第22話 深夜の鈴狩り
金沢の夜は、昼間よりも静かで、昼間よりもざわついている。
浅野川の水面が月明かりを返し、梅の橋は影の中に浮かんでいた。
藤次郎は懐中電灯を腰の高さに構え、橋の欄干越しに川面を覗き込む。
「……深夜に鈴を探して歩くって、傍から見たら何の趣味だよ」
「怪異ハンターの初級編、ってところかしら」
『あたし』は小袖の裾を揺らしながら、夜風を受けて涼しげに笑った。
「しかも、これは正玄推薦の課題でもあるのよ。町のどこに鈴が吊られてるか、体で覚えなさいって」
足元では、たまが石畳の上をすばやく移動していた。
時折立ち止まり、耳をぴくりと動かす。
「……あっちだな」
藤次郎が指さすと、たまは「ニャ」と短く返事をして路地へ消える。
ひがし茶屋街の路地は、夜になると昼間の顔をすっかり隠す。
格子戸の奥からは、古時計の音や酒器の触れ合う音が漏れ、遠くで三味線が一節だけ流れた。
――チリン。
その音に、三人と一匹が同時に振り向く。
「聞こえた?」
「聞こえた。……距離は近い」
『あたし』の琥珀色の瞳が、暗がりの奥を射抜く。
たまが低く唸り、尾を水平に伸ばした。
路地を抜けた先、行灯の明かりが落ちる一角に、それはあった。
軒先に吊るされた一つの風鈴。
梵字の金色は月光を受けて淡く光り、風もないのに糸が揺れている。
「……まるで、待ってたみたいだな」藤次郎が呟く。
『あたし』は肩をすくめた。
「獲物が自分から網にかかりに来るのを待つ蜘蛛と同じよ」
藤次郎はそっと懐中電灯を向けた。
その瞬間――風鈴が鳴った。
――チリン。
乾いた金属音が、耳の奥に直接注ぎ込まれる。
それは「聞く」というより、「頭蓋の内側で鳴らされる」感覚だった。
光がゆがみ、周囲の空気が一瞬、乳白色の濁りに覆われる。
藤次郎の意識が、ゆっくりと“外側”へ引きずられていく。
夏休みの夕方の匂い、学生時代の友の顔、子どもの頃に読んだ怪談本の一節――
それらが、自分の中から紙片のようにふわふわと剥がれ、どこかへ吸い込まれていく。
「くっ……!」
膝が抜けそうになった瞬間、『あたし』の手が素早く肩をつかんだ。
その掌の感触は、氷水のように冷たく、しかし確かに現実へ引き戻す重さがあった。
「持ってかれるな」
低く、鋭い声。
「これはただの音じゃない……“記憶を盗む爪”よ」
「……盗む、だと?」
「そう。自分が自分である証拠を、一枚ずつ剥がしていくの」
『あたし』の瞳に、藤次郎の顔が映る。その奥で、淡い琥珀がかすかに揺れた。
「全部剥がされたら……もう“あなた”は残らない」
――チリン。
二度目の音が空気を震わせた瞬間、今度は心臓がひやりと凍る。
手足の末端から感覚が消え、呼吸のリズムが一拍ずれる。
藤次郎は自分の名前すら遠のいていくような、奇妙な空虚感に襲われた。
たまが低く唸った。
次の瞬間、白い影が風鈴の下で宙を裂くように跳び上がる。
爪が鈴の縁を掠め、甲高い金属音が混じった。
風鈴は揺れながらも、唐突に鳴り止む。
途端に、空気の濁りが後ずさるように消えていく。
藤次郎の頭の中に、色と匂いが戻ってきた。
夏休みの夕方も、学生時代の友も、怪談本の一節も――まだ全部は持っていかれていない。
「……助かったな」
藤次郎が吐息とともに呟くと、たまは一瞥だけ寄越し、そっぽを向いた。
その尻尾は、まだ不満げに左右へ揺れていた。
藤次郎は風鈴を外し、袋に収めた。
「これで何個目だ?」
「七つ目。でも、網の全体はまだ形にならない」
『あたし』の声は、夜気の中で低く響いた。
「残りを探すには……もう少し危ないところに踏み込むしかないわね」
浅野川のせせらぎが、一瞬だけ止まったように感じた。
藤次郎は無意識に息を飲む。
「危ないって……どこまでだ?」
『あたし』はゆっくりと笑った。
「たとえば――あんたが、二度と帰れなくなるくらい」
次回予告(改訂版)
鈴を追う先は、普段は誰も足を踏み入れない“裏路地”へ。
そこは江戸の頃から姿を変えていないという、町の古傷のような場所だった。
だが、踏み込んだ瞬間、耳の奥にまたあの音が――。
記憶を狩る風鈴の“主”は、すでに待ち構えているのか。
第23話「裏路地の守り手」
――そこに住むのは、人か、それとも…。




