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第25話 風鈴の影と交渉戦

 廃れた祠は、秋の夜気に沈んでいた。

 境内の奥、半ば崩れた石段を下りた先に、闇に呑まれかけた社殿がある。屋根瓦の端には草が根を張り、柱の漆は剥がれて木肌が白くむき出しになっていた。

 その中央に、ひとつだけ――新しいものがあった。

 銀色の風鈴だ。

 月光を受け、震えるでもなく揺れている。それなのに、「チリリ…」と、あの耳の奥を撫でるような音だけは確かに響く。


 僕は無意識に喉を鳴らした。

 ――あの夜の音だ。

 身体の奥で、嫌な冷たさが蘇る。耳の奥でこびりついたようなあの感覚。記憶を削り取られるような、背筋を爪でなぞられるような感触。

 思わず足を止める僕の前で、『あたし』は帯を直し、祠に向かって静かに息を吐いた。


 「来たわね、“守り手”」


 その声に応えるように、社殿の影から人影が現れた。

 能面をかけ、漆黒の雅楽装束をまとった背の高い影。

 怪物的な威圧感はない。だが、逆にその“儀礼的すぎる”所作が、かえって生者の世界と微妙にズレた異質さを際立たせていた。

 ゆっくりと袖を揺らし、風鈴の下に立つ。


 「風鈴は記憶の通貨」

 面越しの声は、性別も年齢も掴ませない。

 「差し出せば災いを退ける。拒めば、鈴は鳴り続ける」


 『あたし』はすぐには答えず、半歩前に出た。

 「……で、その代価は?」

 能面の下の視線が、僕に流れる気配がした。


 「持っているだろう。甘く、温く、まだ濁っていない記憶を」


 脳裏に、つい数日前の光景がよぎる。町内会で、絹代おばあちゃんに背中を叩かれた瞬間。あの温もりが、まるで“商品棚に置かれた品”みたいに値踏みされている気がして、喉の奥がひりついた。


 「観光土産みたいに言わないでくださいよ」

 思わず口をついた。

 「値札シールは貼ってませんから。いや、貼ってても“二割引”くらいにしてもらわないと」


 守り手は一瞬だけ、沈黙した。

 能面は無表情のはずなのに、その沈黙が妙に“目を細めた”ように感じられる。

 『あたし』が、横で小さく肩を震わせた。笑ってやがる。


 「軽口は嫌いじゃない」

 守り手が袖を広げた瞬間、白い影が横切った。

 たまだ。

 猫のくせに迷いなく社殿に飛び上がり、爪先で銀の風鈴の紐をひっかけて引き寄せる。


 「チリン――」


 短い音と共に、風鈴が一度だけ強く揺れ、すぐ静止した。

 守り手の首が、わずかに傾く。


 「……交渉の駒を動かしたな」


 『あたし』は淡く笑みを浮かべる。

 「交渉ってのはね、揺らすところから始まるのよ」


 僕は息を整え、守り手と向き合った。

 取られるか、守るか――いや、その間を探すしかない。

 秋の夜風が、僕ら三人と一匹の間を、ぴたりと止まったかのように通り抜けていった。


次回予告

奪われる前に、こちらから仕掛ける。音を消す策を胸に、藤次郎たちは町内を駆ける――次回「第26話:風鈴狩りの夜」をお楽しみに。

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