第21話 境内の鈴は誰が吊るした
昼下がりの本多家菩提寺は、真夏の白い空を背に、静かすぎるほど静かだった。
山門をくぐった瞬間、外よりも温度が一段下がったように感じる。
けれどそれは涼しさではなく、空気の質が変わったような、息の中に別の成分が紛れたような――そんな感覚だった。
藤次郎はトートバッグの紐を握り、横を歩く『あたし』に目をやる。
「……本当に、ここにも吊ってあるのか?」
『あたし』はわざと答えを遅らせるように、口の端だけを上げた。
「見てからのお楽しみよ」
たまが先導し、砂利を踏む音だけが境内に響く。
――たまからすれば、今日は散歩のはずだった。
なのに、空気はじっとりしていて、耳の奥がむず痒い。
「(ああ、これ、好きじゃない音の匂いだ)」
庫裏へ続く回廊に差しかかった瞬間――。
――チリン。
涼しげなはずの音が、どこか濁って耳の奥に残る。
音が止んでも、金属の粉が舌に触れたような嫌な感覚が消えない。
そこに吊るされていたのは、透き通ったガラスの風鈴。
胴には金色の梵字がひと筆だけ刻まれている。
普通なら御守りめいた厳かさを感じてもいいはずなのに、見れば見るほど、腹の底に冷えた泥水が溜まっていくような、不快な圧迫感があった。
「……普通の風鈴には見えんが」藤次郎が呟く。
『あたし』は小さく鼻を鳴らした。
「この梵字、経文の力を偽装してるわね。正玄の仕事じゃない」
「……これ、誰が夜中に“飾り付け”して回ってるんだよ。町内会の趣味にしては悪趣味すぎる」
「何を見とるんや、藤次郎くん」
背後から低く穏やかな声がした。振り返れば、正玄住職が立っている。
白い作務衣には汗一つなく、まるで風鈴よりも澄んだ空気をまとっていた。
「住職、この風鈴……」
「わしは吊っとらん」即答する声に、冗談の色は一切ない。
そこへ庫裏から、ショートパーマを揺らした絢子が顔を出す。
「兄さん、何しに来たん?」
「風鈴の調査だ」
「また面倒ごとかいね……」と口では言いつつ、彼女の視線もすぐにその鈴へ引き寄せられる。
正玄は軒先まで歩み寄る。
その動きは合気道の型のように、ゆるみなく滑らかだ。
「……この高さ、誰かが脚立を使わんと吊れんぞ」
『あたし』が眉をひそめる。
「じゃあ、いつの間に?」
「夜の間やろな」正玄は目を細めた。
「梵字は本物やが、込められた“音”は別や。これ、経文すらかき消すぞ」
藤次郎はバッグから町内会で預かった風鈴を取り出した。
「これと同じ現象が……」
――チリン。
境内の鈴が小さく鳴り、その音が空気をゆがませた。
途端に藤次郎の頭の中が白く塗りつぶされる。
「……今、何を……」
「やめとけ!」
正玄が一歩で間合いを詰め、藤次郎の肩を掴む。
触れた瞬間、濁った膜が剥がれ落ち、視界が澄んだ。
「間合いを詰めすぎや。……ほれ、その呼吸は悪うない」
褒められたのか叱られたのか、藤次郎には判別できなかった。
絢子が低く呟く。
「じゃあ、これ……外の風鈴とつながっとるんやね」
『あたし』は頷き、口元を引き締めた。
「ええ、根は同じ。音を伝わせて町中を網みたいにつないでる」
たまが唐突に唸り声をあげた。
耳は一点に向けられ、背中の毛が逆立っている。
「……来る」
『あたし』の声と同時に、松の影がふっと揺らめいた。
正玄は数珠を握り直す。
「境内に足跡を残したな。追うぞ」
たまが鋭く鳴き、地面を蹴る。
松林を越えると、涼しいはずの日陰で、また鈴が鳴った。
――チリン。
たまの尾がピンと立ち、弓なりの体勢で走り出す。
藤次郎もあとを追いながら、心の中でぼやく。
「……夜の散歩は好きだが、真昼間に怪異追跡ってのは聞いてないぞ」
小さな祠の前に差しかかった瞬間、黒い影が揺らぎ、地面に溶けて消えた。
たまは祠の前で踏みとどまり、鼻先を土に押し付ける。
「……匂いは?」藤次郎が尋ねる。
『あたし』が答える。
「残ってる。でも下へ逃げた」
正玄は祠の周囲を一周し、低く言った。
「祠の下に“抜け道”がある。この結界を潜れるのは限られた者だけや」
『あたし』は軒先を見上げる。そこにもやはり、あの梵字入りの風鈴が揺れていた。
「……これ、町ごと記憶を狩るつもりよ」
たまが風鈴の下に座り込み、尻尾をゆっくり揺らす。
その目は、「次に鳴らしたら壊す」と言っていた。
藤次郎は深く息を吐く。
「……つまり、この音の“主”はまだ町のどこかにいる」
正玄は頷いた。
「おる。しかも――おぬしらのことを、もう知っとる」
坂の下から吹き上げた突風が、祠の鈴を鳴らす。
――チリン。
藤次郎のこめかみに、冷たい汗がにじんだ。
次回予告
風鈴を網のように張り巡らせ、記憶を狩る“主”の存在が明らかになる。
藤次郎と『あたし』、そして正玄は、町中に散らばる鈴の位置を割り出すため、深夜の探索に乗り出す。
だが、その足取りを先回りする影が一つ――。
第22話「深夜の鈴狩り」
――静寂の中、響く音は罠か、道しるべか?




