第27話 守り手の予告 ― 赤眼の影、迫る
境内の奥――そこは、月明かりさえ遠慮している場所だった。
能舞台の屋根は半ば崩れ、板張りは苔むして湿り、舞台袖から伸びる松の影が、まるで舞台そのものを飲み込もうとしている。
板の上に、儀礼そのままの姿で立つ者がいた。
能面のように表情を固定した顔――いや、本物の能面だ。
深紅と黒で染められた雅楽装束は夜の色と混ざり合い、そこに在るのに、半分はこの世の外にあるようだった。
「赤眼の匂いは……しつこい」
低く、どこか湿った響き。
僕は思わず鼻をすすった――いや、匂いなんてしない。でも言葉の中に匂いを混ぜるやり方を知っている人間(人間か?)は、例外なく厄介だ。
『あたし』は一歩、舞台に近づく。
「……あんたも覚えてるのね」
その声に含まれるのは、懐かしさじゃない。未だ切れない糸の重さだ。
「忘れる方が難しい。あの鎧は百年経っても錆びきらん」
守り手の言葉は、百年という時間を軽く潰してみせる。
僕は口を挟まずにいられなかった。
「なんでそんな“昨日見ました”みたいな口ぶりなんですか」
『あたし』はちらと僕を見て、笑うでもなく、「昨日も今日も、あたしにとっては一続きよ」とだけ言った。
――この感覚を、何割かは信じてしまう自分がいるのが悔しい。
守り手は能面の奥で、表情を変えた気配を見せた。
「……なら、決着は近い」
その言葉に、『あたし』の視線が鋭くなる。
僕の脳裏には、不意に別の光景が割り込んできた。
――夜の山道、白い尾を何本も垂らした巨大な影が、炎の中で何かを守っている。
その尾を覆うように、人影がひとり。顔は見えない。でも、髪をまとめた後ろ姿には既視感があった。
「おい、これ、誰の記憶だ……?」
心の中で突っ込む僕に、『あたし』は何も答えない。こっちを見てすらいない。
たまが、するりと舞台袖に回り込み、守り手の袂に鼻先を押し付けた。
鈴の音が一度だけ、澄んで響く。
守り手は能面越しにたまを見下ろし、「猫は正直だな」と呟いた。
「……だったら、こっちも準備するだけよ」
『あたし』がそう言い残し、背を向けた。
舞台から離れる彼女の背中は、何かを決意しているようで、でも同時に、何かを隠しきれていなかった。
次回予告
百年越しの因縁が、ゆっくりと形を取りはじめる。
守り手の言葉が残した不穏な予感を抱えたまま、藤次郎と『あたし』は町へ戻る――だが、たまは別の場所を見ていた。
次回、「第28話:猫は知っている」。
その瞳に映るのは、味方か、罠か。




