋のように散らしている。柳の枝先が「シャラリ…」と擦れ合い、まるで夜が自分の衣擦れを聞かせているみたいだ。
観光客の姿はなく、代わりに川のせせらぎと橋の下の暗がりだけが、静かに呼吸していた。
たまは、そんな情緒ある景色を一瞥すらせず、路地の入口で立ち止まった。片耳を後ろに伏せ、もう片耳をぴくぴくと動かし、尻尾を高く立てて――それきり、動かない。
僕は思わず足を止めた。あの金色の瞳がわずかに細まり、街灯の明かりを切り裂くとき――そこには何か、いる。
『あたし』は帯の端を指先で整えながら、ちらと横目をくれた。
「……猫は知ってるのよ。人間がまだ疑ってることを、もう答えとして掴んでる」
「便利ですね」
「便利じゃない。残酷なの。知ってしまったら、知らなかった頃には戻れないから」
さらっと言ったが、その声の底に、妙に湿った棘があった。
僕はごまかすように言葉を継ぐ。
「でも、たまはよく外すじゃないですか。宅配便のお兄さんにも威嚇してましたよね」
『あたし』は苦笑し、提灯の明かりの下で睫毛を伏せる。
「それはあんたが昼寝してた間に、お兄さんの手から何を受け取ったか知らないからよ」
「いや、普通にハンコ押しただけですけど」
「……猫は知ってる」
その繰り返しは、ただの口癖じゃないと分かってきた。
たまが路地へ一歩踏み出す。僕らも続く。
路地の入り口はまだ現世の匂いがする――アスファルトの油、居酒屋の残り香、誰かが落としたコンビニ袋のビニール臭。
だが数歩進むと、それが剥がれ落ちるように変わっていった。壁の片側は明治の木造、もう片側は平成のトタン板。その境目には古びた芝居の貼り紙が残り、「笑う女」の文字だけが風にめくれて覗いている。さらに奥には昭和の赤電話が無造作に置かれ、その向こうには江戸期の行灯――そして、一瞬だけ紫色のネオンサインが点滅して消えた。
時代が、ずれている。
「……仇敵の匂いだ」
『あたし』の声が低くなる。
「守り手の言葉、覚えてるでしょ。赤眼はしつこいって」
「忘れられるなら、もう忘れてます」
軽口のつもりだったが、自分でもわかるくらい声がわずかに震えていた。
そのとき――視界に唐突に割り込む“映像”。
夜霧の中、鎧姿の男と対峙する『あたし』。紅梅色の着物の袖が揺れ、赤眼がギラリと光る。声も音もないのに、足元の石畳の冷たさと、鉄錆の匂いだけが、はっきりと僕の中に流れ込んでくる。
……誰が監督なんですか、この脳内映画。
「赤眼は、勝てない相手には近寄らない。でも、わざわざ匂いを残したってことは……挑発よ」
『あたし』は吐き捨てるように言い、視線を奥へ投げた。
たまが突然立ち止まり、右前足で石畳を三度叩く。――コッ、コッ、コッ。
その直後、石畳の隙間から淡い赤光が「スッ」と走った。
僕がしゃがみ込み、手を伸ばしかける。だが――『あたし』が袖を掴んだ。
「触るな。これは罠。赤眼はね、自分の匂いを餌にするの」
たまがこちらを見上げ、「ニャ」と短く鳴く。
その瞳は「わかってるな?」と言っているようで、僕は返事の代わりに息を飲んだ。
路地の突き当たり。暗闇の奥から、風鈴の音が一つ。
……チリン。
夜風の音ではない。確実に“誰か”が意図して鳴らした音だ。
僕は思わず口を開く。
「――行きますか」
『あたし』は微笑んだ。
「ええ。猫が知ってるなら、あとは人間が確かめる番よ」
たまは先導するでもなく、後ろをついてくるでもなく、僕と『あたし』の間を行き来する。まるで両方を監視しているかのように。
その尾が一度だけ僕の膝に触れた瞬間、ひやりとした感触が走った。
――猫は知ってる。
それが、いいことなのか悪いことなのかは、まだ分からなかった。
次回予告
暗闇の奥から響く、ひとつの風鈴の音。
その音に導かれる先で待っていたのは、かつて赤眼を退けた“守り手”――再びの対面。
記憶と引き換えに差し出すものは、退路か、それとも…。
次回、第29話「風鈴の夜・守り手再訪」――夜霧の中、交渉は始まる。




