第24話 裏路地の記憶市
雨上がりのひがし茶屋街は、まるで時間が濡れた紙のように、端からじわりと色が滲んでいた。
瓦屋根から伝う雫が、路地の石畳に小さな王冠を作っては消える。格子戸の奥から漏れる灯りは薄く、昼間の観光パンフレットのそれとは、まるで別物だ。
「……やっぱり、夜はこうでなくっちゃ」
僕は口の中で呟いた。観光課の人間としては不謹慎かもしれない。でも、雨で色を剥がされたこの町が、本当の金沢だと思う瞬間がある。
『あたし』は提灯を少し傾け、灯芯の影で片目を細めた。
「で、その“風鈴怪異”とやらは、今どこに潜んでるわけ?」
「足跡もなければ、音も消えたままです。……でも“足跡が残らない”って、もうそれだけで観光資源になりますよね」
「はいはい、何でもツアー化するのやめなさい」
「いや、観光課的には本能みたいなもんです」
「本能で怪異を商売にする人間、初めて見たわ」
そのやりとりをよそに、たまが突然ぴたりと耳を立てた。濡れた石畳を滑るように駆け、狭い横丁へと消える。
「おい、待て」
追うと、路地は昼間は見たこともないほど狭く、左右の壁は古い木とモルタルの継ぎ接ぎ。昭和のポスターが色褪せて剥がれ、隣には明治の芝居看板が半分だけ残っている。頭上には電線と竹簾が絡まり、夜風にゆっくり揺れていた。
そして、路地の突き当たりがふっと開けた。
――そこに、市があった。
いや、市と言っても、野菜や魚は一つもない。
屋台の上には、小瓶に詰められた光や、蓋付きの箱から洩れる音。土鍋を覗くと、湯気と一緒に焦げた餅の匂いだけが漂ってくる。
「記憶……を売ってる?」
『あたし』は唇の端を上げた。
「“記憶市”よ。音や匂い、手触りを切り取って売る。お土産よりよっぽど高くつくわ」
「お土産より高い時点で観光客は帰ります」
「観光客の財布より、人の心の方が軽いのよ」
「うわ、言い方が犯罪スレスレ」
近くの店主が、僕らに気づいて声を掛けてきた。背は低く、腰は曲がっているが、目はぎらぎらしている。
「おや、珍しい顔じゃの。観光か、それとも取材ぞい?」
語尾が変だ。しかも、こちらを値踏みする視線が露骨だ。
「風鈴の音を探してまして……相場はいくらですか?」
「音か。音は高いぞい。雨音なら五百文、風鈴なら三両半じゃ」
「いやいや、高いなあ。観光課的には“団体割”とか“雨の日サービス”とかないと……」
僕は身を乗り出し、観光課的営業スマイルを全開にする。
「例えば、“地元割”とか。風鈴の音と川べりの匂いをセットで一両……これなら町も儲かります」
「……口が回るのう」
「職業柄です」
『あたし』が横からひと言。
「つまり、観光地の押し売りってことね」
「やめろ、誤解される」
店主は鼻を鳴らし、しばし沈黙した。
「まあ、特別ぞい。だが、風鈴の音は売り物じゃなく、通貨じゃぞ」
「通貨?」
『あたし』が眉をひそめる。
「記憶市じゃ、音は道を開く鍵になる。特に“あの風鈴”は……」
そこで、たまが隣の屋台に飛び乗った。中身の見えないガラス瓶の中で、小さな金属の響きが震える。
「チリン……」
瓶の口は閉じられたままなのに、耳の奥で鈴が鳴った。背筋が一瞬冷える。
「ほう、それを感じるとは……」
店主がにやりと笑う。
「坊、嬢ちゃん、猫まで揃っとる。なら、廃祠へ行くがええ。そこで風鈴の“守り手”が待っとるぞい」
『あたし』と目を合わせる。
「行く?」
「行くしかないでしょう。観光課的にも、裏メニュー的にも」
たまが「ニャッ」と短く鳴き、僕らの背を押すように先へ進む。
記憶市のざわめきが遠のくと同時に、瓶の中の風鈴音が耳から離れなくなった。
次回予告
記憶市の奥で告げられた廃祠への道――
そこに待つという「守り手」は、怪物か、それとも案内人か。
能面をかけ、雅楽装束を纏った儀礼的な異形との交渉戦が幕を開ける。
次回「第25話 風鈴の影と交渉戦」――
交わされるのは、言葉と記憶の駆け引き。
差し出すか、守り抜くか。藤次郎と『あたし』、そしてたまの選択が試される。




